第49話 居場所

 その日の俺は、此花十番街このはなじゅうばんがいにいた。実は、この日のために俺は森本へ帰ってきたといっても過言ではないのである。

 目の前にいるのは、いかにも綺麗なお姉さんという見た目の人だ。ピアスを付けて、控えめながらも綺麗なネイルをしていた。


「母親が実は姉だった?」

 半信半疑という目で、香織さんはこちらを見ていた。そりゃそうだ。そんなことをふいに言われて納得できそうな人は、きっといないだろう。理解できない云々というよりも、理解しようという気になれないと思う。

「そう。昨日言われたんだ。新年早々、相変わらずめちゃくちゃな人だよ、あの人」

 聞いたあとで言うのは変な感じだが、伝えるタイミングというのがあるのではないか。少なくとも、羽衣の話のあとに話すような内容ではなかった。ただ、年に数回の頻度でしか姉さんとは会えないので、そうなってしまったのだろう。ちなみに、ここでいう姉さんとは元は母親だと思っていた人のことである。

 一方的に明かされた秘密は、明かすほうにとって気分のいいものではない。明かされるほうは、もっと気分がよくない。

「でも、私が口を挟める問題ではないと思うんだけどさ、沙希くんのお姉さんはずっとつらかったんじゃないかな」

「うん。それは、分かってるつもり」

 突然できた妹を、自分の子どものように扱わないといけない。どう考えても、それはストレス以外のなにものでもなかったと思う。そして、それを十数年黙り続けた。俺がもし姉さんの立場だとしたら、とてもじゃないが耐えられない。

「言えなかったのも、きっとその校長先生だっけ? が関係してるんでしょう」

「うん……」

「理由がなにかは知らないけど、とりあえず校長先生に聞いてみるしかないんじゃない? ここでもやもやしてるほうが、よくないと思うわ」

「やっぱり、香織さんもそう思う?」

 解決できない話をした理由は、ただ単純に誰かに話を聞いてほしかったということだけだった。特に俺自身は、この漠然とした消化できない気持ちにケリをつけられないことは分かっていた。結論を導き出すには、やはり校長先生のところへ行くしか方法がないのだ。


 羽衣や七海たちには失礼な話だが、実家に帰るというのはあくまでもついでだった。香織さんと会うために、事前に予定を入れていたのである。俺と似た境遇にいるとこちらが勝手に思っている相手に、どうしても聞きたいことがあるのだ。

「なんというか、すみません。新年明けたばかりなのに、こんな話して」

「いいのよ、お姉さんに話しちゃったほうが楽になるでしょ。沙希くんの話だったら、いくらでも聞いてあげる」

 その言葉を聞いて、香織さんは優しいなと思うことよりも先に、なぜ俺のことをこんなにも気を遣ってくれるのかと思った。今日だって別に、俺からの誘いを断ってもよかったはずなのだ。ずっと連絡をとっていなかった知り合いから突然『お正月、どこかで空いてる日ありませんか』と聞かれたら、俺は何事かと思ってしまう。そして、ちょっと難しいねと断るだろう。

 香織さんがこうして接してくれている限り、俺は甘え続けるのだと思う。だが、どうだろう。俺は元々自分のことを『僕』と香織さんの前では言っていた。今は違う。呼び方くらいどうでもいいと思うかもしれないが、香織さんと初めて会ったときの俺は、間違いなく多少は無理をしていたのだ。

 今はもう、香織さんになにも隠す気はなかった。隠すつもりなら、俺はわざわざ森本まで来ない。

「香織さんは、なんで女になろうって思ったの」

「……いきなり直球投げてこないでよ」

 さすがにこれはやりすぎたみたいだ。

「ごめんなさい」

 謝りながら、俺は少し口角があがってしまった。変な感覚だったが、申し訳ないと思いながらも、自分がした質問の無意味さに気がついてしまったのである。

「分かったわ。じゃあ、私から質問ね。これは変な意味にとらえないでほしいんだけど、沙希くんはまだ"女の子になりたい"?」

 女の子になりたい。その言葉の意味を考えたときに、出てくる選択肢は二つあった。まずいわゆる性別が変わることへの願望。そして、現状から逃げ出すための願望。この二つだ。

 実際、女の子になりたかったという男を身近で聞いたことはないが、俺はそれではない。もしそれらしくいうなら、女として生きたかった、となる。俺は、非常に不安定で不確定な存在であるため、男とも女とも振り切っていえないようになっている。これを振り切ることができるなら、俺は喜んで『女』になるだろう。だがしかし、現実はそんなに甘くはない。

 あのとき、研究結果を見たときに分かったように、俺は完全な体を手に入れることはできない。おそらく、これから先もずっとだ。結局、それっぽく見せることができるようになるだけなのだ。それそのものを手に入れることは、限りなく不可能に近い。

 こんな俺でも、暮らそうと思えば女として生きていくことはできるだろう。もし俺が望めば、女子大生として他人からみてまっさらな認識の状態で、生活できたはずだ。それを選ばなかったのは、他の誰でもない俺自身だった。その選択自体を間違ったとは思っていない。

「たぶん、俺は昔よりもそうなりたいとは思わなくなってる」

 普通になりたいと願うあまり、俺は半ば強制的に変わろうとした。結果的にそれ自体は失敗だったと思っているが、今更考えたところで特に意味はない。片道切符の旅はすでに始まっているし、途中下車もできない。

「そっか。それ聞いて、少し安心したかも」

「え?」

「だって、女とか男とかってなろうと思ってなるものじゃないから」

 それを聞いたとき、俺はなんて子どもだったんだと痛感した。

 落ち着いて考えれば、そんなことはごくごく自然なことだった。性別について話すことがなかったゆえに、自分自身が気づけなかっただけなのだ。

「私も沙希くんにかなり近い立場だから、なんとなく分かるんだけどね。昔、私がまだ沙希くんくらいのとき、早く女になりたいって思ってたの。正直ね。でも、大学を卒業したあとで気づいたのよ。女ってなろうとしてなれるものじゃない、って」

「そのあと、どうなったんですか」

「女にはなれないって分かったあと、一度未遂を図ったわ。こんな人生どうにでもなればいいって本気で思ってた。警察沙汰になってね、引き受けに来てくれたのが今の夫。なんでって思ったんだけど、私が無意識に公衆電話使って電話してたらしいのよ。笑っちゃうでしょ」

「じゃあ、それがなかったら……」

「今、ここにはいないかもね」

 香織さんは過去を懐かしむと同時に、苦虫を噛んだような表情をしてその話をしていた。あまり思い出したくないことを、俺に話してくれているのだと思う。

「体が回復したあと、すごく怒られたわ。自分の体は一つしかないんだから、大切にしろってね。それからしばらく経って、付き合うことになった。そのときのきっかけが面白かったのよ」

 表情がパッと晴れ、目を閉じて思い出すようにこう続けた。

「突然ね『家に帰ったときにお前が家にいると、本当にホッとするんだ』って言い始めたのよ。ああ、こんなにも気にかけてくれるんなら、私はここにいてもいいのかなって思えたんだよね」

 香織さんがどういう気持ちでこの話をしてくれたのかを考えると、胸が痛くなった。自分の体のことに一番気を回せるのは、自分以外にいないのだ。そんなごく自然に思えることでさえも、俺は自分の頭の中から消して、なかったことにしていたのである。そして、それに気づかせてくれた人が、香織さんにとっての大切な人になったのだろう。

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