第8話 村上雅之
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「おーい! 深見! 早く来いよ!」
不意に名前を呼ばれた。声の方に目をやると、壁際のテーブルの脇でグラスを手にした男が私に向かって手を振っている。
見たところ同じ新入生のようだが、その顔には見覚えがなかった。
大学院の入学式が終わった後、医学研究科主催の歓迎レセプションが開かれた。
場所はレストラン棟の四階。立食形式で参加者は新入生と関係者併せて百人ぐらい。学校の公式行事ではなく、有志による、新入生と先輩の交流会のようなものだ。
レセプションが始まって一時間が経ち、会場のあちこちに酔っ払いが出没し始める。私は、目が据わった上級生五人に囲まれ軟禁状態にあった。
「君は深見教授の息子さんだね? 一つ聞きたいんだけど――」
顔を真っ赤にした上級生が見下すような眼差しで私に質問を投げ掛ける。
父を引き合いに出した、刑事裁判の被告にでもなったかのような質問攻め。良く言えばアカデミックな医学談義だが、悪く言えば単なる嫌がらせ。「深見教授の息子だから」という枕詞をつけて、私が答えられない質問を選んでは投げかける。
父は、私が大学四年のときに既に他の大学へ移っていたが、父と私のことを知らない者はほとんどいなかった。
「――――以上です。理論上はこのような対応が望ましいかと思われます」
私は努めて冷静にオーソドックスな回答を返す。
「はぁ? そんな悠長なことしてたら患者が死んじゃうよ。これって医療の基本中の基本じゃないの? 深見教授はそんなことも教えてくれなかったの?」
この手の人間には何を言っても無駄なことはわかっていた。
医学の方法論と言うのは算数の足し算のように答えが一つに決まるものではない。風邪の症状一つとっても治療法は千差万別で、ある学派による「常識」は別の学派では「非常識」と位置付けられる。
私がAという治療法を提案すればそのデメリットをあげて否定し、Bという治療法を提案すれば今度はそのデメリットにより否定する。表面上は笑顔を取り繕ってはいたが、苦痛以外の何物でもなかった。
「深見! 聞えないのか? 早くしろ! みんな待ってるぞ!」
声が届いていないと思ったのか、男はさらに大きな声で叫ぶ。
「申し訳ありません。友人が私に用があるみたいです。失礼します」
上級生に丁寧に挨拶をした私は、足早に男のいるテーブルへと向かった。
顔も知らない男から呼び捨てにされたのは心外だったが、苦痛な状況から逃れる口実を作ってくれたのは正直助かった。
★★
「私に何か用ですか?」
「特に用はない」
「えっ……?」
男の素っ気ない言葉に目が点になった。
「だって、二回も私の名前を呼びましたよね? しかも呼び捨てで……だから、私はここに来たんですよ」
「よかったじゃないか。どうしようもない連中から解放されて。それとも、要らぬお節介だったか?」
男はグラスのビールを飲み乾して小さく笑う。どうやら私のことを助けてくれたようだ。
「いえ、そんなことないです。ありがとうございました。本当に助かりました」
丁寧に頭を下げる私を後目に、男は空になったグラスに手酌でビールを注ぐ。
「でも、どうして私の名前がわかったんですか? 入学式でも話をした記憶はありませんが」
私が真剣な顔で尋ねると、男は飲んでいたビールを吹き出しそうになる。
「お前、わかってないのかよ? 医学部や医学研究科では自分がアイドル並みの有名人だってこと。みんな話してたぞ。『あれが深見教授の息子だ』って」
「何となくわかります。これまでもよくあったことですから……改めて自己紹介させてもらいます。深見真です。研究室は、杉山教授と浅野助教授がいる感染症学研究室を予定しています。よろしくお願いします」
「俺は村上雅之。専門は神経科学だ。十文字先生の脳神経科学研究室に入る。よろしくな」
村上は少しかったるそうに自己紹介をする。
それが私たちの出会いであり、私が村上に助けられた最初のことだった。
「……村上くん?」
「『村上』でいいよ。俺もお前のこと『深見』って呼ぶから」
村上は少し照れくさそうにゴクゴクと音を立ててビールを喉の奥に流し込む。
お世辞にも愛想がいいとは言えないタイプ。他人との関わりを好まないタイプ。誤解されやすいタイプ――それが村上に対する、私の第一印象。
ただ、言葉を交わした瞬間、不思議な感覚を覚えた。
言葉で言い表すのは難しいが、心が清々しい何かで満たされた気がした。喩えるなら、雲一つない、真っ青な空が目の前に広がったような爽快感があった。
「じゃあ、村上。順番が逆になりましたが、さっきはどうして私を助けてくれたんですか?」
「名前は呼び捨てで『ですます調』かよ? 気持ち悪いから何とかしろ」
村上はビールのグラスを口に運びながら苦笑いを浮かべる。
「別にお前を助けたかったわけじゃない。ああいう連中が嫌いなだけだ。小さい人間に限って、他人の粗を探して人を見下すような態度を取りたがる。自分が優位に立った気になって自己満足に浸っている。
ああいうのを見てると無性に腹が立つ。あんなのが先輩だなんて恥ずかしいよ。『反面教師』としては絶好の教材だがな。言っておくが、俺は口は悪いが他人を見下したことは一度もない。神様に誓ってもいい」
悪戯を成功させた子供のように、村上は無邪気な笑顔を浮かべる。
そのとき、私は目の前に青空が見えた理由を理解した。それは、村上が時折見せる、少年のような澄んだ瞳と真っ直ぐな眼差しのせい。
「村上、一つ質問してもいい?」
「何だ?」
「……私は医者になりたくてなったわけじゃない。父に言われるまま、決められた道を進んできただけなんだ。本当は小さい頃からなりたかったものがある。今でも諦められない夢がある。でも、父に逆らうことができなかった。呪縛のようなものがあって夢に近づく努力さえできないでいる。
私はダメな人間だろうか? 自分の進みたい道がわかっているのに逃げている、ずるい人間だろうか? 夢を見る資格なんかない人間だろうか?」
知り合って三十分も経っていない者に対する質問ではなかった。
なぜ自分がそんな話をしているのかわからなかった。いきなりこんな話をされたら、引かれるに決まっている。まともな答えなんか返ってくるわけがない。
そこまでわかっていながら、村上からどんなリアクションが返ってくるのか知りたかった。友人はおろか家族にさえしたことのない話だった。しかし、村上には自分を
村上は持っていたビールのグラスを静かにテーブルの上に置く。
「俺はお前のことはよく知らない。だから、これは現段階の俺の個人的な考えだと思ってくれ」
村上は私の瞳をジッと見つめながら、言葉を選ぶように続ける。
「お前が置かれている環境が厳しいのは理解できる。ただ、実現可能性が一パーセントのものであっても諦めたら〇パーセントになる。一パーセントと〇パーセントは天と地ほど違う。
カッコ悪くたっていい。遠回りしたっていい。もがいてもがいていつか夢にたどり着けば、それはお前にとって百パーセントだ。
同じ事象でも人によって見方は百八十度違う。深見、人の目なんか気にするな。人は人。自分は自分だ。Don’t worry about others.Let’s go our own way.(他人のことは気にするな。俺たちは俺たちのやりたいようにやろう)」
つづく
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