第53話 大切なもの


 SJコンパートメントの中枢基盤のあたりで火花が散る。ショートした箇所はいつ発火してもおかしくない。


 ジョージによれば、身体に八十アンペアの電流が流れた場合、一瞬であれば致命傷には至らないが、一分ともなると命の保証はないらしい。ショートした箇所を握り締めるというのは、まさに自殺行為以外の何物でもない。

 両手だけでなく地面に接している足の部分もゴム手袋で覆ったのは、身体が閉回路となって心臓に電流が流れるのを防ぐため。しかし、効果があるかどうかはやってみないとわからない。

 ただ、カヲリを救える可能性が一パーセントでもあるのなら私はやる。絶対に後悔したくないから。


 スタッフが心配そうな顔で私を見つめる。コンパートメントの中からはサウナ風呂のような熱風が噴き出している。

 小窓から中の様子をつぶさに確認して、自分の左手が進むコースをシミュレーションした。

 村上と目が合った。私が小さく頷くと、村上も同じ仕草で応える。


 コンパートメントの中にゆっくりと左手を入れた。高温の空気で肌がチリチリと焼けるような感じがする。ショートした箇所に注意深く手を近づけた。


『カヲリ、絶対に助けるから』


 心の中で呟きながら、私は火花を手のひらで包み込むように握り締めた。

 左腕にこれまで感じたことのないような激痛が走った。同時に、左半身全体にしびれるような感覚を覚えた。

 歯を食いしばって声を押し殺した。苦痛で顔がゆがんでいるのがわかった。

 脳裏にカヲリの笑顔が浮かんだ。私は渾身こんしんの力をこめて左手を握りなおした。


「深見! 五感のグラフが動き始めた! もうすぐ七十パーセントのラインだ!」


 村上の声が聞えた。どうやら原始的な絶縁対策は効果があったようだ。

 しかし、まだ安心はできない。少しでも気を抜くと意識が飛びそうな状態にある。


 ゴムの焼けるような匂いが室内に漂っている。一枚目の手袋は溶解し、液状化したゴムがポタポタと流れ落ちている。腕にこれだけの衝撃があるのだから、ゴム手袋など一溜ひとたまりもないのは当然だ。


「八十パーセントライン突破だ! そのままがんばってくれ!」


 村上の声が聞こえたとき、さらに一枚の手袋が溶解した。電流が流れているというより「電気で焼かれている」感じがする。

 一分という時間がとてつもなく長い。おそらくまだ半分も経っていないのだろう。

 激痛で目がかすむ。意識が朦朧もうろうとする。


 次の瞬間、頭の中が真っ白になった。

 ただ、痛みは感じる。一刻も早くこの痛みから解放されたい。


――真、やめるんだ――


 頭の中で誰かの声がした。それが誰なのか、すぐにわかった。


――医者にとって目と指は命だ。お前が行っているのは自殺行為だ。今すぐやめるんだ――


 その声が何かの呪文であるかのように、左手の力がスーッと抜けていく。


「深見、どうした……? 九十パーセントラインで動きが止まったぞ。あと少しだ! あと少しがんばってくれ!」


――真、こんなところでがんばる必要はない。お前は私の言うことだけ聞いていればいい。それがお前の役目だ。苦しむ必要なんかない。腕を抜くんだ――


「深見! どうした!? 深見!」


『そうだ。苦しむ必要なんかない。父さんの言うことに逆らうなんてあり得ない。父さんの言うとおり、腕を抜くことにしよう。これでやっと苦痛から解放される』


「深見! しっかりしろ!」


――それでいい。どうでもいいことに一生懸命になるのは愚かなことだ。取るに足りないことに首を突っ込む必要などない。時間と労力の無駄だ――


『父さんの言うとおりだ。どうでもいいことに一生懸命になる必要なんてない。取るに足りないことに首を突っ込む必要なんてない。そんなことで苦痛を抱くなんて馬鹿げている』


「深見! マイアミの店へ行くんだろう!? みんなで――三人で行くって約束しただろう! 深見!」


『マイアミの店……あの日本料理店か。三人……私と村上とあと一人……誰だ?』


――真、余計なことは考えなくていい。早く手を抜くんだ。指は医者にとって大切なものだ。大切なものを守るんだ――


「カヲリが待ってるぞ! カヲリを助けるんだ! お前が助けるんだよ! 深見!」


「カヲリ……? かをり……岡安……かをり……そうだ。岡安かをりだ」


 その瞬間、頭の中にある扉が開き、中から膨大な記憶が溢れ出す。

 笑っている彼女。怒っている彼女。泣いている彼女――どれも私にとって大切な彼女であり、私が一生守ると心に誓った彼女だった。


――真、馬鹿げたことは止めて早く――


『お前は父さんなんかじゃない。私の弱い心が生み出した幻影だ。私はこれまで幻影にとらわれてきた。都合が悪くなると、父さんのせいにして逃げてきた。

 今やろうとしているのはどうでもいいことなんかじゃない。命を掛けてやる価値のあることだ。やらなければ一生後悔することだ。それを決めるのは父さんじゃない。私が――深見真が決めることだ!』


 最後の手袋が溶け掛けていた。配線の一部に火がついている。もう時間がない。

 手のひらで炎を包み込むように左手を握り締めた。もう感覚は残っていない。痛みも感じない。これで意識が遠のくこともなくなった。


「九十七パーセント! あと五秒! 深見! 五秒もたせろ!」


 村上の声がはっきり聞える。なぜか笑みが浮かんだ。


『大丈夫だ。村上。何があってもこの手は放さない。カヲリのためなら何時間だって耐えてみせる。カヲリは大切な人だから。何が大切なのかは私が決めることだから』


「村上さん! 五感が正常回復しました! 蘇生ボタンを押してください! 早く!」


 スタッフの一人が急かすように言った。


「言われなくてもわかってる! 蘇生処理完了だ!」


 ボタンを押すや否な、村上は一目散に私のもとへ駆け寄る。私の左腕をコンパートメントから引き抜くと、ぐったりする身体をしっかりと抱きかかえた。


「こんなになるまでがんばりやがって……畜生。この大馬鹿野郎が……コンパートメントの電源を落とせ! これより二班に分かれる! 蘇生班はオレとここに残ってカヲリを蘇生させる! 治療班は隣の部屋で深見の治療だ! 外科チームは来てるだろうな!? 緊急手術の準備だ! 急げ! 頼むから急いでくれ!」


 村上は身体を震わせながら大声でスタッフに指示を送る。


「……村上……カヲリは……カヲリはどうなった?」


「五感は正常回復した。蘇生処理も完了した。もう大丈夫だ。あと十分もすれば目を醒ます」


 村上の顔がぼやけている。声もはっきりと聞き取れない。


「お前のおかげだ。お前のおかげでカヲリ・ハートフィールドは元気な姿で帰って来る……よくやった。お前は最高だ……俺はお前と友達でいられることを……誇りに思う」


 村上の途切れ途切れの言葉が聞こえた。どうやらカヲリは助かったようだ。


「……よかった……ありがとう。村上……カヲリのこと、頼んだよ……」


 安心したら眠くなってきた。すごく眠い。



 つづく

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