第6話 偶然産物
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二〇一五年一月一日午前〇時一五分、私はNLプロジェクトの研究所にいた。
研究所があるのはアメリカ西海岸のシアトル。温暖な気候ゆえに雪が降ることは滅多にない。しかし、前日から降り始めた雪は一向に止む気配がなく、多いところで一メートルの積雪が観測された。
異常気象とも言える、百年ぶりの豪雪。大晦日の二十二時に非常事態宣言が発せられ、研究所に残っていた私たちは帰宅することができなくなった。
曇った窓ガラスを手で拭うと、真っ暗な空から真っ白な塊がとめどもなく落ちている。通りには人の姿はおろか走っている車さえ見当たらない。
新年を迎えたばかりとは思えない光景だった。
少し前に妹の真知子から新年の挨拶メールが届いた。家族四人で実家に遊びに来ているらしく、メールには「お正月ナウ」と書かれた、晴れ着を着た二人の娘の写メが添付されている。
こちらが百年に一度の豪雪に見舞われていることを画像付きで伝えると、間髪を容れず、驚きのメールが返ってきた。
父は今年で七十七歳。七年前、某私立大学の名誉教授の職を退き、母と二人でのんびりと余生を送っている。
最後に会ったのは、確か五年前。医療省の会議に出席するため一時帰国したとき。NLプロジェクトについて良い報告ができれば言うことはなかったが、残念ながらそうはいかなかった。母から「丸くなった」とは聞いていたが、相変わらず厳しいことを言われた。今思えば、父なりの叱咤激励だったのかもしれない。
★★
不意に、館内放送用スピーカーからチャイムが聞えてきた。
こんな時間に放送が流れるのは珍しい。私が知る限り初めてのことだ。非常事態宣言が出ているだけに、気象の急変があったのかもしれない。
私は聞き耳を立てた。
「ジャック・スミスだ! 夜中に申し訳ないが、今すぐ第三会議室まで来てくれ! 眠っている奴がいたら叩き起こして連れてきてくれ! 最優先事項として伝えたいことがある!」
最年長のスミス博士が興奮気味に叫んでいる。はっきり言って、雑音以外の何物でもない。眠っている者を起こすよう言われたが、この放送を聞いても眠っている者がいるとしたら、かなりの大物だ。
それはともかく、スミス博士の興奮ぶりは尋常ではない。普段の冷静な彼とは別人だ。「何かが起きたに違いない」。不安な気持ちを胸に私は第三会議室へと向かった。
会議室には、ほとんどのスタッフが顔をそろえていた。いかにも眠そうな顔をしている者はスミス博士の大声で起こされたのだろう。
ほどなくして、スクリーンの前に緊張した面持ちのスミス博士が現れる。マイクに息を吹きかけて声が入っていることを確認すると、集まったスタッフの顔をぐるりと見回した。
「知っていると思うが、俺たち四人はここ数年ずっと臨床試験を続けてきた。簡単に言えば、NLウイルスの弱点を見つけるため、手を変え品を変え様々な環境を作り出し、奴らにぶつけてきた。しかし、素人がピストルを闇雲に撃ってもなかなかヒットしないように、思うような成果は上がらなかった。
そんな中、情報収集班がやってくれた。彼らが提供してくれた調査結果が大きなヒントになったんだ。前置きが長くなったが、俺たちは奴らに勝てるかもしれない……いや、絶対に勝てる」
スミス博士の衝撃的な言葉にどよめきが起きる。
間髪を容れず、「極秘資料」と書かれたデータがスクリーンに映し出された。
「情報収集班はすごいよ。『NLウイルスに感染したにもかかわらず死に至らなかった患者』を
情報が寄せられれば、夜中だろうが早朝だろうがすぐに飛んで行った。田舎のちっぽけな診療所だろうが、地球の裏側だろうが、精力的に情報を取りに行った。カルテの確認はもちろん関係者に対する聞き取り調査も試みた。『どんな小さなことも見逃さない』。そんな姿勢が見て取れた。
ふたを開けてみたら、ほとんどは期待外れの取るに足りない情報だった。それでも彼らは諦めなかった。存在するかどうかもわからない患者を必死に追い求めた。そして、ついに一人の対象者を見つけたんだ」
スミス博士は白い歯を見せて満足げな笑みを浮かべる。
私はゴクリと唾を飲み込んだ。どのスタッフも真剣な眼差しでスミス博士の顔を見つめている。
一瞬間が開いて、複数のスタッフから同時に声が上がる。
「スミス博士! 勿体つけずに早く教えてください!」
「スミス! 情報収集班の功績を自分の手柄みたいに言うんじゃない!」
「私は寝覚めが悪いんだ! 良い夢が見れる話を早いとこ頼むよ!」
そんな声を「わかった。わかった」と両手で制しながら、スミス博士は目尻を下げてうれしそうに首を縦に振った。
「NLウイルスに感染しながら死に至らなかった子供には二つのポイントがある。一つめは『解熱薬を使わなかったこと』。正確に言えば、解熱薬を使わず『やり過ごした』。それは、いくつかの偶然が重なった結果だ。
まず、その子はある難病に侵されていた。生まれつき痛覚をつかさどる神経に障害があり外部からの刺激にほとんど反応することがなかった。皮膚が鋭利な刃物で傷つけられても、臓器がウイルスに侵されても自覚症状は一切なかった。文字通り、命取りになりかねない状況に置かれていた。しかし、そんな子がいてくれたおかげで、今の状況がある。
その子がNLウイルスに感染したとき、同時におたふく風邪を発症していた。母親は、熱が四十度を超えた際、その原因がおたふく風邪にあると考えた。一気に熱を下げては危険だと判断し、解熱薬ではなく小まめな水分補給と氷嚢により体温の上昇を抑えることを心掛けた。もちろん、背中のオーロラ模様には気づいていない。すると、十分が過ぎた頃、体温が下がり始め、見る見る間に平熱に戻ったそうだ」
スミス博士は眼鏡のブリッジを右手で押し上げて小さく息を吐く。
「次に二つめのポイントだ。この子は二時間の間『ほとんど泣いていなかった』。これまでの赤ん坊は例外なく火がついたように泣いていた。身体中をナイフで切り裂かれたような痛みが走るんだから当然だ。
そこで、俺たちはある仮説を立てた。『過換気症候群』はわかるよな? 精神的な不安や極度の緊張から、呼吸困難や激しい動悸が現れるアレさ。呼吸が過度になることで体内の二酸化炭素が過剰に排出され、血液中の炭酸ガスが著しく低下する。その結果、血液の
狂ったように泣きつづける乳児はまさに過換気症候群類似の状態にある。そのときのpHは極度にアルカリ化している。それに対し、この子のpHはほぼ中性だった。つまり、NLウイルスは、抵抗力が弱い乳児の体内でしか生きられず、しかも、アルカリ性が強い血液状態では活発化するが、通常の状態では十分程度しか生存できないという仮説が成り立つ。
俺の言いたいことがわかっただろう? 感染した子供にpHを
ちなみに、俺たちはこの仮説に基づく臨床実験を数百回行った。NLウイルスに侵されたマウスに血液中のpHを酸性化する成分を投与した。解熱薬は投与せず、氷で発熱を抑えたところ、二十分後にはすべてのマウスが回復し、NLウイルスは消え去った。確かにネズミと人間では個体差がある。ただ、この仮説に基づいた治療を進める価値はあると思うんだが……どうだい?」
演説を終えたスミス博士は、右手の親指を立てて満面の笑顔を浮かべる。
その瞬間、室内が怒涛の拍手と歓声に包まれた。再び新年がやってきたかのようだった。もちろん、私もその一人で、声にならない声をあげながら何度も拳を突き上げた。
二ヶ月後、対NLウイルス薬「パープル・モンスーン」が完成し、期待通りの成果をあげた。
「偶然の産物」だと鼻で笑う者がいるかもしれない。ただ、笑いたい奴には好きなだけ笑わせておけばいい。
偶然であるかどうかは問題ではなく、重要なのは、私たちがNLを撃退する
「それは、決して少なくない、尊い犠牲のうえに成し得たもの」
私たちNLプロジェクトのメンバーは、そのことを一生忘れることはない。
つづく
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