第24話 止まない雨


「山下公園の通りに『ニューグランド』というホテルがある。終戦時GHQのマッカーサー元帥が泊まった老舗しにせだ。そこに、以前家族で行った、フレンチのレストランがある。料理は美味しかったし、横浜港を一望できる雰囲気も良かった。きっと、かをりも気に入ってくれると思う」


 山下公園沿いの通りをマリンタワーの方へ歩きながら、私は真っすぐ前を向いて、隣りを歩くかをりに言った。

 足取りが少し速くなったのは、雨脚が強くなってきたこともあるが、どこか気恥かしくて、かをりの顔をまともに見ることができなかったから。


 会話が途切れたことで、雨の音が大きくなった気がした。

 ふと視線を隣へ向けた――が、そこにはいるはずのかをりがいない。

 慌てて振り返ると、開いた傘と紙袋を歩道に置いて項垂うなだれるかをりの姿があった。

 すぐに駆け寄って傘を差し掛けた。前髪から雨の雫がしたたり落ちる。ワインレッドのワンピースはすっかり色が変わっている。


「どうしたんだ? ずぶ濡れじゃないか。何か気に障ることでも言った? もしそうなら謝る」


 私の言葉に反応するように、かをりはゆっくりと顔をあげる。うれいに沈んだ表情が見て取れた。これまで会ったことのないかをりだった。


「ねぇ……どうして? どうして深見くんはそんなに優しくしてくれるの? あたしみたいな女に」


 かをりの口から唐突な言葉が飛び出す。何を言っているのか理解できなかった。


「『わたしみたいな』ってどういうこと? 意味がわからない。キミはいろいろな意味で魅力的な女性だ。文学の話も興味深いし、今日もキミといっしょにいられてとても楽しかった。自分のことをそんな風に卑下ひげするものじゃない」


 かをりは視線を逸らしたまま首を何度も横に振る。


「それは本当のあたしを知らないから言えること……深見くんは『あたしじゃないあたし』を見ているんだよ」


「そんなことはない。話をすれば、どんな人なのかはわかる。キミが自分を偽っているとは思えない。もしそうだとしても、何か理由があるはずだ……かをり、話してくれないか? 昨日の夜の電話のこともずっと気になっていたんだ。キミの力になりたいんだ」


 雨はいつしか横殴りへと変わっていた。激しく打ち付ける雨音があたりに響き渡る。誰もいない歩道に私たちだけが取り残された。


 しばらく沈黙が続いて、かをりが口を開いた。


「……深見くん、あたし、編集者になる前の記憶が……二十歳より前の記憶がないの。どこで生まれたのかわからない。どんな子供だったのかもわからない。家族がいたのかどうかさえわからない。誰もあたしの過去を知る人はいない。でもね、よく夢を見るの」


 かをりは目に涙を溜めて思い詰めたような表情を浮かべる。


「真っ暗で何もない場所に、一糸纏いっしまとわぬ姿で横たわるあたしがいる。闇の中から男たちが現れる。男たちは代わる代わるあたしの上に覆いかぶさる。抵抗できないあたしは焦点の合っていない目で遠くを見つめている。好き勝手にを終えた男たちは再び闇の中へと消えていく。はずかしめられたあたしはボロ雑巾みたいにその場に捨てられる……夢はいつもそこで終わる」


 かをりは雨の音にかき消されそうな、弱々しい声で言った。

 呆然ぼうぜんと立ち尽くす私に、悲しみと苦しみをまとった眼差しが突き刺さる。


「あたし、がんばってきたんだよ。『これはただの夢。弱いあたしが作り出した悪い夢。もっと強くならないといけない』。そう自分に言い聞かせて、がんばってきたんだよ。でも、昨日の夜、目が覚めているのに、いつもの夢があたしを襲ってきた。あたしを苦しめるために、現実の世界まで追いかけて来たんだ」


 かをりの目から涙が溢れ出す。雨の粒よりも大きなしずくが、ポロポロと頬を流れ落ちる。


「クライアントとの飲み会があった。手を握られたり肩を抱かれたりした。上司から我慢するよう言われていたからずっと我慢した。トイレに行く振りをして深見くんに電話をした。深見くんが『がんばれ』って言ってくれたらがんばれる気がした。その後、身体のあちこちがぴったりくっつくようなチークダンスを踊らされた。

 そのとき、目が覚めているのに夢を見た。あの男たちが現れたんだ。後で聞いたら、あたしは狂ったように叫んでいたらしい……イヤだ……イヤだよ……あたしは汚れているんだ! 汚い女なんだよ!」


 涙と雨で顔をぐちゃぐちゃにしながら、かをりは苦しそうな声を吐き出した。


「今日はいつものあたしをキミに見せられなかった。だから、派手な化粧や服で自分を覆い隠した。自分を偽って自分じゃない自分になった。でも、やっぱりダメだった。またあの男たちがやってきたんだ。やっぱりキミに会わなかればよかった。でも……会いたかった。近くにいて欲しかった。深見くんがいてくれたら悪夢にだって負けないと思ったんだよ!」


 かをりは道路を横断して山下公園の方へ走り出した。通りを行き交う車の急ブレーキとクラクションの音があたりに響き渡る。


「待ってくれ! かをり!」


 私はかをりの後を追った。

 かをりは氷川丸の脇を抜けて、マリンシャトルの乗り場の方へ駆けていく。

 雨と風がさらにひどくなり、停泊する船が波にあおられて左右に大きく揺れている。まるで台風のような暴風と豪雨があたりを席巻せっけんする。


「来ないで! 深見くん!」


 船着き場の端に立ったかをりはこちらを向いて大声で叫んだ。

 後ろは高さが三メートルはある岸壁。押し寄せる波が時折白い水しぶきを上げる。普段は穏やかな海も水深は十メートル以上ある。

 小さい頃、大雨の日、山下公園で人が海に落ちて亡くなったというニュースを見た。そのとき「大雨の山下公園は危険」という印象を持った。もしそのことがSJWへ反映されているとしたら――海に落ちた瞬間、かをりは命を落とす。


「かをり、聞いてくれ。キミは病気かもしれない。でも、病気になったのはキミのせいじゃない。誰でもかかるような病気に偶然キミがかかっただけだ。

 キミの見た夢は現実ではない。不安な心が生み出した幻だ。そういった症例はよくある。時間をかければ必ず治る。私といっしょに帰ろう。私はキミといっしょにいる。キミの病気が治るまでずっといっしょにいる」


 私はかをりを刺激しないよう努めて冷静に話した。

 そんな私に、かをりは泣きながら笑い掛ける。


「深見くん、やっぱりキミはあたしが思っていたとおりの人。純粋で誠実で、そして、とても温かい。深見くんに会えてホントによかった」


「これからもずっといっしょだ。だから、いっしょに帰ろう」


 私はかをりに手を差し伸べた。しかし、彼女は首を横に振る。


「あれは夢や幻なんかじゃない。過去に体験した現実。どうしてそうなったのかはわからない。でも、自分のことだからわかる。肌や体液の感触も生々しく残っている……もちろん恋愛なんかじゃない。商売と割り切って抱かれているわけでもない。まるで人形みたいに扱われてぼろ雑巾みたいに捨てられる……イヤだ……こんなのイヤだ……仲良くなれたから余計にツライよ……さようなら。深見くん」


 かをりは身体を海の方へ向けた。


「わかった。キミが海へ飛び込んだら、私もすぐに後を追う」


 私の一言にかをりの動きが止まる。


「私は医師を目指しているが、作家になりたい夢を捨てきれずにいる。医師は医学の心得により人を救うことができる。ただ、医学には限界がある。日進月歩と言いながら、救えない命もある。

 それに対して、作家は文章の力で人の心を救うことができる。医者のように病気は治せないが、人の心を豊かにすることができる。それを欺瞞ぎまんだと言う人がいるかもしれない。しかし、医師がさじを投げた患者の心を救うことができる。

 もしここでキミを救えないとしたら、私はそれだけの人間だ。作家になるなんて夢を抱くこと自体おこがましい。それなら、ここで夢を捨ててキミのいる世界へ旅立った方がいい。そうすれば、いつまでもキミと文学の話ができる」


 かをりは人工知能AIが組み込まれたNPC。普通に考えれば、NPCのために命を捨てるなんてあり得ない。

 ただ、自分の無力さゆえに命が消えていくことが耐えられなかった。目の前で二度とそんな情景シーンを見たくなかった。


 かをりがゆっくりと振り返った。悲しそうな顔で何度も首を横に振る。


「ダメだよ。深見くん。キミには素晴らしい才能がある。キミはたくさんの人を救える人なんだ。あたしなんかに構ってちゃいけない人なんだよ」


 真珠のような大粒の涙を流しながら、かをりは必死に言葉を絞り出す。

 そんな彼女に、私は笑顔で頷いた。


「ありがとう。かをり。私のことをそんな風に思ってくれて……でも、そう思っているなら、私の夢を応援して欲しい。私がたくさんの人を救うところを見て欲しい。今キミを失ったら私は一生救われることはない。

 いつか私の夢が叶ったとき、みんなに言って欲しいんだ……『この人を救ったのはあたしなんだよ』って」


 その瞬間、かをりが私の元へ走り寄る。私に抱きつくや否や、小さな子供のように大きな声をあげて泣いた。その身体はすっかり冷え切っている。

 ずぶ濡れのかをりを強く抱きしめながら、私は宇宙そらを仰いだ。


「かをり、キミはバカだ。こんなに重い物を一人で背負い込むなんて。無理に決まってる。でも、もう大丈夫。これからは一人じゃない。いつも私がいる。一人でダメなことでも二人でならきっと何とかなる。それから……キミを汚れているなんて言う奴がいたら、私が絶対に許さない」


 私は、泣きじゃくるかをりの耳元でささやくように言った。

 港内に停泊する大型客船の灯りがぼやけて見えたのは、雨のせいではなかった。



 つづく

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