第3話 未知遭遇


 自動ドアが開いて赤ん坊を乗せたストレッチャーが入ってくる。

 付添いの救急隊員三人の後ろには赤ん坊の両親と思しき二人が続き、泣きじゃくる赤ん坊を心配そうに見つめている。


「患者を第一特別治療室へ搬送してください。お父さんとお母さんはマスクと手袋をつけてください。感染症を想定した対策をとらせてもらいます」


 ストレッチャーを廊下の突き当たりの部屋へ誘導した私は、赤ん坊を治療用のベッドへ移した。マスクと手袋を装着した七人がベッドを囲む。


「これまでの経緯を教えてください。ご両親からお願いします」


 私の問い掛けに父親が少し慌てたように口を開く。


「三十分程前のことです。生後六ヶ月の息子が突然激しく泣き出しました。いつもの夜泣きかと思い家内が対応しましたが、とても苦しそうでした。熱を測ったら三十八度二分。汗がひどかったので着替えをしたところ、背中に見たことのない模様が浮かんでいるのに気づきました。体温が三十八度台になったのも初めてなら、こんな症状が出たのも初めてで、すぐに救急車を呼びました」


 父親の説明が終わったのを確認して、初老の救急隊員が小さく手をあげる。


「僕は救急業務に三十年従事しています。でも、こんな模様は見たことがありません。それに、患者を搬送する十分足らずの間に体温が一度以上あがったのにも驚きました」


「現在の体温と心拍数は?」


 私の問い掛けに看護師がベッド脇の計器に目をやる。


「体温は三十九度四分。心拍数は二〇三です」


 この時期の乳児の体温は三十六度から三十七度。心拍数は一一〇から一四〇。どちらも基準値をはるかに超えている。数分のうちに体温が急上昇したのも異常としか言いようがない。

 いずれにせよ、体温が四十一度のラインを超えるのは絶対に避けなければならない。体内のタンパク質が固まり、脳に異常が生じる可能性が高くなる。今は熱を下げることが最優先だ。


「息子さんはこれまで大きな病気をしたことがありますか? それから、食べ物によるアレルギー症状や投薬による異常が生じたことはありますか? それ以外に医師から注意するよう言われたことがあれば、併せて教えてください」


 既往症の確認をすると、両親は顔を見合わせて「特にありません」と答える。通常の解熱剤を投与しても問題はなさそうだ。


「体温が四十一度を超えると脳に障害が生じるおそれがあります。そこで、体温がそのラインを超えないようにすることを第一に考えます。解熱効果のある坐薬・アセトアミノフェンを使用します。この薬は、世界中で赤ちゃんに投与されている、ポピュラーなもので、副作用の報告もほとんどありません。

 熱が下がれば呼吸も楽になって脈も落ち着くでしょう。容態が落ち着いたら、改めて小児科の専門医の診断を仰ぎます。そのような対応でよろしいでしょうか?」


 両親が了承するのを確認して、私は看護師にアセトアミノフェンを準備するよう指示した。体温の表示は三十九度七分。心拍数は二〇八。この短時間で数値はさらに上昇している。予断を許さない状況だ。


★★


「では、解熱薬を使う前に、先程お話のあった、背中の模様を見せてください」


 両親は泣きじゃくる赤ん坊の肌着を脱がせてうつ伏せに寝かせた。


「これは……」


 思わず言葉を失った。赤ん坊の背中には、左右の肩甲骨をつなぐように色鮮やかな帯状の線が何本も浮き出ていた。

 赤・白・黄・緑・紫。一見しただけで五色が確認できた。それぞれの線は不規則に波打っている。虹のように明るい鮮やかな色ではなく、パレットに乗せた絵の具に汚れた水をたらしたときのような、滲んだ色だった。


 赤ん坊の身体は高熱により火照っているにもかかわらず、模様の部分だけが異常に冷たく、まるで氷にでも触れているようだった。

 私の脳裏に的を射た喩えが浮かんだ。それは、北極や南極の上空で見られる、大気の発光現象「オーロラ」。色合いだけでなく、患部が冷たかったことが極寒の地のイメージにつながったのかもしれない。


「少し時間をください。この状況を免疫・感染科の専門医に報告して判断を仰ぎます。特別な対応が必要になるかもしれません。

 それから、昨晩二十時以降、患者と接触した人が私たち七人以外にいますか? 皆さんが患者と接触した後、他の誰かと接触しましたか?」


 両親は顔を見合わせると首を横に振る。三人の救急隊員も同様のリアクションを見せる。とりあえず、患者を含む八人がこの部屋から出なければ問題はない。


 大学入学から十二年間、私は父に言われるままに免疫や感染をテーマに研究を重ねてきた。大学院に進学してからは、様々な症例を自分の目で確認するとともに、父から特異な症例について教え込まれた。経験年数以上のノウハウを有しているという自負がある。

 ただ、こんな症例は見たことも聞いたこともない。もしかしたら、私が知らないだけかもしれない。そうであれば問題はない。しかし、今は「そうではない場合」のことを考えておく必要がある。


 私がすべきことは二つ。一つは、これが新種の感染症であるといった想定のもと、感染拡大の防止策を講じること。もう一つは、この赤ん坊の命を救うためにできる限りの治療を施すこと。

 そのためには、私より経験も知識も豊富な専門医の判断が必要不可欠だ。


 真夜中ではあったが、躊躇ためらうことなく電話をかけた。

 相手は免疫・感染科の先輩医師で、小児医療にも精通している浅野助教授。この状況を打破するためのキーマンとして彼以上の者を思い浮かべることができなかった。


 十回目のベルが鳴ったとき、浅野先生が電話に出る。

 これまでの経緯と対応を簡単に説明しアセトアミノフェン投与の可否を尋ねた。


「問題はないと思うが、念のため、患者の症状を見てみたい。今からそちらへ向かうので対応を待って欲しい。十五分もあれば行ける」


 浅野先生が治療に立ち会うことになった。

 私は肩の荷が下りた気がして、電話を切った瞬間、安堵の胸を撫で下ろした――が、そのときだった。


「先生! 赤ちゃんの体温が上昇し始めました! 三十九度八分……九分……四十度を超えました! 心拍数も二一〇を超えています!」


 赤ん坊の状態を確認していた看護師が突然大きな声をあげた。

 数値計の体温と心拍数が急激に上昇している。赤ん坊の泣き声が小さくなり、代わって、喉の奥からしゃっくりのような音が聞える。白眼をむいて唇を小刻みに震わせている。高熱によるひきつけの症状だ。

 体温は四十度二分。このままでは四十一度に達するのは時間の問題だ。薬の効果が現れる時間を考えれば、浅野先生の到着を待っている余裕はない。


「高熱で赤ちゃんがひきつけを起こしています。専門医の診察を待って対応する予定でしたが、それを待っていては患者が危険です。すぐに解熱薬を使います。その後もひきつけが続くようなら痙攣けいれんを抑える薬を投与します」


 母親は今にも泣き出しそうな表情を浮かべ、父親は訴えかけるような眼差しで私を見つめる。

 そんな二人を後目に、私は赤ん坊に解熱薬を投与した。


★★★


 三分が経った頃、解熱薬の効果が現れる。体温は三十六度六分。心拍数は一二〇。どちらも正常値に回復し、ひきつけも治まった。

 喉が渇いていたらしく、赤ん坊は哺乳びんに入れたリンゴジュースを飲み乾すと、天使のような表情で眠りに着いた。

 峠は越えた。後は浅野先生の到着を待って指示に従うだけだ。張りつめた空気が緩み、両親や救急隊員の顔にもホッとした表情が浮かぶ。


 赤ん坊の背中に浮き出ていたオーロラ模様は跡形もなく消え失せていた。

 天井に設置されているカメラで治療の様子は撮影されていることから、状況を報告することはできる。ただ、解熱とともに模様が消えてしまったことがどうにも腑に落ちなかった。

 手袋をしたまま肩甲骨の間に手をやると、先程と同じ、ひんやりとした感触が残っていた。


『ピーーーーーーーーーーーーーッ』


 不意に無機質な機械音が響き渡る。

 それはベッドの脇にある数値計が発した警告音――心拍数の数値がゼロを示していた。


 何が起きたのか理解できなかった。

 ただ、一つ言えること――それは「赤ん坊が心肺停止の状態にある」ということだった。


「緊急事態です! 患者の心臓が停止しています! 電気ショックによる心臓マッサージを行います! ナースステーションに電話をして強心剤の準備を! それと外科医の藤代先生と看護師に応援要請を!」


 第一特別治療室に私の声が響き渡った。

 狐にでもつままれたような思いだった。電極を赤ん坊の胸に押し当てて祈るような気持ちでスイッチを押した。

 私の身体が小刻みに震えていたのは、電気ショックの余波のせいではなかった。



 つづく

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