第42話 約束


「誰もいないって……こんなときに冗談は止めてください! 深見くんはそこにいるじゃないですか!? それに、前回も今回もあたしは深見くんといっしょに来たんです! 十文字先生に診察してもらえたのも、東都大の学生である深見くんが取り持ってくれたからです!」


 かをりは「納得がいかない」といった様子で語気を荒らげる。

 すると、十文字先生がかをりを諭すように言った。


「困りましたね。何と言われようと、この部屋にいるのは岡安さんと僕の二人だけです。それに、僕のことを岡安さんに紹介したのは、トワイライト編集長の伊藤さんです。彼とは昔からの腐れ縁で、岡安さんは自分の病状を彼に相談したのでしょう? 先週のカウンセリングでもそう聞きましたが」


「……言ってない……あたし、そんなこと言ってません! 深見くんから信頼できるお医者様だって聞いたから……だから思い切って先生に診てもらうことにしたんです! 先週もそう言ったじゃないですか!」


「岡安さん、申し訳ありませんが、その話は、来週の診察のときにじっくり聞かせてもらいます。ただ、気にすることはありません。こういった話を自分の中に溜めて置くことなく発信するのは、治療を進めていくうえでとても大切なことです。では、今日はこれで失礼します」


「先生、待ってください! 十文字先生!」


 十文字先生は、かをりの言動を病気の一症状として受け流すと、足早に部屋を後にした。

 先生の記憶から私のことは完全に消えていた。しかも、消えた部分には、辻褄つじつまを合わせるように別の記憶が存在した。これが村上の言っていた、ホストコンピューターによる修正処理なのだろう。

 ただ、十文字先生の記憶が修正されているのに、かをりの記憶には何も変化はない。私の身体が透き通っている状況もはっきりと見えている。


「深見くん! ドルフィン・リングが! あたしのドルフィン・リングが!」


 突然かをりが大きな声を上げた。私の方へ掲げた左手が小刻みに震えている。

 薬指のドルフィン・リングが、今の私の身体と同じように透けている。見る見る間に透明度が増していく。


「だめぇ!」


 悲痛な叫び声をあげながら、かをりは必死に薬指を押さえる。しかし、そんな声もむなしく、ドルフィン・リングは消えて無くなった。


 そのとき、私は「あること」を悟った。

 今起きているのは、紛れもなくSJシステムによる修正処理。文字通り、ホストコンピューターがSJW内の矛盾を無くすために事実を修正する行為。

 理由はどうあれ、一九九三年に存在するはずのない新種ウイルスが出現した。それに対して、何のノウハウも持たない、一介の医学生が三十分もののアニメ番組みたいに、いとも容易たやすくそれを撃退し人類を未知なる脅威から救った。

 要は、その事実をホストコンピューターがどう捉えたかだ。


 ホストコンピューターは、常時インターネットにアクセスし情報収集を行っている。そうすることで、SJW内で発生する事象が現実に適合しているかどうかをチェックしている。そして、明らかな矛盾や齟齬そごを発見すれば、SJWに何らかの修正を加える。

 村上から修正処理について聞かされていた私は、あえてNLという言葉や当時の出来事を口にしないようにした。しかし、それは意味をなさなかった。


 ホストコンピューターは、NPCの中にある、私に関する記憶を削除するとともに、私自身を消去しようとしている。

 十文字先生の記憶が消され、私の身体が透けてきた後、かをりのドルフィン・リングが消えた。これは修正処理が順を追って行われていることを意味する。

 十文字先生とかをりの記憶に齟齬が生じたのは、あくまで修正処理のタイムラグに過ぎず、すぐにかをりの中にある私の記憶も削除される。


★★


 サイレンの音がさらに大きくなった。

 よく聞いてみると、救急車のものとは少し違う。例えるなら、工場や研究施設で異常事態が発生したときに鳴り響く「警告音」に似ている。


 なぜ気づかなかったのだろう?

 救急車は病院に到着すればサイレンを止める。病院内で大音量のサイレンが鳴り響くことはあり得ない。

 サイレンは私の「頭の中」で鳴っている――それは、SJシステムが私に対して発した「警告」だった。


 鏡の中には、さっきよりも存在が希薄になった私がいる。アスリートが全力を出し切った後のような荒い呼吸をしながら、おびえた表情を浮かべている。サイレンの音と呼吸音に混じって歯と歯がぶつかる、カチカチという音が聞こえる。


「深見……くん……」


 かをりは不安そうな表情を浮かべて首をしきりに左右に振っている。彼女は私の身に何が起きているのか知る由もない。

 しかし、私のおびえた様子と自分が目の当たりにしている、信じられない光景から、恐ろしいことが起きているのを感じとっているようだ。


 痛みは感じない。しかし、存在が希薄になっていくのがわかる。

 子供の頃、近所でかくれんぼをしていたとき、いつの間にか自分が無視されていることがあった。

 わざと見つかるように振舞っても誰も私の方を見ようとしない。目があっても何も言わないまま目を逸らす。私はまるで空気のように扱われていた。そのとき感じた疎外感が蘇った。


 かをりの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。何か言いたげに声をあげようとするが、嗚咽おえつで言葉にならない。

 私はどうなるのだろう? このまま死ぬのだろうか? かをりとは二度と会えないのだろうか?

 私は一生かをりを守ると約束した。しかし、約束は守れそうにない。

 怖い。とても怖い。何が怖いのか? 消えてなくなること? それとも、死ぬこと? 違う。そんなことじゃない。


 私が消えるということは、私は「はじめからこの世界にいなかった者」として扱われる。当然かをりとも出会っていなかったことになる。

 出版社で出会ったこと。ジェラートを食べながら歩いたこと。わたしの小説をうれしそうに読んでくれたこと。横浜で私の肩にもたれて眠ったこと。ロマンスカーで恥ずかしそうにキスをしたこと。そして、あの夜二人が結ばれたこと――私が消えれば、二人の思い出はすべてなかったことになる。そのことが私にとっては恐ろしい。死ぬことよりもずっと恐ろしい。


 せきが切れたように涙があふれ出した。


「かをり、ごめん……約束が……キミとの約束が――」


「ダメ! 言わないで! 言っちゃダメ! キミは嘘をつくような人じゃない。だから、言わないで……あたしが死ぬまでずっとそばにいてくれるんだよね? ドルフィン・リングにそう誓ってくれたよね? あたしのこと、一生守ってくれるんだよね?」


 私の言葉をさえぎると、かをりは身体を震わせながら必死に問い掛ける。


「ごめん。謝って済むことじゃないのはわかってる。でも、私はもうすぐ消える。そのことを考えるとすごく怖い。消えて無くなるのも怖いが、キミの中から私の存在が消えてしまうのが何よりも怖い」


「認めない! 絶対に認めないから! これは夢……悪い夢を見ているんだ。でも、あたしが強くなれば、こんな悪夢、吹き飛ばすことができる。深見くんがいてくれたら、あたしはもっと強くなれる。だから、お願い。お願いだから……いっしょにいてください!」


 ポロポロと大粒の涙を流しながら、かをりは私の目を真っ直ぐに見つめる。掛ける言葉が見つからず、私は下を向いた。


『もとはと言えば、あの子供を助けたのが間違いだった。NPCの子供を一人助けたところで私には何のメリットもない。NPCが一人消えたところで私は痛くも痒くもない。今考えれば馬鹿なことをした。NLを目の当たりにして冷静さを欠いた私の自業自得だ』


 私は心の中で自らの行動を責めた。


『……本当に……そうなのか? それで納得できるのか? あの子供を見殺しにするということは、私はNPCなら見殺しにできる人間になり下がるということだ。それが医者のすることなのか? かをりもNPCだ。私は彼女にいつか同じことをするのではないか……? そうだ。子供一人助けられない男が、好きな女を幸せにできるわけがない。私は決して間違ったことはしていない』


 自分に言いきかせるように私は顔を上げた。

 

「深見くん、人はね、会いたいと思う誰かのことを忘れちゃったら一生会うことはないの。だって、もう一度会えたとしても、その人のこと憶えていないんだから……だから、忘れないで。忘れなければ、きっとまた会える。どこかでまた会える。

 あたしは忘れない。キミのこと、絶対に忘れない。深見くんこそ、あたしのこと忘れたらただじゃおかないんだから」


 かをりは、消えかけている私の手に自分の手を重ね合わせた。

 かをりの姿がぼやけているのは涙のせいではない。時間はもうほとんど残っていない。


「かをり、私はキミに会えてとても幸せだった。そして、これからも幸せでいたい。だから、次に会ったときには……もう一度ドルフィン・リングをキミの薬指にはめる。そして、今度はキミのそばから絶対に離れない。キミを幸せにしてみせる」


「それって、プロポーズなの? 勝手に決めないでよ。深見くんは、何でも自分一人で決めちゃうんだから。いつもそう。病院のことだって、箱根のことだって」


 かをりは唇を震わせながら下を向く。


「でもね、いつもキミがあたしのことを真剣に考えてくれているのがわかった。ホントにうれしかった。キミが決めたことなら絶対に間違いないと思った。

 深見くん、あたしをお嫁さんにしてくれるんだ。早くそのときが来ればいいなぁ」


 かをりは顔を上げると、いつものように首を傾けて笑った。

 その瞬間、耳をつんざくようなサイレンの音が鳴り響く。


「深見くん……? いやだ……いやだよ……独りにしないで……いやぁぁぁぁ!」


 薄れ行く意識の中で、かをりの悲鳴が聞こえたような気がした。



 つづく(第4章へ)

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