第18話 715の大ピンチ


「トワイライトの編集者なんだ。あのボーイッシュ」


 その日の夜、私はベッドに横になって昼間あったことを思い返していた。

 結局ボーイッシュから借りたハンカチは使わなかった。色が白ということで、洗っても血の跡が残ってしまう気がしたから。


 それにしても、ボーイッシュと接した数分間は不思議な時間だった。

 自分からぶつかっておきながら、散々文句を言って、散らばった原稿用紙を拾わせたあげく、風のように去って行った。


 私たちがいたところだけ時間の流れる速さが違う気がした。

 喩えるなら、C・チャップリンのサイレント映画を見ているような感覚。ボーイッシュは、主役を務めるチャップリンのように最初から最後まで忙しく動き回っていた。


 ドラマや小説の中で使い古された展開であり、ある意味、現実離れした時間だった。

 しかし、実際にハンカチと名刺がここにあることを考えれば、決して夢ではない。ボーイッシュは、紛れもなく存在している――SJシステムが作りあげたNPCとして。


 月刊トワイライトというのは、夕日出版社の看板誌。母が昔から購読していたことで、私も時々目を通していた。

 twilightトワイライトというのは夕日が沈み始めてから夜の闇に包まれるまでの時間。いわゆる「夕暮れ」。

 雑誌のコンセプトは、名前が示すとおり、夕日の後で空を彩ること。つまり、夕日新聞に掲載された記事のうち読者の反響が大きかったものを、わかりやすく掘り下げていくもの。


 もともと新聞は新しい情報を読者に提供することが使命であり、一度掲載した記事を、紙面を割いて掘り下げていくようなことはあまり行わない。

 そこで、トワイライトがその役割を担っている。


 政治・経済・社会・法律・外交といった固い内容から、スポーツ・芸能・映画・旅行・グルメといったエンタメまで内容はバラエティに富み、記事の質が高いこともあって、幅広い層の読者に支持されている。日本ではそのネーミングを知らない人はほとんどおらず、アメリカでも英語版が発行されていた。


 中学や高校の頃は内容が理解できない記事もあったが、文章は読みやすく、流れや構成は同じ文章を書く者としてとても参考になった。医師になってからは「患者の立場に立った医療のあり方」、「医療事故発生のメカニズム」、「医療コンプライアンスの重要性」といった特集記事に目を通した。

 食い入るように読んでしまったのは、売り上げ増を狙った、根拠のない批判記事や、どこかのプレッシャー団体から金銭をもらって書いているのが見え見えのやらせ記事ではなく、「中立な立場からの提言」といった印象を抱くものだったから。

 結果として、提言のいくつかが世論を動かし、医療制度の変革に少なからず影響を与えたものと記憶している。


 ちなみに、夕日出版に勤めていると思っていた矢波のことを母に尋ねたところ、夕日出版に就職したものの一年も経たないうちに退職したとのことだった。

 当時の私は多忙を極めており、矢波が就職してからほとんど話をする機会がなかったため状況が把握できていなかった。まさに勘違い以外の何物でもなかった。


★★


 次の日の朝、私は「715」の入った封筒を持って近所のコンビニへ出掛けた。

 前日ボーイッシュとぶつかったとき、原稿の一部がくしゃくしゃになったことから、そのコピーをとるためだ。


 コンビニのイートインスペースに座って、原稿のしわや汚れを一枚一枚確認した。

 一通り確認した瞬間、胸の鼓動が速くなるのを感じた。

 原稿の枚数が足りない。もう一度数えてみたが、七ページ分が抜けている。

 夕日出版へ出掛ける前に原稿を黙読したときには問題はなかった。そう考えると、抜けたのは「あのとき」しか考えられない。


 ボーイッシュにかされ、あたりに散らばった原稿を手当たりしだいかき集めた。内容を確認することなく渡したが、その中に「715」の原稿が混ざっていた可能性が高い。

 編集に携わっている彼女のこと、見たことのない原稿があれば絶対に気付くはずだ。

 ただ、忙しさにかまけて、それをどこかに放置してしまわないだろうか? ゴミに紛れて廃棄されるようなことになれば目も当てられない。原稿は私にとって命から二番目に大切なものだ。一刻も早く取り戻す必要がある。

 ボーイッシュは「月曜日は電話に出られない」と言っていたが、火曜日まで待つのはリスクが大きい。原稿は今や風前の灯火ともしびの状態に置かれている。


 急いで家へ帰った私は、名刺に書かれている番号に電話をかけることにした。

 ダイニングでは母がキッチンの拭き掃除をしている。母に気付かれないようにリビングにある電話の子機を和室に移動する。携帯電話がないのは思いのほか不便だ。

 座椅子に腰を下ろした私は、ボーイッシュの名刺を見ながらプッシュホンの番号を押した。


『……とぅるるる……とぅるるる……とぅるるる……とぅるるる……』


 呼出し音は鳴っているものの誰も出ない。ボーイッシュの言っていたとおり、電話に出られないほど忙しいのだろうか?


「お待たせしました。月刊トワイライト編集部です」


 二十回ほど呼び出し音が鳴った後、電話がつながった。甘ったるく、眠たそうな、その声には聞き覚えがあった。


「あの……岡安さんですか?」


「はい。岡安ですが」


「深見と申します。先日そちらのビルへ伺った際、岡安さんとロビーでぶつかった者です」


「あっ、あのときの方ね」


 間抜けな自己紹介だったが、彼女はすぐに私のことを認識してくれた。


「その節は大変申し訳ありませんでした。急いでいたものでろくにお詫びもできなくて……ひょっとして、左肘以外にもどこかお怪我を? 左手を床に突いたときに指の骨が折れたとか? 頭を強く打って偏頭痛がひどいとか? もしかしたら、その両方? それとも、もっととんでもないことになっていて、移動式の点滴スタンドを携えて病院のロビーから電話をかけているとか? そうじゃないとしたら――」


 私にしゃべる隙を与えないのは相変わらずだった。

 甘ったるいしゃべり方で語尾が切れないせいか、こちらから切り出すタイミングが計れない。このまま黙っていては、用件を伝えられずに終わりそうだ。


「岡安さん! 怪我は左肘のかすり傷だけです。大事には至っていません。ただ、岡安さんに一つお願いがあって電話をさせてもらいました。実は――」


「ごめんなさい! 今電話を一本保留にして深見さんの電話に出たの。そしたら、もう一本鳴り出しちゃって。たぶん、印刷所からの催促の電話。今日の午前中に、次号の『特集その二』をやっつけようと思って待機してもらっているの。

 今のかをりさんは原稿執筆者と印刷所の間に挟まれたサンドイッチガール。うちの雑誌ね、毎月十五日発売で五日が原稿確定日だから直前は戦争状態なの。改めて電話するから深見さんの電話番号を教えて。いつになるかはお約束できないけれど、かをりさんは必ず連絡するから。お願い!」


 やっとのことでしゃべらせてもらえた私だったが、数秒後には、再び主導権がボーイッシュに移っていた。主導権を奪い返すのは至難の業だ。


「わかりました。〇三-●●●●-●●●●。深見真です。」


「……どうもありがとう。必ず電話するから。See you!」


 結果として、要件を伝えることなく電話を切られてしまった。

 「戦争状態」というのは一見大袈裟に聞える。ただ、雑誌が予定通り発行されなかった場合、出版社の信用問題となるだけに的を射た表現なのかもしれない。電話の向こうから逼迫ひっぱくした雰囲気が伝わってきた。


 時間にすれば数分のやり取りだったが、私は前日と同じ疑問を抱いた。「私たちの周りだけ時間が流れる速さが違うのではないか?」。もしかしたら、ボーイッシュは時間を操ることができる特殊能力者なのかもしれない。


 次の瞬間、そんなことを真剣に考えている自分に気づいて、思わず笑ってしまった。甘ったるい声が耳の奥に残っていて、まだ電話が続いているような気がした。


★★★


 次の日、大学へ顔を出した。二月の国家試験のガイダンスと大学院進学についての担当教官との面談のためだ。


 医師の国家試験については、司法試験や外交官試験とは異なり、六年間普通に勉強していれば落ちることはまずない。今の私の知識と技術を持ってすれば試験官を務めることも可能だ。


 大学院については、おそらく東都大へ行くことになるだろう。当時は、横浜医科大も選択肢に入れてはいたが、父の指示で東都大に落ち着いた。今回もどこへ行くかは特にこだわっていない。


 その日、研究室のメンバーや担当教官と話をしたが、違和感は感じられなかった。みんな当時のままで記憶とのギャップは認められなかった。


 帰宅すると妹の真知子が海から戻っていた。真知子はT女子大の一年生。確かW大のテニスサークルに所属していた。

 今回の旅行もサークルが企画した合宿のようなもので、社交的で明るい性格の彼女は大学生活を大いに楽しんでいる。


「真知子、久しぶり……じゃなくて、おかえり。無事で何より。天気も良かったみたいだし」


 私はダイニングで紅茶を飲んでいる真知子に話し掛けた。


「ただいま。結構疲れたよ。みんなといるときは感じなかったけど、家に帰るとドッと疲れが出るね。昼は海とテニスで、夜は毎晩遅くまで飲み会。二泊三日はかなりハードだったよ」


 真知子は、頭の後ろで髪を束ねているヘアクリップを外して、目に入りそうな前髪を左右に流す。

 それはZARDのボーカル坂井泉水を模したヘアスタイル。ちょうどエフエムラジオから「負けないで」が流れている。ZARDがメジャーになるきっかけとなった曲だ。


「W大はさすがにパワフルだな。サークルにも大学のカラーが出ているみたいだ」


「えっ? 私のサークルW大じゃないよ。T大だよ。最初W大のサークルに仮入部したけど、雰囲気が合わなくて結局T大のサークルに入り直したじゃない。言わなかった?」


「あっ、そうだった。T大だった。勘違いしてたよ」


 どうやらそういうことらしい。私に伝わっていなかっただけなのか、それとも、ホストコンピューターが矛盾を修正したことで「ズレ」が生じたのかはよくわからない。

 ただ、考えてもどうしようもないことであり、適当な返事をしておいた。



 つづく

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