第25話 記憶からの逃避
此花駅まで戻り、駅のホームにある待合室で電車を待っていた。いつもなら森本から歩いて行くが、今日は電車を使って、近くまで行くことにした。
「なんか緊張するね」
このときの七海は、何かを恐れていた。羽衣と向き合うということが、彼女にとって何を意味しているのか、それは明確だった。しかし、ここで引き返すと、もう戻れないのではないかと俺は心配だった。
自由とは、自分の中にルールがあるときだけ有効になるものだった。もし、七海が自由でないのならば、それはいまだに過去を引きずっているということの証明にほかならない。
「沙希お姉ちゃんは、お姉ちゃんのこと好きでいてくれてる?」
七海は、俺のことを試しているのだろうか。もう過去のことだと割り切れていないのは、俺のほうなのかもしれなかった。
「好きだよ。友達としてね」
その瞬間、七海の顔が少しだけ苦しそうになったのを、俺は見逃さなかった。ななみはきっと、忘れているふりをしているだけなのだ。同じ空間で過ごしてきた姉のことを、そう簡単に忘れられるはずがなかった。
「お姉ちゃんは、優しすぎるんだよ」
その言葉の意味を、考えることを俺の心は許してくれなかった。
桜の丘公園、通称『森本の桜並木』は駅から少し離れたところにある。来る人はその不便さからか、車で来る人が多かった。俺たちのようなに、電車を使ってここへ来るのは、かなり希少なことなのだ。
「次は、七日町、七日町です」
実をいうと、森本市のかなり端にあるため、徒歩で行くのはかなり無謀なことだった。ただ、電車を使っていくには、どうしても此花駅まで行く必要があり、面倒だった。今回は、此花駅まで来ていたため、電車を使って行くことにしたのである。
七日町駅から外へ出ると、虹の丘公園までは、一本の道でつながっていた。その道は、周りを田んぼで囲まれており、聞こえるのは車の走る音と鳥の鳴く声だけだった。
「最近、よく夢に出てくるの」
七海が、少しうつむき加減で話し始めた。
「羽衣お姉ちゃんがね、悲しそうな顔で私のことを見つめているの。何も話さずこっちを見るものだから、どうしたのって聞いてみたの。そしたらね、なんて言ったと思う?」
彼女の顔は、何か恐ろしいものを見てしまったかのようだった。あるいは、すっかり忘却していた記憶を、呼び起こしてしまったかのような表情だった。
「いつになったら、雨上がるかなって聞いてきたの」
「羽衣が、そういったのか」
夢というのは、その人のもつ記憶や深層心理によって、形作られるものだと聞いたことがある。つまり、今の七海は羽衣について、何か思い悩むことがあるのだろう。それが何であるかは、おおよそ見当がつく。けれど、確証がもてなかった。七海は、まだ羽衣から独り立ちできていないのである。それが現実であり、どうしようもない事実だった。
「うん。すごくね、怖い顔してた」
七海は、ひどく怯えていた。もしかすると、俺の知らない羽衣が、そこにはいるのかもしれない。
虹の丘公園が近づいてくるにつれ、桜の鮮やかな花びらが、公園の周りを舞っていることに気づいた。
ふと横を見ると、七海の顔から笑みが消えていた。この状況を改善するには、あの方法しかないと思った。
「……ありがとう」
七海の手をとると、なぜか感謝の言葉をかけられた。彼女の手は、小刻みに震えていた。手を握り、俺の存在を知らせた。見えることと温かさを感じることは、必ずしも同一とは限らない。
「私ね、この桜の木が一番好きなの」
俺の中の記憶から、羽衣が声をかけてきた。
「私が行き詰まった時、よくここへ来たわ。そしてね、この桜の木に話を聞いてもらっていたの。誰にも話せないような、そんな話よね」
何度、忘れようと思っただろう。何度、なかったことにしようと思っただろう。俺たちがそう思ったところで、存在が消えたり、薄まったりするような、そんな人じゃないことは重々承知していた。
記憶の中の彼女は、とてもきれいだった。頬はほんのり赤く、きれいな瞳をしていた。あのときの、最後のお別れをしたときのような彼女ではなかった。
「だからね、秋路は忘れないといけないの。私と過ごした時間も空気も。そうしないと、人は前に進めないのよ」
桜の季節が来るたびに、羽衣の声が聞こえるような気がした。それがたとえ、幻だったとしてもそれでよかった。もうこの世に、羽衣はいないのだ。なぜわかっているのに、受け入れられないのだろう。
「何があっても、私はあなたの味方よ」
羽衣の声は、そこで途絶えた。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「大丈夫。ごめん、少しぼーっとしてた」
時々、羽衣の声が聞こえるときがあった。おそらく幻聴なのだと思うけれど、まるで本当に話しかけられているような感覚になる。それは恐ろしくもあり、安らぎでもあった。
本当は、羽衣は死んでいないのではないか、と思うほど現実味があった。
「まだ満開ってわけじゃないみたいだね」
七海の表情は、どこか懐かしげだった。羽衣とよく話していたときに、よくそれを見ていた気がした。
二人の仲は本当に良かった。そのせいか、喧嘩になることもよくあった。しかし、羽衣がいなくなってからの、七海は変わってしまった。本人が、そう望んだわけじゃない。彼女は、俺の気持ちを優先するあまり、自分のことを後回しにしていたのである。その歪みは、そのツケが、回ってきていた。どれだけ蓋をしていても、それそのものが消えるわけではない。見えていないだけなのだ。
俺と七海は、羽衣から逃げているだけだった。
「ここへ来ると、お姉ちゃんの声が聞こえる気がするの」
それは、七海の願いだった。どれだけ残酷な現実でも、受け入れなければ前には進めない。そんなことは、周知の事実だった。
「苦しい?」
七海の表情が曇っていた。ここまできて、何も思い出さないなんて、不可能だった。だが、現実から逃げても何も生まないことは、二人ともとっくに気づいていた。
目の前の桜には、何も罪は無いのである。これを見ることで、俺たちは羽衣のことを思い出す。決して、それが悪いということではない。けれども、ななみはこんなにも苦しんでいる。その証拠に、額には水滴がたくさん付いていた。紛れもなく、それは汗だった。
「これ、使いなよ」
そう言って、彼女にハンカチを渡した。
「え…ありがと…」
俺の行動をすぐには理解できなかったのだろう。目の中に汗が入ってから、彼女は自分の身に起きていることを、理解した。
現実は残酷で、不条理だった。目の前が真っ暗になった俺を、救ってくれたのは七海だった。彼女は、ボロボロになった俺を見捨てなかった。
羽衣が、遠くへ行ってしまった日。それからしばらくの間、俺は学校へ行くことができなかった。対して七海は、羽衣をきちんと見送ったあとからは、何もなかったかのように学校へ通っていた。それと同時に、俺のことを気遣ってくれた。
その当時の俺は、七海を気遣えるほどの余裕がなかった。単なる言い訳にしかならないが、俺は彼女の心が強いと勘違いしていたのだ。
羽衣が好きだと言っていた桜の木を見ただけで、冷や汗をかき涙を流すような少女だった。一人で抱え込むには大きすぎる問題を、俺と七海は記憶の底に封じ込めていたのだ。思い出すことがないように、と。
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