第15話 好きの交差点

 七海に渡された服を改めて見ていると、なんだか懐かしい気分になっていた。中学生のときは、よくこうして羽衣の服を借りることがあった。正確にいうと、着させられたが近いけれど。

「どうかな」

 服を着替え終わり、問題がないか七海に見てもらっていた。妹がいると、こういうときに助かる。助かるようなことが、起きてほしくはなかったけれど。

 七海は俺の全身をなめるように眺めて、静かにうなずいていた。嫌な気持ち悪さがあるので、その動きはやめてほしい。

「いいんじゃないかな。似合ってるよ」

 そう言いながら神妙な顔をしていた。気をつかってそういっているのではないかと思ったが、どうやらそうではないみたいだ。なぜなら、そのあとに笑い始めたからである。

「なんで笑ってるの」

 そう聞くと、七海は手を顔の前で左右に振り始めた。悪い意味ではないということだろうか。それにしても、笑いすぎだと思った。

「もしかして、どこかおかしいかな」

「ううん、違うよ。全然違う」

 さっきまで笑っていた七海は、なぜか泣き始めた。表情があまりにころころと変わるので、俺は戸惑うしかなかった。七海の気持ちを読み取ることができなかった。

「お姉ちゃんが見たら、喜んでくれるかなって思ったの」

「お姉ちゃん…?」

 それは俺のことを指している言葉ではなかった。なぜなら、七海が家で俺のことを呼ぶときには、お姉ちゃんではなくお兄ちゃんと呼ぶからである。つまり、七海の言ったお姉ちゃんは、間違いなく羽衣のことなのだ。

「羽衣お姉ちゃんが、目の前にいるような気がしたの」

 どこかで見覚えのある服だと思っていたが、そう言われてやっと思い出した。これは、羽衣がよく着ていた服だ。七海にそう言われるまで、なぜ気づけなかったのだろう。羽衣のことを少しずつ忘れているような、恐怖と悲しみに襲われているようだった。

「ごめん、もう泣くのやめるから」

 七海があの日に誓った約束。それは『羽衣お姉ちゃんのことで泣くのをもうやめる』。あの日、あの場所で俺と七海はそう約束をした。だけれど、これは例外にしてもいいような気がした。羽衣がもしそばにいるなら、そう言ってくれるはずだ。


 集合時間の十五分前。俺は此花駅の東口に来ていた。数十年前に再開発地域に選ばれ、今では昔の様子を思い出すのは難しいほどに綺麗になった。そして、ここには大きなオブジェがある。やかんだ。

 東口を出て此花十番街のビルのほうを向くと、それはある。やかんというのは、コンロで水を沸騰させるときにつかうあれだ。もちろん小さいわけではなく、かなり大きい。その大きさゆえに、待ち合わせ場所として使われることが多い。

「おまたせ」

「ううん、私も今来たところだから」

 紗那が姿を見せた。帽子を被っていて、下にはジーンズを履いていた。口調と上手く合っていて、少し男の子っぽい雰囲気を醸し出していた。普段からこういう格好をしているのだろうか。

「そんな決まり文句を言わなくてもいいよ」

「いや、一度使ってみたくて」

 待ち合わせと言えばこれなのだ。出かけるといえば七海と一緒であることが多く、外で待ち合わせる機会はなかった。そのせいか、こういう小さなことを体験してみたいと思っていたのである。今までは、漫画やドラマの世界の話でしかなかったのだ。

「沙希のことだから、ずいぶん前に来ていたんでしょ?」

 その予想は大当たりだった。遅れてはいけないと思い、家を早めに出た。そうしたところ、集合時間の三十分前には此花駅に到着していた。早めの行動は大切なのだ。

「うん。遅刻したくなくてね」

「ほんと、沙希は真面目だな」

 遅刻したくないという気持ちと、真面目という言葉がどう結びついたのか。それがわからない。

 ここで気づいたことがあった。紗那のとなりにいるはずの人が、見当たらないのだ。こういうときに別々に来るはずがない。そう思い、紗那に聞いてみることにした。

「ねえ、紗那」

「どうした?」

 なにをそんなに探しているのと言わんばかりの目で、紗那は俺のことを見ていた。二人の考えることは単純だ。ならば、どこかに隠れていてもおかしくはない。驚かせようとしているという可能性が、まったくないとは言えないのだ。

「由果はどこに行ったの」

 そう言うと、紗那が少し困ったような顔になっていた。困らせるようなことを言った覚えはないのだけれど。もしかして、本当に隠れているのだろうか。

「言うのを忘れていたけど、今日は沙希と私の二人だけなんだよね」

 このあいだ約束したときは、由果も行くと言っていたはずなのだけれど。なので、来るものだと思っていた。あれは聞き間違いだったのか。記憶をがんばって思い出してみるが、残っていたのは由果と紗那に買い物に誘われたという場面だった。確かにあのとき、由果も参加していたはずだ。

「来れなくなったってことかな」

「簡単に言うと、そういうこと。だから、今日は二人きり」

 二人きりという言葉に過剰に反応してしまい、なぜか舌をかんでしまった。紗那がそういう類の発言をするのは、かなりめずらしいことだ。そもそも、こういう反応をしてしまう俺もどうかと思うけれど。

 簡単に言うとという言葉には、どのくらいの情報が入っているのだろう。紗那が、情報をかなり削って話しているように感じた。なぜなら、具体的な話はしていないからである。

「そうなんだ」

 それ以上は追及するなといわんばかりの目線に、俺が立ち向かえるはずはなかった。なにもせずに相手を黙らせる女。それが紗那なのだ。

「嫌、だったかな」

 先ほどまでの雰囲気とは打って変わり、紗那は困惑していた。

「嫌じゃないよ」

 もし俺が二人きりになることを避けるなら、とっくに解散することを提案しているだろう。しかし、そんな気はなかった。これが原因で今日の買い物をやめようか迷うなら、紗那は連絡を入れてくるはず。それをしなかったということは、紗那は俺と二人きりになることに抵抗がないということだ。

 二人きりの状況になるのは、これで二回目だ。一回目は紗那が助けてくれたあとの薄暗い教室の中で。

「……そっか。嫌じゃ、ないんだ」

 自分に語りかけるように独り言をつぶやいている紗那は、まるでなにかを恐れていた少女のようだった。


 それからは、紗那が主導権を握っていた。服を見て回り、試着を何度もさせられた。初めは紗那が試着をしていたのに、途中から俺が着せ替え人形にされていた。そのことに文句を言う隙を与えてくれず、時間はあっという間に過ぎていった。

「あれ、沙希どうしたの?」

 疲れ切ってしまった俺は、いわゆる電池切れになっていた。店から出ると、視界に入ってきた椅子に座った。

「ちょっと休憩させて……」

 女の子ってなんでこんなに元気があるんだ。一人で来るなら、こんなに時間をかけることはないだろう。なぜなら、体力が持たない。運動するときの体力と買い物のときに使う体力は違う。そのことを今日思い知らされた。

「ごめん。ちょっと調子に乗りすぎたかな」

「そういうわけじゃないんだけどね」

 少し落ち着いたところで、すぐ隣にあった自動販売機でお茶を買った。値段は一五〇円だ。コンビニなどの店で買ったほうが安いのだけれど、今すぐに飲みたいという欲求に負けてしまった。

 しっかり冷えているお茶が、喉元を流れていった。少しだけ暑く感じる店内との温度差で、より冷たさを感じていた。それは嫌な冷たさではなく、気持ちいいものだった。

「沙希、もう疲れちゃった?」

 服を選んでいるときの笑顔はどこへいったのか、横を向くと不安そうな顔があった。まるで、飼い主の機嫌をうかがっている猫のようだった。

「いや、まだ大丈夫だよ」

「それなら……さ」

 紗那が、なにかを迷っているように見えた。店を出てからずっとこの調子なので、さすがに俺も調子がくるってきていた。

「もうちょっと、付き合ってくれないかな」

 否定されることを怖がるかのように、紗那はいつもより小さな声でそう言った。それを断ろうとは思わなかった。いや、思えなかった。いつもは俺に興味のないふりをしているくせに、こういうときに限ってそんな態度をとられると困る。

「いいよ。今日はとことん付き合う」

 紗那とこうして二人で過ごす時間は、今までなかった。だからこそ、大切にしないといけないのではないか。


 十番街を出て、東のほうへ抜けていく。日曜日ということもあってか、観光客の姿が多かった。普段は此花まで来ることがないので、この景色を見るのもずいぶんと久しぶりのことだった。

「やっとついたね」

 路地裏に入り、奥のほうに見えてきたのは寿橋だ。ここに来るのは、校外学習以来で約一年ぶりだった。地元の人がここを目的として来ることは、少ないのではないだろうか。そう言いたくなるほどに、観光客らしき人があたりをうろついていた。

「今日は本当にありがとね」

 沈み行く太陽の赤が、紗那の顔を照らしていた。それは放課後に見る紗那とは違っていた。どこかに心が持っていかれているような、そんな表情を浮かべていた。

「こちらこそ、ありがとう」

 紗那の買い物に付き合っている途中、あることを話した。それは、私服がまったくないということだ。そのことで困っていると言うと、紗那は何着か選んでくれたのだ。友達に服を選んでもらうというのは初めての経験で、少し緊張してしまった。けれど、今日誘ってくれなかったら、どうなっていたのだろう。

「ちゃんと似合う服を選んだつもりだから、安心して」

 紗那の言い方に、少し笑ってしまった。それにつられて、紗那も笑っていた。ここにあるのは、心地よさだけであった。そのときが、来るまでは。ずっと避けていた、たった一つの言葉。それを口にすると、すべてが終わりを迎えてしまうような。そんな言葉は、蛇口に残っていた水滴のように落ちた。

「あのさ、沙希は誰かを好きになったことがある?」

「それってどういう……」

 それの意味するところが、友情的ではないことは確実だった。なぜなら、紗那の口は震えていたのだから。

「私ね、沙希のことが……好きになったかもしれない」

 逃げ出したかった。そして、聞きたくなかった。どうして、紗那なのだろう。目の前にいるのが、羽衣でないのはなぜなのだろう。時間は巻き戻らないし、待ってもくれない。起きてしまったことをなかったことにするなんて、俺にはできない。それは、裏切りだから。

 誰かのためではない。自分を守るためには、そうするしかない。


 空は、赤かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る