第39話 孤独な戦い


 子供が搬送されたのは廊下の突きあたりにある緊急治療室ER。両開きの扉の上に「使用中」の赤いランプが点灯している。


 扉が開いて、中から無人のストレッチャーを引いた二人の救急隊員と母親が出てきた。母親は近くの長椅子に腰を下ろすと、両手を合わせて祈るような仕草をする。


 私は治療室の扉を押し開けた。

 間髪を容れず、医師と看護師の視線が私に向けられる。


「君は誰だ? ここは関係者以外立ち入り禁止だ。すぐに出て行きなさい」


 銀縁の眼鏡をかけた、目つきの悪い医師が強い口調で言う。

 その顔には見覚えがあった。


「お取り込みのところ申し訳ありません。私は東都大学医学部の学生です。決して怪しいものではありません」


 ぺこりと頭を下げて私は学生証を提示した。


「深見真と申します。免疫学・感染症学が専門で、新種ウイルスの共同研究に参加しています。本日はお願いがあって参りました。

 廊下で偶然耳にしたのですが、驚きを隠せませんでした。その患者の症状が、私が研究している新種ウイルスのものとあまりにも似通っていたからです。

 不躾ぶしつけなお願いで恐縮ですが、治療に立ち合わせてください。後学のため臨床現場を見ておきたいのはもちろん、研究がかなり進んでいることから、治療のお役に立てるのではないかと思います。よろしくお願いいたします」


 私が深々と頭を下げると、私のことを犯罪者でも見るような目でにらんでいた医師の顔に笑みが浮かぶ。

 その「人を馬鹿にしたような笑い」にも見覚えがあった。


「そうか。君が深見くんか。こんなところで会えるなんて思わなかったよ」


 医師の名前は「白石しらいし 利雄としお」。東都大学大学院教授で、私が大学院生だったとき、大変お世話になった男。もう少し言えば、私が所属していた感染症学研究室の代表で、出世のことしか頭にない、最低で最悪の男だ。

 出世のためには手段を選ばず、裏工作はお手のもの。成功はすべて自分の手柄で、失敗はすべて部下のミス。権力を笠に着るタイプで、自分より弱いと思った者に対しては鬼の首をとったように強気に出る。

 父が教授だったときは、コバンザメのようにくっついて「虎の威を借る狐」ごとく振る舞い、父が大学を去った後は、まるで自分が後継者であるかのような顔をしていた。患者に対して常に権威をひけらかし、上から目線で見下すような態度が目についた。


 白石のキャラが私の記憶をもとに作られているとしたら、イメージどおりの男だと考えていい。よりにもよって、ここでこの男に遭遇するとはついていない。


「深見くん、今は君の素性を大学に照会している余裕などないし、君の言う共同研究の内容を確認している暇もない。ただ、わたしは君のお父さんには大変世話になった。尊敬する医師の一人だ。そこで、邪魔にならないよう黙って見ていることを条件に立会いを許可しよう」


「ありがとうございます」


 白石の言いぶりは嫌みたっぷりの恩着せがましいものだったが、とりあえず第一段階がクリアできたことに安堵の胸をなで下ろした。


 私は医学部の学生ではあるが、医師の免許を取得したのは大学院に入学して実際に患者を診るようになってから。医療に従事できない人間がむやみに緊急医療の現場に立ち入ることは許されることではない。

 そんな中、白石が許可を出したのは、私が「深見一族」の人間だからに他ならない。白石の行動は常に「権威」に左右されるため、時としてルールを無視した、場当たり的な対応をとることがある。このときばかりは父に心から感謝した。


★★


 白石が子供の体温、心拍数、血液、脳波の状態を確認するよう看護師に指示する。

 渡された白衣をまとった私は、白石の背後から子供の様子を食い入るように見つめた。苦しそうな表情を浮かべ顔を真っ赤にして泣き叫んでいる。

 看護師が白石に対して、救急隊員と母親から聞き取った、これまでの経過を説明する。


「元気だった子供が、突然火がついたように泣き出したそうです。体温は三十八度を超えており、保冷剤で冷やしたものの効果はほとんどなく、十分ほどで三十九度に達したそうです。

 汗をかいていた服を着替えさせると、左右の肩甲骨けんこうこつの間に複数の色の線が浮かび上がっており、身体は熱いのにその部分だけはとても冷たかったとのことです」


 看護婦は、泣き叫ぶ男の子をうつ伏せに寝かせて肌着を脱がせる。左右の肩甲骨を結ぶ色鮮やかなラインが目に飛び込んできた。

 NLノーザン・ライトの症状に間違いない。十五年間、昼夜を問わず何千もの症例を見てきた私が見間違うはずなどない。


 医療用の手袋をはめた白石は患部を触診する。初めての症例に驚きを露わにしているようだ。

 口をとがらせて基礎データを確認していた白石だったが、子供の体温が四十度に近づいていることで、看護師に解熱剤の投与を指示する。予想どおりの展開だった。

 このタイミングで解熱剤を投与すれば、この子は間違いなく死亡する。是が非でも止めなければならない。


「先生、解熱剤の使用を待っていただけないでしょうか」


 白石の動きが止まり、見下すような視線が私に向けられる。


「深見くん、わたしが言ったことを忘れたのかい? 君は『邪魔にならないよう黙って見ていること』を条件にここに留まることを許されているんだ。にもかかわらず、君は黙っていない。明らかに邪魔になっている。

 なぁ、深見くん。寛大なわたしにも限度ってものがあるんだ。改めて言わせてもらうが……素人は黙ってろ!」


 私の申し出を一蹴すると、白石は看護師から解熱剤の座薬を受け取る。


「白石先生のおっしゃるとおり、私は医師の免許を取得していない素人です。ただ、この子供の症状を見る限り、私が研究している、新種のウイルスに侵されていることは明らかです。

 このウイルスの特性を分析した結果、解熱剤を使うことで患者が死に至ることがわかりました。

 お願いです。これから私が申し上げる治療法を試してみてください。十五分から二十分で効果が現れるはずです。もし二十分経っても容態に変化がなければ、解熱剤を使っていただいて結構です。お願いします」


 私は白石に向かって深々と頭を下げた。

 集中治療室ERに沈黙が流れる。救急車が到着したのか、微かにサイレンの音が聞こえる

 そんな沈黙を破ったのは、語気を荒らげた、嘲笑ちょうしょう混じりの言葉だった。


「具体的な対処法を提示するからには根拠があるんだろうな? わたしは免疫学や感染症学の分野ではそれなりの知識を有している。そんなわたしが全く聞いたことのないウイルスや治療法のことを、一介の医学生であるキミが得意げに語っている。はっきり言って、納得がいかないわけだ。

 もしそれが事実だとしたら、わたしのアンテナは全く機能していなかったことになる。それは、わたしの威厳に関わること――断じてあってはならないことなんだよ。

 深見くん、教えてくれ。それは、マウスを使った実験をそれなりにこなして、然るべき場で発表して、学会で市民権を得たものなのか? それとも、君の個人的な見解に過ぎないのか?」


 白石の顔が強張り、目許めもとがぴくぴくと震えている。頭に血が上っているようで状況はかなり厳しい。

 NLウイルスへの対処法は確立している。臨床実験の結果やWHO内の議論の内容も私の頭の中には全て入っている。説明は容易にできる。

 ただ、それはすべて二〇一五年の話であって、一九九三年の世界では、NL対策組織も存在しなければ、NLの対処法も確立していない。私が知っていることを包み隠さず説明したとして、白石が納得するとは思えない。それ以上に、未来の話を口にすることは絶対に避けなければならない。


「まだ学会には発表していません。ただ、それなりの効果はあがっています。もちろん、私の個人的な見解ではありません。先生、時間がありません! どうか私を信じてください! お願いします!」


 平身低頭の私を、白石が鬼のような形相で睨みつける。


「『私を信じろ』だぁ? そんな訳のわからない説明を聞いて『はい、そうですか』なんて言えるわけがないだろうが! 四十度を超える高熱がある患者を二十分も放っておいたらどうなる? 患者の脳に影響が出るのは常識だろうが? 医学生のくせにそんな簡単なこともわからないのかよ! もし患者に万一のことがあったら、誰が責任を取ると思っているんだ? わ・た・し・だ・よ。寛大なわたしからのラストメッセージだ。身の程と常識をわきまえろ!」


 白石の怒号と罵声が私に降り注ぐ。白石は「格下の者」に意見されることを忌み嫌う。プライドを傷つけないよう控えめな言い方に徹したつもりだったが、上手くいかなかった。

 ただ、このまま諦めるわけにはいかない。


「白石先生、どうか聞いてください。患者は延々と泣き続けることで、過換気症候群類似の状態にあります。言い換えれば、血液中のpHペーハー濃度は極度にアルカリ化しています。このウイルスは、抵抗力が弱い乳児の体内でしか生きることができません。しかも、アルカリ性が強い血液状態では活発化しますが、通常の状態では生き続けることはできません。

 もし解熱剤を投与すれば、ウイルスは活気づき、患者は百パーセント死亡します。体温が四十一度を超えれば脳に異常をきたす恐れがあることは理解しています。しかし、ここで体温を急激に下げる薬品を使えば取り返しがつかないことになります。

 ウイルスの影響でこの子の全身には激痛が走っています。泣き止むことはありません。子供のpHペーハーを酸性化する成分を投与してください。『エクシード』が常備されているはずです。エクシード投薬と同時に、保冷剤により頭部周辺を冷やすことで、体温が四十度を超えないようにしてください。その状態を二十分続ければ、このウイルスは消滅します。そうすれば、患者は間違いなく助かるんです!」


 私は必死に説得した。この子を助けられるなら何だってやる覚悟があった。

 しかし、私の思いは届かなかった。白石は私を小馬鹿にするように、ニヤリと薄ら笑いを浮かべた。


「これは驚いた。さすがは深見大先生のご子息だ。このわたしに意見するどころか、ありがたい御講義までしてくださるとは。わたしも舐められたものだ……いい加減にしろ! 何の責任も取れない、口先だけの青二才が! 今すぐここから出て行け!」


 白石に「瞬間湯沸器」というあだ名がついていたのを思い出した。こうなると手がつけられない。

 ただ、引き下げるわけにはいかなかった。白石の前にひざまずいた私は、床に両手と頭をつけた。


「無礼な態度をとったこと、心からお詫びいたします! 治療に対する責任については全て私がとります! 一筆書けと言えば書きます! 私ができることは何でもやらせていただきます! ですから、お願いです! 私の助言をお聞きください!」


 土下座をしたのは生まれて初めてだった。屈辱でないと言えば嘘になる。ただ、何としてもこの子を救いたかった。SJシステムが作り出したNPCであっても関係ない。「NLから子供を救えるなら何だってする」。いつからか、そう心に決めていた。

 相変わらずサイレンの音が聞こえる。救急車が救命救急センターの入口に到着したのだろう。


「深見……お前は馬鹿か! 土下座すれば済むと思っているのか? この常識知らずが! 一筆書くだと? お前、何か勘違いしていないか? お前の書いた紙切れが何の役に立つって言うんだ!? これ以上わたしを怒らせるんじゃない!」


 白石は解熱剤のパッケージを開き始める。頭に血が上ったこの男の前ではどんな言葉も無意味だった。

 小さな子供がこんなに近くで助けを求めているのに、私は何もできなかった。これでは十五年前と何も変わらないではないか。

 歯を食いしばって視線を床に落とした。汗に混じって涙がこぼれそうになった。


 そのとき、入口のドアが開いた。

 同時に聞き覚えのある声――さっきまで聞こえていた、穏やかで優しい声が聞えた。


「その一筆、僕が――十文字卓人が書きましょう」



 つづく

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