第48話 母としての想い

「話って、なに?」

 実家にいるとき、俺と母が話す機会は本当にごくわずかだった。それらのほとんどが、事務的な会話だ。どうしても話さないといけないことだけ、話す。それが普通で、当たり前のこと。決して不満なんてものはなかったし、どうも思わなかった。しかし、今はあかねと暮らしている。寮生活で仕方なくというところはあるが、日常的に意識せずとも会話をしていた。きっと、これが"普通"なんだと思う。

「沙希に、ずっと黙ってたことがあるのよ」

「黙ってたこと?」

「そう、もっと言うと隠してた……ね」

 いやな予感がしていた。めったに口を開かない母が、自ら積極的に俺に干渉してきているのだ。そんな状況で話すことが、たいしたことでないわけがなかった。

 覚悟が決まらないまま、俺は母の話を聞くことにした。それしかできない。

「実は私、あなたの本当の母親ではないの」

 日本語を日本語として理解できない。それは、特段珍しいことではない。例えば、疲れているときがそうだ。頭が働かず、言葉の意味を理解できないときはある。また、聞きたくない話もそうだ。これは理解できないというよりも、理解したくないといったほうが適切だろう。

 今の俺は、どちらかといえば後者に該当している。

「……えっと、それはどういう意味で?」

 頭の中が混乱していたというよりも、処理が追いついていなかった。それだったら、目の前の人はいったい誰なんだということになる。赤の他人、もしくは父の隠し子。思いつく限り考えてみたが、どうもしっくりこないものばかりだった。

 完全に関係のない人が、十数年かけて俺の面倒を見てくれるだろうか。それは少し、考えづらい。ならば、このお姉さんは俺とどういう関係にあるのか。頭の中のもやは、広がっていく一方だった。

「そのままの意味で。隠していたことは申し訳ないと思うけど、許してほしい」

「ちょっと待って、それは分かった。分かったし、なんとなく状況も理解できた。でも、それなら、母さん…あなたは誰?」

「沙希の姉になるのかな。ただ、義理の姉ということになるけれど。実は、沙希のお父さんって、一度離婚しているのよ。だから、腹違いの姉妹ってことになるのね」

 その告白に、俺は衝撃を受けた。これまでずっと、当たり前のように自分の母親だと思っていた人が、実は義理の姉なのよなどと言い始めたのである。これは、とんでもない。

 会話などろくになかったのは、これが理由なのかと思ったが、それはおそらく違うのだろう。気まずいなら、それなりのやり方というものがある。ただ、この事実を俺が何年も知らないままというのは、寂しいと感じた。なぜ言ってくれなかったのか、そう思ってしまうのである。

「それは、七海も知ってるの」

「知ってる。七海ちゃんがこの家に来るときに、伝えていたから」

「そのときに、俺に言わなかった理由は?」

 自分が質問攻めをしていることは、気づいている。しかし、黙っていられなかった。たまに実家に帰ってくると、こうなのだ。俺だけが知らないことが、ポロポロと鱗が剥がれるように出てくる。もうそろそろ、いい加減にしていただきたいものだ。

 なにも、七海や義理の姉ということが分かった遥さんのことをどうこう言うつもりはない。しかし、俺に関係あることをなぜ言ってくれない。戸惑いや不安というよりも、そのときの俺はただ怒っていたのかもしれない。

「あなたの父親に、黙っているようにと口止めされていたからよ」

「いや、そう言われても……。だって、俺の記憶には父親の顔すらないよ」

 記憶の片隅にすら登場しない、俺の父。いつから俺と一緒にいないのか、なぜ出ていったのか、俺のもとには父を構成する情報がなにも存在していなかった。


 一方的に秘密を明かされるのは、きっと今の俺みたいな気持ちになるのだろう。苛立って、悲しくて、やり場のない感情に包まれてしまっている。理由があるのだから、受け入れるしかないことは分かっていた。しかし、感情が理解してくれなかった。

「一つ、聞いてもいい?」

「うん」

「俺が女子高生として生活するって決めたとき、はるかさんはどう思ったの」

「分かった。ちょっと待って。遥さんはよそよそしいから、別の呼び方考えて!」

 シリアスな雰囲気が漂っていたところに、波がやってきた。真顔で話を聞いていた遥さんが、急に焦り始めた。呼び方なんてものに、そこまでこだわるような人だとは思っていなかったのだけれど。

「別の?」

「そう。ずっと母親扱いされていたことは仕方ないとしても、他人みたいな呼び方されるのはねえ」

「まあ、そう言われると俺もそこに違和感はあるけども。じゃあ、姉さんで」

「もうそれでいいわ」

 諦めたような顔をして、遥さんもとい姉さんはそう言い放った。姉さんには悪いが、今はその話がどうでもよく感じる。

「話を戻すけど、どう思った?」

 これだけは、いつか聞いておきたかったのだ。実のところ、俺の性別云々の話にそれほど姉さんは関わっていない。そのため、半ば強引に話を進めていたことも、もしかしたら姉さんは嫌がっていたのではないかと思ってしまったのである。微妙な距離感を無くして、俺は姉さんと接したいと思ってる。だからこそ、まずは俺自身の本音をぶつけていくことにした。きっと、こういう気持ちをわがままというのだろう。

「どうも思わなかったって言うと、嘘になるかな。こういうと悪く言ってるみたいに聞こえるかもしれないけど、自由に暮らしてほしかったのよ。今更って思うと思うかもしれないけれど、あまり母親らしくできなくて、ごめん」

 姉さんが、謝った。ごまかしや気持ちのないものではなく、ただ純粋な気持ちで謝っているように、俺には聞こえた。

「いや、でもさ。本当の母親じゃないもんね」

 俺は、そこで気持ちをぐっと堪えた。なんでだよ、そうだったとしても俺の姉なんだろう、と。そんな怒りに似た気持ちが、わずかながらに心の中を漂っていたのである。こんなにも感情が入り混じるのは、いつぶりだろうか。

 基本的に感情の波はほとんどない俺だが、あかねと羽衣、そして今の姉さんのことくらいでしか、感情は揺れ動かない。それはそれでおかしな話だとは思うが、実際そうなのだからなんとも言えない。

「……分かってる。分かってるの、沙希がそんな理由で納得しないことくらいは。でも、私には突然できた妹に姉らしく接することも、ましてや母親らしく接することもできなかった。頑張ろうって何度も思った。これじゃあ、沙希のお母さんに言われたことを、約束を守れないってそう思ってた」

 俺は姉さんと同じ気持ちにはなれないし、同じ人間でもない。なので、姉さんの抱えていた気持ちを全部理解することはできない。そんなごく普通のことでさえも、そのときの俺には冷静に状況を判断できなかった。冷静な感情と咀嚼できない熱された感情を天秤にかけられるなら、きっとそれは成り立たずに天秤のおもりが解けてしまうだろう。

「でも、姉さんは俺の母親じゃない。そう言いたいんだよね」

「言い訳だってことは、ちゃんと分かってるし、責任感ないってことも分かってる。だから、謝罪も含めてこれからは沙希と仲良くしたいって思ってる」

 姉さんは、本当にそう思っているのだろう。昔から嘘はつくことだけはできない人なのだから、こんなことで嘘を言うはずがない。それが本当なら、俺はそろそろ冷静にならないといけない。

 そうするためには、あのことをはっきりさせればいいのではないかと、そう思った。

「それなら、一つ教えてほしいことがある」

 俺は、卑怯な手を使おうとしている。きっと、軽蔑されるかもしれない。父親の情報を手に入れるために、姉さんからの歩み寄りを利用しようとしているのだ。そんなふうに他人を試すような手段を使わないほうがいいことは、誰に言われなくとも分かる。しかし、今のこの機会を逃せば、また永遠に近い時間間隔で父のことは暗闇へと消えてしまうだろうと思ったのだ。

 これ以上、この話を引き伸ばしていてもなにもいいことはない。それは、多分お互いにとってそうだと信じたい。

「うん。なにかな」

「単刀直入に聞く。俺の本当の父親は、誰?」

 記憶の最果てにも存在していない、俺の父親。物心ついたときには、すでにその存在はなかった。一緒にいるのは、間違いなく姉さんだけだった。そして、そこに新しく家族として増えたのは七海だけだ。父さんはいない。

「そうね。まあ、ここまで伝えたんだから、もう隠しても仕方ないよね」

「やっぱり隠してたんだね」

 間髪入れずにそう言うと、姉さんは苦笑していた。

「……桜ヶ丘高校、校長室。そこに行って、私の名前を出すといいわ。そうすれば、間違いなく真相にたどり着けるはず、だから」

 予想外の言葉に、俺の口が気づかぬうちにポカンと開いていた。

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