第33話 星降る夜の物語


 脱衣所の引き戸を開けると、白い湯気が立ち上る、岩造りの露天風呂が目に飛び込んできた。

 自宅の風呂より少し大きめのものを想像していたが、大人五、六人がゆったり入れそうな、立派なものだった。


 周りには、私の背丈ほどある樹木と腰ぐらいの高さの柵がほどこされ、外からは見えないようになっている。ただし、樹木が間引きされているところがあり、湯船に浸かりながら眺望を楽しむことができる。細やかな気配りが感じられる。

 引き戸の上部に大きめのデジタル時計が設置されているのは、貸切時間を超過しないよう促す目的があるのだろう。


 湯船の外に立っているのもどうかと思い、掛け湯をして身体を湯船に沈めた。

 少し粘り気のある、熱めのお湯が身体を包み込む。疲れが抜けていくような、心地良さを感じた。いつも入っている風呂とは明らかに違う。改めてSJシステムの素晴らしさを実感した。


 温泉に入るのはいつ以来だろう? 渡米してからは入った記憶がない。学会や会議で何度か帰国したが、スケジュールがハードで温泉地へ立ち寄る余裕などなかった。

 岩を枕にして湯船の中で大の字になった。あんなに青かった空はほとんどオレンジ色に変わっている。


「湯加減どう?」


 扉が開く音と同時にかをりの声が聞こえた。

 るような体勢で声の方に目をやると、そこには、胸から腰に白いバスタオルを巻いた、がいた。

 条件反射のように、大の字にした身体を折りたたんで姿勢を正した。


 普段はボーイッシュな雰囲気で化粧っ気もなく、お世辞にも色っぽいとは言えないかをりだが、今は違う。

 これまで気づかなかったが、かをりはスタイルがとてもいい。バスタオル一枚の状態になって身体のラインがくっきり浮き出ている。

 うれしくないと言えば嘘になるが、目のやり場に困る。場合によっては、お湯から出られないかもしれない。


「かをりさん、温泉は好きだけれど、熱いお湯はあまり得意じゃないの。そんなに長くは入っていられないの。深見くん、熱くない?」


 掛け湯をするかをりが顔をしかめながら尋ねる。


「そ、そうだな。初めに下半身だけ湯船に浸かって、身体が馴染んできたら肩まで浸かればいい。お湯が出ている場所から離れていればそんなに熱くもない」


 私はあえてかをりの方を見ないように答えた。


「わかった。半身浴してみるね。それと、深見くん?」


「なに?」


「湯船に入るときは、バスタオルをとるのがマナーだよね?」


 初めてノーザンライトNLに遭遇したときのような衝撃が走った。

 私の脳裏に、バスタオルをはずして下半身だけ湯船に浸かっているかをりの姿が浮かぶ。少しずつ細部が鮮明になっていく。

 妄想を振り払うように頭を左右に振った。そんな場面に遭遇したら卒倒しかねない。


「そんなマナーは聞いたことがない! バスタオルを巻いたまま入るのが自然だと思う! 私だってタオルを巻いている……! そうだ! TV番組で温泉を取材するレポーターはみんなバスタオルを巻いている! その方が芸能人みたいでカッコいい!」


 自分でも何を言っているのかわからなかった。こんな説明でかをりが納得するとはとても思えない。


「じゃあ、そうしようかな」


 私の不安をよそに、かをりはバスタオルを巻いたまま湯船に入った。半身浴をしながら熱さを我慢するような表情を浮かべている。

 私は安堵あんどの胸を撫で下ろした。


★★


 並んで岩にもたれかかるようにして景色を眺めた。

 夕焼けが空一面を覆い、山の輪郭がオレンジ色に縁取られている。


「……夕焼けの火が燃え移って、山が火事になったみたいだ」


 私がポツリと言ったひとことに、かをりはため息をつきながら首を左右に振る。


「ムードが台無し。ここは『ステキな景色だね』とか『幸せな気分で一日が終われそうだね』なんてロマンチックな台詞が出てくる場面だよ。なんだかなぁ……でも、深見くんらしいと言えばらしいね」


 かをりは小首を傾げて笑った。


 夕闇が降りるにつれ、オレンジ色だった山々は真っ黒なシルエットに変わっていく。

 その様子を眺めていたかをりは、何かを思いついたような顔をする。


「これって……山火事のあとの燃えカスっぽくない?」


「かをり、それはムードもへったくれもない台詞だ」


 私たちは顔を見合わせて声をあげて笑った。

 ムードのある会話ではないが、とても楽しい時間が流れていく。


「深見くん、あれ見て!」


 突然かをりが宇宙そらを指差した。

 あたりは真っ黒な闇に包まれ、私たちの頭上には天然のプラネタリウムが広がっていた。

 夜の暗幕に無数の宝石が散りばめられ、それぞれが不規則な輝きを放っている。普段、肉眼では見えない星まではっきりと見ることができる。


「星が降ってきそうだ。これならいつ流れ星が見えてもおかしくない。かをり、今のうちに願いごとを考えておいた方がいい」


「願いごとか……」


 微かな声が聞えた。同時に、かをりの右腕がわたしの左腕に絡みつく。

 露天風呂に電灯は設置されているが、私たちのいるところは薄暗い。しかし、これだけ距離が近ければ、表情ははっきりと見て取れる。

 白い肌が温泉の熱気で上気じょうきし、潤んだ瞳が私を見つめている。私が初めて目にするかをりだった。


「あたしが何をお願いしたいかわかる?」


 かをりの右手の五本の指が私の左手の指と指の間にスルリと滑り込む。


「深見くんにしかできないこと……聞いてくれる?」


 かをりは私に身体をぴったり寄せると、息がかかりそうな距離に顔を近づけた。呼吸が苦しいのは温泉に入っているせいではない。


「な、何かな? かをりのお願いって」


 私の言葉にかをりは恥ずかしそうに目を伏せる。


「ロマンスカーの中で言ったことの……返事を聞かせて欲しい」


 私は思わず息を飲んだ。やはり箱根湯本での出来事は白日夢などではなかった。そして、かをりはその答えをずっと待っていた。

 はっきり言って、私は鈍い。情けないほど鈍い。いや、もしかしたら、かをりの気持ちに気づいていながら逃げていたのかもしれない。

 かをりの身体が微かに震えている。もちろん寒いわけではないだろう。


「……かをり、私も願いごとを考えた。三つある。聞いて欲しい」


 私が息を吐き出すように言うと、かをりは黙って小さく頷く。


「一つめは、この鈍い性格を直したい。ごめん。キミに恥をかかせて」


 かをりは首を何度も横に振る。


「二つめは、キミを苦しみから解放したい。どんなことをしても」


 かをりは「うんうん」と笑顔で頷く。


「三つめは、こんな風にずっとキミの隣にいたい……ずっとキミを好きでいたい」


 かをりは驚いた様子で顔を上げた。

 次の瞬間、その瞳から真珠のような涙が流れ落ちる。

 満天の星が一段と輝きを増したような気がした。


「……深見くんの三つめの願いごと。あたしの願いごとと同じだね」


 かをりは私の顔を見つめて静かに瞳を閉じる。行き場を失った真珠の粒が輝きを放ちながらあたりに飛び散る。

 唇が重なり私たちは一つのシルエットに変わった。

 時折星が流れていく宇宙そらのもと、静かな時間ときがゆっくりと流れていった。



 つづく

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