第35話 もどかしさのなかで
★
あたりは深く白い
水を打ったような静寂に包まれ、聞えるのは自分の息遣いと心臓の鼓動だけ。
横たわる身体が浮かんでいるような感覚がある。
現実世界であれば「夢」で片付けてしまう状況だが、SJWは夢の概念が存在しない。
全身を脱力感に似た心地良さが包み込む。
しかし、これは夢でもなければ現実でもない――おそらく、過去の出来事だったり、昔見た夢だったり、どこかで巡らせた妄想の
現在と過去が交錯し、夢と
少しずつ
★★
私の目に見慣れぬ天井が映った。
カーテンの
右手の感覚がマヒしている。
そこには、私の右腕を枕代わりにする、かをりの姿があった。顔をこちらに向けて両手を私の身体に添えるように眠っている。サラサラの前髪の
しばらく寝顔を見つめていた私だったが、見るだけでは飽き足らず、前髪に触れて左右にかき分けてみた。
すると、違和感を覚えたのか、かをりは自分の右手を前髪へと運ぶ。そして、私の左手に触れる――その瞬間、かをりの右手が私の左手を強く握った。
かをりは顔を
そんなもどかしい時間が流れる中、かをりは薬指のドルフィン・リングをじっと見つめた。
「……夢じゃなかった」
かをりはホッとした様子で、つないだ手を私の胸の上に置いた。
「リングが消えてキミが何も憶えていなかったらどうしようかと思った。これまでそんな夢ばかりだったから」
「大丈夫。これからはそんな夢は見ない。私がいつもいっしょにいるから」
私は感覚を失った右手でかをりを抱き寄せた。
「女が抱かれたいと思うのは、どんなときだと思う?」
唐突な質問に私は首を傾げて「わからない」といった仕草をする。
「二つあるの。一つは、何かを忘れたいとき。もう一つは、何かを忘れたくないとき……今のあたし、どっちだかわかる?」
私が再び首を傾げると、かをりは自分の身体をピッタリと寄せる。
「もちろん、後者。キミのこと絶対に忘れたくない。どんなことでもずっと憶えていたい」
かをりは私の上に身体を移動する。そして、荒い呼吸をしながら自分の唇で私の唇を塞いだ。
それが何かの合図であるかのように、私はその細い身体を折れるくらいに抱きしめた。
互いの距離がゼロになると、今度は自分の身体が邪魔に感じられる。身体の一部は一つになれるのに、全体は一つにはならない。そんなもどかしさが後押しするように私はかをりを強く抱いた。
★★★
朝食をとって旅館を出る頃には、真っ青な空が広がっていた。秋晴れを絵に描いたような、気持ちの良い日だった。
かをりは、白と黒のチェック柄のノースリーブのワンピースに七分袖の白っぽいツイードのジャケット。昨日と同じサンダルを履き、あげた前髪をカチューシャで留めている。
前日の花柄のワンピースに麦わら帽子の出で立ちも可愛らしかったが、モノトーンのファッションに身を
「深見くん、今日はどこへ連れてってくれるの?」
「天気が良いから、午前中はロープウェイで『大涌谷』まで行って富士山を見ようと思う。午後は『箱根強羅公園』と『彫刻の森美術館』あたりに行こうかと思っている。新宿には午後六時半頃到着するから食事でもして帰ろう。かをりは仕事で来ているからあまり珍しくもないと思うが」
かをりは私の言葉を打ち消すように首を横に振る。
「箱根のロープウェイって乗ったことないの。一度乗ってみたかったんだ。それに、富士山好きなんだ。日本人はやっぱり富士山だよね。そうそう、大涌谷へ行ったら温泉たまごを食べるのを忘れないようにしないと。それから、強羅公園や彫刻の森美術館は何度かお仕事で行ったけれど、季節によって雰囲気やイベントも変わるんだよ。深見くんといっしょならどこでも楽しそう」
かをりはかなりテンションが上がっている。他愛もない話をしながら歩いていたら、箱根登山鉄道の宮ノ下駅に到着した。
箱根登山鉄道で強羅駅まで行って、そこでケーブルカーに乗り換えて早雲山駅へ、さらに箱根ロープウェイで大涌谷駅へ行く。片道四十五分といったところだ。
かをりを売店の脇で待たせて切符を買いに行った。
しかし、自販機の前で財布の中身を確認すると、小銭が五十円足りない。有人の窓口はかなり混雑しており一万円札を両替するのは気が引ける。かをりに借りるのが得策かと思った。
かをりは誰かと話をしている。相手はアメリカ人と
かをりがどの程度英語を話せるのかわからなかったため、いつでも助け舟を出せるよう、足早に彼女のもとへと向かった――が、それは全くの取り越し苦労に終わる。
かをりは、観光地の案内だけでなく、日本の習慣や文化についての説明も涼しい顔でこなしていた。しかも、老夫婦の故郷であるテキサス州ダラスの世間話にも受け答えしている。
「かをり、キミの英語力は素晴らしい。どこかで習ったことがあるの? それとも留学経験でも? もちろん二十歳以降の話だ」
老夫婦が立ち去った後で、思い切ってかをりに尋ねてみた。
「かをりさんは留学なんかしてません。『駅前』も含めてね」
私の質問にかをりは冗談交じりに答える。
「記憶は失っても身に付けたスキルやノウハウはそのままってことかな? 昔英語圏に滞在してたりしてね。でも、今のあたしには全く見当がつかない。考えようによってはすごく不気味。だって、勝手に英語が口から出てくるんだもん。しゃべっているのは、あたしじゃないみたい……あっ、大丈夫だよ。これからは深見くんがずっといっしょだから」
かをりは左手のドルフィン・リングをこれ見よがしに掲げて満面の笑顔を浮かべる。
以前のかをりなら、そんな不安を自分の中に溜めこみ苦しんだのかもしれない。しかし、今のかをりには「絶対に負けない」という、前向きな姿勢が感じられる。これなら来週の検査も心配はなさそうだ。
今回箱根に連れてきたのは正解だった。もちろん、私たちの距離が縮まったという意味でも良い選択だった。
しかし、ますますSJWから離れることができなくなった。
村上の話では、SJWは一九九三年から十年間しか再現されていない。出発するときはそんなに長居するつもりはなかったため心配はしていなかったが、今となっては大問題だ。
二〇〇三年以降はどうすればいいのだろう? 少なくとも一旦現実世界に戻る必要がある。そうなれば、私がいなくなった時点で、ホストコンピューターにより修正が加えられ、かをりの記憶から私が消えてしまうのではないか? 十年先の話ではあるが、考えると頭が痛い。
「深見くん、何やってるの? 電車が来ちゃうよ」
かをりが笑顔で手を振っている。
今私がすべきことは、この笑顔を全力で守ることだ。
私はかをりを幸せにしたい。そして、私自身も幸せになりたい――ここSJWで。
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます