第34話 ずっとそばに


 部屋へ戻って窓際のソファに腰を下ろした。

 洗面所から聞えるのは、かをりがドライヤーで髪を乾かす音。

 音が止んだ瞬間、微かに虫の声が聞こえた。


「昼間は夏なのに、夜はすっかり秋だね」


 洗面所から戻って来たかをりが窓の外へ目を向ける。


「ああ。山は夜になると一気に気温が下がる」


 私はかをりの視線の先に目をやるように答えた。

 不意にドアをノックする音がした。続いて「お食事をお持ちしました」という、女性の声が聞えた。

 時刻は六時五十分。そろそろ夕食の時間だ。


 見る見る間に、和室の大きなテーブルがたくさんの料理で埋め尽くされる。

 仲居さんが手慣れた様子で一つ一つの料理を丁寧に説明する。私とかをりは真剣な顔で話に耳を傾けた。


「すごい、すごい!」


 仲居さんがいなくなった瞬間、かをりが興奮した様子で大きな声をあげる。


「次に何が出てくるのか期待しちゃう、ホテルのフルコースも捨てがたいけれど、一度にドーンとお料理が登場する、旅館の夕食も華やかでイイよね。いかにも『ご馳走』って感じがするもん」


 かをりはテーブルの料理に顔を近づけて、大きな目をさらに大きくする。小さな子供が遊園地に来たときのように目がキラキラと輝いている。


「よし、食べよう。何か飲む? アルコールじゃない方がいい?」


 クライアントとの飲み会であんなことがあっただけに、私は慎重になった。


「せっかくだから、ビールを一杯だけいただこうかな。は、お酒というよりセクハラがきっかけだったと思うの。ジュースで乾杯っていうのも味気ないでしょ? それに……」


 かをりは目を逸らして、少し恥ずかしそうな表情を浮かべる。


「バスタオル一枚のあたしが……裸の深見くんにキスされても大丈夫だったし……」


「わ、わかった! わかったから早く食べよう! 冷めないうちに!」


「うん。いっしょに食べよう」


 かをりの一言に顔から火が出そうになった。露天風呂の中にいるときはそうでもなかったが、思い出すと恥ずかしさがこみ上げてくる。はっきり言って心臓に悪い。


 テーブルを挟んで私たちは向かい合わせに座った。


「とりあえず、乾杯しよう」


「何に乾杯?」


 かをりは何か言って欲しそうな様子で私の顔をじっと見つめる。


「じゃあ、二人のこれからの健勝とますますの発展を祈念して――」


「ダメ、ダメ! それじゃあ、飲み会の堅苦しい挨拶じゃない! やりなおし!」


 間髪を容れず、ダメ出しが出る。


「わかった。じゃあ、二人の未来に……でどう?」


 恐る恐るかをりの方に目をやると、かをりの不満気な眼差しが私に突き刺さる。


「深見くん、わかってる? 今日が特別な日だってこと。深見くんとかをりさんが付き合うことになった記念日だよ? もう少し気持ちを込めてドラマチックに言って欲しいなぁ。じゃあ、Take Twoテイクツー!」


 かをりは右手でブイサインを作ってにこやかに言った。

 二週間後、私は東都大学大学院の入学試験を受けることになっているが、かをりの出題はその何百倍も難しい。しかもギブアップすることは絶対に許されない。やるしかないようだ。


「こうして二人が付き合うことになって……」


「はい! そこで、かをりさんに対する、深見くんの気持ちを込める!」


「かをりが苦しみから解き放たれて……」


「その結果、二人の未来は?」


「二人がずっと幸せでいられるように……」


「そして、深見くんの夢をかをりさんが全身全霊をかけて応援して、一日も早く夢が叶うように! カンパ~イ!」


 おどおどする私とのかをり。まるで私たちの力関係を象徴するかのようだった。

 ただ、この乾杯のおかげで夕食はとても和やかで楽しいものとなった。


 デザートを食べ終わって一休みしていると、仲居さんが夕食の片付けにやってきた。てきぱきと片付けを済ませた後、二人分の布団を敷いて「おやすみなさい」の挨拶とともに去って行った。


「かをり、大浴場へいかない?」 


「うん。そうする。あたしは一時間ぐらいかかると思うから、深見くんが部屋のカギを持って行って」


 意見が合ったところで、私たちは最上階にある大浴場へと向かった。


★★


 一足先に部屋に戻った私はソファに腰を下ろして、冷たい水でのどうるおした。


『今日はいろいろなことがあった』


 天井を眺めながら小さく息を吐いた。人生の中で五本の指に入るぐらい、印象深く、そして大切な一日だった。いや、にするのはまだ早い。私にはやらなければならないことが残っている。


 スポーツバッグから取り出した小さな包みを浴衣のたもとへ忍ばせた。それは、新宿へ行ったときに買ったもの。渡す機会がなければお蔵入りさせるつもりだった。


 午後十時を過ぎた頃、かをりが戻ってきた。

 部屋のドアが開いた瞬間、良い香りが鼻をつく。化粧品や香水ではなく石鹸の匂いだ。


「あぁ~良いお湯だった」


「かをり、何か飲む? 冷たいジュースとかお茶とか」


「ありがとう。でもね、お風呂を出たとき、喉がカラカラになってお水をたくさん飲んできたの。歩くとお腹がタプタプ音をたてるぐらいにね」


 かをりは浴衣の帯のあたりを両手でさすってみせる。


「かをり……これ」


 私は、浴衣のたもとに忍ばせた包みをかをりに渡した。


「えっ? なに? もしかして……プレゼント!?」


 かをりは目を大きく開いて両手で口元を押さえる。

 私は照れ笑いを浮かべて小さく頷く。


「プレゼントなんて呼べる代物ではないが、キミにはずっとお世話になっているのにこれまで何もしてあげられなかったから。

 でも、せっかく箱根へ来たんだから、箱根でキミが気に入ったものを買えばよかった。そこは目をつむって欲しい。改めて言う話じゃないが、今まで本当にありがとう」


 かをりは受け取った包みを感慨深そうに見つめる。


「開けてもいい?」


「いいよ。でも、イマイチかもしれない。女の子にプレゼントを買うなんて生まれて初めてだから」


 かをりは青いリボンを解いて包装紙を丁寧にいでいく。そして、箱のふたをゆっくりと開けた。

 そこには、二頭のイルカをかたどった、銀色のドルフィン・リングがあった。

 かをりはリングを自分の手のひらに乗せて、時間が止まったように動かなくなった。


「……イマイチだった?」


 心配そうに尋ねる私に、かをりは何度も首を横に振る。


「そんなことない。全然そんなことない。うれしい。すごくうれしい……深見くん、お願いがあるの」


 かをりはゆっくり立ち上がって揺れる瞳を私に向ける。


「このリングをあたしの薬指にはめて欲しいの。サイズが合わなかったら諦めるから」


 かをりがドルフィンリングを差し出す。

 私はかをりの左手をとって薬指にリングをはめた。サイズはぴったりだった。

 その瞬間、かをりが私の胸に顔をうずめた。


「深見くん、愛してる。いなくなったら寂しくて死んじゃうぐらい愛してる。あたしが死ぬまでずっといっしょにいてください」


「約束する。死ぬまでキミのそばにいる」


 かをりのうるんだ瞳が真っ直ぐに私の方を向く。安心したような笑みが浮かんでいる。

 細い腰を抱き寄せると二人の間の距離がなくなり、どちらからともなく唇を重ねた。

 距離が無くなった状態はとても心地良く、その夜、私たちは決して離れることはなかった。



 つづく

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