第32話 旅の宿


 箱根湯本駅で箱根登山鉄道へ乗り換えた。

 ロマンスカーの車中での出来事が夢か現実か理解できていない私は、かをりの顔をまともに見ることができなかった。

 かをりはと言えば、窓の外を見ながらいつもの調子でしゃべり続けていた。いや、いつもよりテンションが上がっているように見えた。


 三十分が経った頃、電車は宮ノ下駅に到着する。改札を出た瞬間、温泉地特有の硫黄いおうの臭いが鼻をついた。

 ただ、あたりの様子は、ドラマなどに登場する温泉地とは雰囲気が少し違う。

 宮の下は、江戸時代に豪商の湯治場として栄えた温泉地ではあるが、明治時代に外国人向けのリゾートとして再開発が行われたためハイカラな造りの温泉宿や土産店が軒を連ねる。昔ながらの温泉街と言うより、お洒落な温泉リゾートと言った方がしっくりくる。


 右手で自分のスポーツバッグを抱え、左手でかをりのキャリーバッグを引きながら石畳の路地を上がっていく。想定外の重さのキャリーバッグと想定外の急坂が、私に想定外の重労働を課す。

 顔中汗まみれになりながら坂を上り切ったとき、目の前に、歴史を感じさせる、瀟洒しょうしゃな建物が姿を現した。門には「箱根宮ノ下温泉 優月庵ゆうづきあん」と書かれた、木製の古めかしい表札。ここが私たちの今夜の宿泊場所だ。

 こじんまりとした建物ながら「高台にたたずむ静かな温泉宿」という触れ込みどおり落ち着きが感じられる。実物を見てがっかりするパターンも多いが、この宿は当たりかもしれない。


 バッグを開けて旅行会社から渡された予約表を探していると、どこからか私の名前を呼ぶ声がする。


「深見く~ん! 早くおいでよ~! 『歓迎 深見様』って書いてあるよ~! 部屋へ案内してくれるって!」


 旅館の玄関の前で、かをりが小さな子供のように大袈裟に両手を振っている。着物をまとった、五人の従業員が並んで一礼をする。


 フロントで宿帳を書いた後、三〇一号室と書かれたカギを受け取り、宿泊に関する説明を受けた。


「――ご予約された貸切風呂は、お部屋から少し離れた高台にあります。ただいま時刻は午後四時四十分ですので、五時二十分から六時二十分までの一時間のご利用とさせていただきます。こちらが露天風呂のカギとなります。お手数ですが、後程フロントまでご返却願います。

 貸切ではありませんが、本館にも大浴場があります。午前六時から午後十一時五十分までの入浴が可能となっておりますので、こちらもご利用ください。

 夕食は午後六時五十分頃、朝食は午前八時頃、それぞれお部屋の方へご用意させていただきます。係の者がお部屋までご案内いたします。ごゆっくりおくつろぎください」


 フロント係の接客はとても親切でわかりやすく「流石は老舗しにせ旅館」と思わせるものだった。

 第一印象で不快な思いをすると、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ではないが、粗探しをする客が多くなるらしい。フロント係は文字通り「旅館の顔」であり、評判の良い旅館はそれなりの者を配置しているのだろう。


 仲居さんに案内されて、私たちはエレベーターで三〇一号室へと向かった。

 部屋は小奇麗な和室と二畳程の板間。和室と板間にはそれぞれテーブルとイスが置かれている。

 和室の座いすに隣同士座って、お茶を飲みながら一息ついた。


「深見くん、今日は朝早くから大変だったね。本当にお疲れ様」


 かをりは柄にもなく、しおらしく頭を下げる。


「かをりの方こそいろいろあって疲れたんじゃない? 風呂に入ってゆっくりするといい」


「ありがとう。でも、かをりさんは全然平気。元気百倍って感じだよ。お風呂に入ったら元気二百倍ぐらいになるかもね。

 どんなお風呂なのかな? すごく楽しみ。貸切時間は五時二十分から一時間だから夕焼けと星が両方見られるんじゃない? この絶妙な時間帯を押さえるなんて、深見くん、キミはなんて偉い子なの」


 かをりは私の左腕に両手を絡ませて満面の笑みを浮かべる。

 思わず目を逸らした。脳裏にロマンスカーの出来事が蘇ったから。


「どうして目を逸らすの? 何か後ろめたいことでもあるの?」


 私の左腕を揺すりながら、かをりは首を傾げていぶかしそうな顔をする。


「な、何言ってるんだ。あるわけないだろ。後ろめたいことなんか」


「それならいいけど。じゃあ、そろそろ行かない? お風呂」


 その瞬間、すっかり忘れていた「あること」が頭に浮かぶ。

 電話で箱根行きの話を切り出したとき、かをりは「温泉にいっしょに入る」と言っていた。あのときは口から心臓が飛び出しそうなくらい驚いたが、その後、私の中では「冗談」で済ませていた。

 しかし、今の状況からすると、冗談とは思えない。心拍数が速くなっている。宮の下から急坂を登ったときの比ではない。


「あのぉ……かをり?」


「な・あ・に・?」


 恐る恐る声を掛ける私に、かをりはご機嫌な様子で答える。


「風呂のことだけど……いっしょでいいのか?」


 にこやかだった、かをりの顔が見る見る間に曇っていく。


「深見くん、それってあたしといっしょに入るのがイヤだってこと?」


「ち、違う! 逆だよ、逆! かをりが恥ずかしいんじゃないかと思って……」


「どうして? カギを掛ければ誰も入って来られないし、高台だから覗かれる心配もないよ。もし出刃亀でばかめが出たら、深見くんがあたしの前に立って見えなくしてくれたらいいし」


「いや、そうじゃなくて……その……私がかをりの裸を……見てしまうから。いや! もちろん自分からは見ないようにするが……! 不可抗力で見えることもあるし……私も男だから間違いがあってもいけないし……」


 下を向いて小声で呟いた。自分でも回りくどい言い方をしているのがわかる。

 すると、そんな私の態度に業を煮やしたのか、かをりが語気を荒らげた。


「深見くん! かをりさんといっしょに入りたくないなら無理しなくていいよ! 入るの? 入らないの? どっち!?」


「……入ります」


 私たちは浴衣に着替えて貸切風呂へと向かった。


 脱衣所では背中合わせになって衣服を脱いだ。

 会話が途切れて静寂が訪れる中、衣擦きぬずれの音と微かな息遣いが聞こえる。

 私は素早く腰にタオルを巻きつけると、逃げるように露天風呂へと向かった。



 つづく

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