第34話 また、会いに来て
月日の流れというものは残酷なもので、心の準備をする間もなく、25日の朝が訪れた。
「結局、一睡もできなかった……」
遠足の前の日に、はしゃぎすぎた子どもが目がさえてしまって眠れなくなるように、俺も眠ることができなかった。認めたくはないが、こういうところは昔から変わっていなかった。
顔を洗おうと洗面所へ向かうと、そこにはあかねの姿があった。
「あれ、もう起きたの」
あかねのことが頭から離れず、眠れませんでしたとはいえず、俺は気づかれないようにあくびを嚙み殺した。
「ちょっと朝から用事があってね。大丈夫、約束の時間までには間に合うから」
約束という言葉の響きが、心をうるおしてくれた。約束があるから頑張れる、とはよくいったものである。
あかねは、もうほとんど準備を終えており、すぐに部屋のドアへと向かった。いつから起きていたのかを聞いておきたかったが、そんな暇はなさそうだった。
「15時に、鮎川駅の例の場所で待ってるから」
「了解」
他人と言葉を交わしていて、心地良いと感じる瞬間は、いったいなんだろう。一番わかりやすいのは、暗号とまではいえないけれど、特定の相手にしか通じない言葉で会話をしたとき、だと思う。
おそらく、あかねにはこの気持ちがない。なぜなら、あかねにとっての俺は、あくまでも数いる友人のうちの1人でしかないのだから。
肌寒い季節となり、心なしか道行くカップルたちは、腕を組んだり手を繋いだりしている人が多いように感じた。寒いから少しでも温まろう、という考えがあるに違いない。
要するに、寒かった。
どう考えても浮かれている俺は、あろうことか約束の1時間前に到着していた。さすがに早いと思い、駅前にある喫茶店で時間をつぶしていた。
「お待たせ致しました。ブレンドコーヒーでございます」
「どうもありがとうございます」
そのやりとりで、少し違和感を覚えた。聞き覚えがある声だったからだ。それまではテーブルのほうに向けていた視線を上にあげると、そこにいたのは、はるかさんだった。
「あら、沙希だったの。なんだか久しぶりね」
「そうだね。ここでバイトしてたんだ」
ここの喫茶店は、落ち着いた雰囲気があることで有名だった。普段行く学生寮の近くの喫茶店も嫌いではないが、どちらかというと、ここのほうが好みだった。あと、はるかさんが着ている、青いエプロンがとても似合っていた。
「気が向いたら、夜にまた来て。今日は遅番シフトだから、帰りが遅いのよ」
「わかった。気が向いたら、来るよ」
同時に複数の約束はしない。そして、叶えられないかもしれない約束は、しない。それが、俺の中のルールだった。だからこそ、ぼかした返事をして、手を振った。
時間が近づいてきたため、俺は会計を済ませて、喫茶店を出た。
もうすぐあかねに会えるというのに、心のどこかで、不安な気持ちが芽生えていた。その原因は、あかねだった。今日の約束を、どのくらい大切だと思ってくれているのかという、考えてもどうにもならないことで、悩んでいた。
目の前に当の本人がいないからこそ、こんな悩み事を考える余裕があるのだろう。
待ち合わせ場所である、改札前にあるコインロッカーの横で待っていると、こちらに寄って来る姿が見えた。
「お待たせ。来るの早いね」
そんなことを言いながら寄ってきたのは、やはりあかねだった。すらっとした見た目なので、見つけやすいのだ。
「まあ、少しは余裕をもったほうがいいでしょ」
そう返すと、何を思ったのか、あかねは俺の頬に手のひらを当てていた。
「こんなに冷えてるくせに。暖かいところに移動しようぜ」
言葉が出なくなる、というのは、きっと今の俺みたいな状態のことをいうのだろう。
何をされたのか。気がついたときには、あかねは俺の一足先を歩いていた。ほんの一瞬ではあったものの、あかねの手は、確かに俺の顔に触れていた。
状況を理解すると同時に、自分の顔が熱くなっていることが、すぐに分かった。なぜなら、あかねが触れたところに自分の手を重ねてみたからである。
特に服が欲しいわけではないので、初めに鮎川駅近くにある書店に向かうことにした。
ここで女の子相手なら、
「服を見て回ろうか」
などと声をかけるかもしれないが、あいにくそんな趣味はなかった。そもそも、相手はあかねだ。
文庫本のコーナーに行くと、目立つように飾りつけされたところがあった。そこに貼ってあったチラシを見ると、ドラマ化決定と書かれてあった。そして、そのことに対して驚いたような反応を示したのは、あかねだった。
「なあ、沙希。このあいだ話した、大垣とも子の『ボーダーライン』がドラマ化するらしいよ」
「みたいだね。あれ、結構面白かったからなあ」
このあいだ、あかねから借りて読んだ『ボーダーライン』という作品は、いわゆる浮気モノだった。
話の導入として、まず主人公には長年付き合っている彼氏がおり、その生活は順調だと思っていた。しかし、主人公の心情的には、すでに彼氏への興味は薄れており、浮ついた日々を過ごしていた。
そんなある日、一通の手紙が届く。封を開けてみると、中から出てきたのは同窓会の招待状だった。気分転換にと思って、主人公は同窓会に参加する。そこで久しぶりに再会した同級生の女の子と、一夜を過ごしてしまう、というのが大まかな流れだ。
「あかねは、これ読んでどう思ったの」
賛否両論が分かれるのは、どの作品にも多かれ少なかれあることだ。しかし、この作品は、それが顕著に表れていた。
人間の持つ、理想と現実。そのはざまで、主人公たちは欲望を満たしあうのである。たとえそれが、偽りであったとしても。
「正直、あまり気分が良くなる作品ではないよね。途中で、昔の自分と重ねてしまって、辛くなるシーンもあったし」
まるで過去を懐かしむかのように、あかねは薄く目を閉じながら話していた。
やがて、心のどこかでそこに踏み込みたい、という感情が生まれていた。しかしながら、聞きたいという感情と触れることを許さない感情が入り交じっていることも、また事実だった。
だが、気づいたことが1つあった。それは、この機会を逃すと、これから先ずっと過去のあかねを知ることは、できない。知らなくてもいいことであることは理解していたが、それ以上に聞いておきたいという欲が、心を満たしていた。
「そ、そういえば、あかねは彼女がいたことはあるの?」
感情があふれるのを抑えきれず、舌を軽く噛んでしまった。
そんな俺をよそに、あかねは思考を巡らせていた。
「あるといえば……あるかな」
あかねの顔が少し険しくなるところを、俺が見逃していなかった。
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