第48話 親から子へ
★
カヲリ・ハートフィールドは思わぬところにいた。
それは地下二階のSJコンパートメントの中。何と三年前にSJWへ送られていた。
「ど、どういうことだ? SJWへ送られたのは私が最初じゃなかったのか? それより、なぜ彼女はSJWへ送られたんだ? 彼女が『かをり』なのか? 教えてくれ! 村上!」
私は村上に激しく詰め寄った。詰め寄らずにはいられなかった。村上の答えは今の私にとって何よりも重要なものだったから。
「落ち着け。深見。一度に訊かれたって答えられないだろ。順番に説明する」
村上は興奮する私を
「カヲリ・ハートフィールドは、二〇一三年にSJWへ送られた。黙っていて悪かった。ただ、この件は極秘中の極秘事項で話すことはできなかった。それから、彼女がSJWへ送られた理由だが――」
「それは、わたしからお話します」
メアリーが村上の言葉を
隣では、口を真一文字に結んだロバートが心配そうに見つめている。
「カヲリが夕日出版社に就職したのは、故郷である日本への強い思い入れがあったからです。幼少期に両親の死を経験した彼女は『森下かをり』として良い思い出はほとんどなく、幸せを実感できたのは『カヲリ・ハートフィールド』になってからでした。そのことが、カヲリの心に重く圧し掛かっていました。
カヲリは日本のことを好きでいたかった。そこで、祖国で幸せを実感するため、日本行きを決意しました。
あるとき、カヲリは職場の男性から交際を申し込まれます。日本人のボーイフレンドがほとんどいなかったこともあり、カヲリは彼の気持ちを特別なものと感じました。日本人として幸せになることを強く望んでいたカヲリは、無意識のうちに、彼の申し出を『渡りに船』と考えていたのかもしれません。二人は恋に落ち、カヲリは全身全霊を注ぐように彼を愛しました。二人はいっしょに暮らすようになり、やがてカヲリは一つの命を宿します。
カヲリの一途な思いは、幼少期に幸せを享受できなかったことへの反動がその根底にあります。妊娠がわかったときの喜びようは大変なものでした。愛する人との間に生まれた命をとても尊いものだと感じ、そのことに心から感謝しました。きっと、自分が両親から受けられなかった分、我が子にたくさんの愛情を注ぎたいと思ったのでしょう。
しかし、二人の間には温度差がありました。妊娠を知った途端、彼の態度が豹変したのです。彼にはカヲリを一生の伴侶として迎えるような意思はなく、その一途な思いを重荷に感じていました。
出産の是非をめぐって二人は激しく対立しました。それはどこまで行っても平行線でした。結果として、二人は破局を迎えますが、カヲリはある決断――子供を産んで一人で育てるという決断をしました。
二〇〇八年、カヲリは男の子を出産します。彼女が二十四歳のときでした。ただ、カヲリにはあるジレンマがありました。我が子を可愛いと思う反面、その子の顔を見ると、自然と彼の顔が浮かんできたのです。最後は辛い別れを経験したものの、純粋に一途な愛を注いだ、初めての男性だったことで複雑な気持ちだったと思います。しばらくの間、愛情と悲しみの間で激しい葛藤が続きました。
そんなある日、カヲリは『あること』に気づきます。愛する人から愛してもらえなかったことが今の自分の悲しみを生んでいること。そして、もし自分が我が子を愛さなければ、同じ悲しみが繰り返されることです。『悲しみの連鎖は断ち切らなければいけない』。自分自身に言い聞かせたカヲリは、我が子を幸せにすることこそ自分の幸せであることを悟ります。それは、ある意味、二人に幸せが訪れた瞬間でした。
しかし、そんな幸せも長くは続きませんでした。
翌二〇〇九年、我が子をNLが襲ったのです。カヲリの目の前で眠るように死んでいった我が子。カヲリの絶叫と
カヲリが会社を休職していることを知ったわたしは、彼女をアメリカへ連れ戻すため日本を訪れました。ただ、カヲリはわたしの申し出を拒みました。『子供のいる日本を絶対に離れたくない』と。
子供はもういないことをいくら説明しても聞く耳を持ちませんでした。医者から『精神状態が不安定で無理に連れ戻すのは危険だ』と言われ、わたしはカヲリのマンションに滞在することにしました。
ただ、容態は悪くなる一方で、ついに話しかけても何も反応しなくなり、虚ろな眼差しで、ぬいぐるみを我が子に見立てて話をするようになりました。
そんな中、カヲリの二十五歳の誕生日に、以前家族でやっていたように、ケーキにロウソクを立てて二人でお祝いをしました。そのときでした。バースデーソングを聞きながらロウソクの炎を眺めていたカヲリの顔に微かに笑みが浮かんだのです。久しぶりに彼女が人間らしい表情を見せたことで、わたしは家族の愛情があれば容体が良くなることを確信しました。
しかし、わたしが二時間ほど外出したとき、悲劇は起きました。ロウソクの炎を見たとき、カヲリは我が子のことを思い出したのだと思います。バースデーソングが終わり、炎が吹き消されたとき、その顔が一瞬曇ったような気がしました。今思えば、それは、カヲリが自分の中で我が子の死を認識した瞬間だったのかもしれません。
買い物から戻ると、カヲリが倒れていました。
わたしはカヲリをアメリカへ連れて帰り、ありとあらゆる治療を試みました。でも……カヲリが目を覚ますことは……二度とありませんでした……」
取り出したハンカチでメアリーは溢れる涙を何度も
そんなメアリーの肩をロバートが優しく抱き寄せる。
私は言葉を失った。ささやかな幸せを望む、かをりの
★★★
動揺を露わにする私に村上が続ける。
「二〇〇九年、カヲリは眠ったままの状態となった。最先端の医学を駆使してもなす
二人が目をつけたのは、アメリカ政府が極秘に進めていたSJプロジェクト。当時は資金難と人材不足から成果らしい成果はほとんどあがっていなかった。ただ、二人はSJの可能性に運命を
ロバートは手持ちの金融資産を売り払い1兆円余りのキャッシュを作ると、それをSJプロジェクトへ投資した。同時に、当時東都大学付属病院にいた俺をプロジェクトの責任者として迎え入れた。まさに自分の娘を救うために全身全霊を注いだ。二〇一一年のことだ。
しかし、二〇一三年にカヲリの容体が急変した。いつ脳死に至ってもおかしくない状態だった。そうなれば、希望は完全に消え失せる。指を
俺は賭けに出た。未完成のSJシステムでカヲリをSJWへ送り込むことをロバートとメアリーに提案した。帰りのことまで手が回らない、一方通行のシステム。安全性は神のみぞ知る、危険性を内在したシステム。
とんでもないことをやろうとしているのは自分でもわかっていた。ただ、彼女を救う方法はこれしかないと思った。
カヲリが送り込まれる一九九三年は、彼女が実の母親を亡くした直後の世界。彼女と子供を捨てた男とも子供の命を奪ったNLとも出合うことのない世界。未来は何も決まっておらず、すべてはカヲリの意思で切り開くことができる世界。ロバートとメアリーは、最愛の娘の未来をそんな仮想世界に託した。
こうして、二〇一三年、カヲリは人として初めてSJWへ送られた」
つづく
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