第25話 エスコート


 カーテンの隙間からまばゆい光が差し込む。

 窓の外には、前日とは打って変わって、雲ひとつない青空が広がっていた。


 時刻は午前八時三十分。眼下の山下公園にはたくさんの観光客が訪れている。

 窓際のテーブルにはハートの形をした赤いイヤリング。重し代わりのの下には、何か書かれた、ホテルの便箋びんせん



 おはよう。深見くん。

 昨日は本当にありがとう。すごくうれしかった。

 それから、ごめんなさい。いい歳して大泣きしちゃって。

 すごく恥ずかしいです。

 どんな顔をして会ったらいいのかわからないので、先に帰ります。

 と言うのは冗談で、さすがにこの服では出社できないので一旦家に帰ります。

 でも、今日の朝日は昨日までとは違うものに見えます。

 深見くんといっしょならがんばれそうな気がしています。

 だから、ずっといっしょにいてください。よろしくお願いします。


 かをり


 P.S.ホテルの支払いは済ませておきます。



 思わず笑みがこぼれた。

 かをりが普段のかをりに戻っていたから。

 ただ、かをりにしては、しおらしいメッセージだった。

 ホテルの支払いをさせたのはまずかったが、何かの機会に埋め合わせをしよう。


 晴れ渡った空を眺めていたら、昨夜のことがずっと昔のことのように思えた。


★★


 ずぶ濡れになったかをりを抱きかかえるようにホテルのフロントを訪れたのは、午後九時を過ぎた頃。

 老舗しにせの高級ホテルだけに、私たちの格好を見て宿泊を断られるのではないかと思った――が、それは杞憂きゆうに終わる。

 スタッフはとても良心的で、宿泊はもちろん軽食のルームサービスについても快く了承してくれた。


 部屋に入るや否や、かをりをバスルームへ押し込んだ。シャワーの音が聞こえた瞬間、身体の力が抜けて、窓際のソファにへなへなと座りこんだ。

 脱力感を覚えながらカーテンの隙間から外に目を向けると、「全室オーシャンビュー」の触れ込みどおり、横浜港が一望できた。さっきまで私たちが独占していた山下公園もはっきりと見てとれる。


 二十分が経った頃、入口のベルが鳴ってスタッフが飲み物と食事を運んで来た。

 ミルクと紅茶。サンドイッチとおにぎり。それに、ちょっとしたオードブル。軽食と言っても二人には十分過ぎる量だ。


 バスルームのドアが開いて、白いバスローブをまとったかをりが現れる。さっきの今だけに、恥ずかしそうな表情を浮かべている。

 派手な化粧を落としたことで、いつもの彼女に戻ったような気がした。


「調子はどう? 寒くない?」


「大丈夫」


 かをりは視線を逸らして前髪で顔を隠すような仕草をする。


「お腹空いただろ? ちょうどルームサービスが来たから食べて」


「ありがとう」


「飲み物は温かいミルクと紅茶をもらった。好きな方を飲むといい」


「うん」


 ぎこちない会話が続いた後、私たちはソファに座って遅い夕食を始めた。

 二人掛けのソファと一人掛けのソファ二つが、四角いテーブルを挟むように向かい合わせになっている。私が二人掛けのソファに、かをりが一人がけのソファに、それぞれ腰掛けた。


「いただきます」


 私がおにぎりに手を伸ばしたとき、かをりはぼんやりと窓の外を眺めていた。


「どうした? かをり」


「あたしたち、あそこにいたんだ」


「ああ。雨と風がすごかった。海に落ちなくて良かった」


「落ちたら助からなかったね」


「一巻の終わりだ」


 私の言葉にかをりは小さく頷く。


「深見くんもびしょ濡れでしょ? 風邪引いちゃうよ。シャワー浴びてきて。待ってるから」


 かをりが不安げな顔で私を見る。


「わかった。じゃあ、五分で戻る」


 かをりに心配を掛けるのもどうかと思い、私はそそくさとバスルームへ向かった。


★★★


「お待たせ。じゃあ、食べようか」


 バスローブに着替えた私は、さっきと同じ二人掛けのソファに座る。

 すると、かをりはスッと立ち上がって私の隣に腰を下ろす。左肩にもたれかかって右手を私の左手に絡ませてきた。


「かをり……?」


「しばらくこのままでいさせてください」


 かをりは安心したように静かに目を閉じた。


 私たちの濡れた服がエアコンの吹き出し口に並んでいる。エアコンの風を浴びる、二人の服は寄り添って踊っているように見える。

 そこに掛けておくことを勧めてくれたのはホテルのスタッフだ。

 

 かをりは既に寝息を立てている。昨日からほとんど寝ていないのだろう。

 私はかをりの身体を抱き上げてベッドへと運んだ。


「おやすみ。かをり。これからもよろしく」


 モスグリーンのジャケットがワインレッドのワンピースをエスコートする。

 私のエスコートは、まだ始まったばかりだ。



 つづく(第3章へ)

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