第50話 決着

 桜ヶ丘高校、校長室前の廊下。俺は例の話の決着をつけるべく、ある人に会いに来ていた。


「どうぞ」

 校長室の扉の奥から聞こえるのは、重みのある低い声だった。

「失礼します」

 扉を開いて中に入ると、重厚感のある椅子と机が置かれた空間が広がっていた。軽く会釈し顔を上げると、そこには俺の体とは明らかに違って、肩幅が広く胴も横に長い男がいた。つい数年前まで通っていた高校の校長だが、こんな人だっただろうか。そう思ってしまうほどに、接点は少なかった。

 意識的に話しかけたりしない限り、校長先生と生徒の交流は少ない。


「話があると、聞いている」

 口下手なのかなんなのか分からないが、校長の表情を上手く読み取れなかった。それとも、声が聞き取りづらいので、そう感じるだけなのか。

「はい。校長先生は、俺の体の秘密を知っていると聞きました」

 そう伝えると、突然目を点にして、俺の顔をじっと見てきた。

「もしかして、遥から聞いたのか」

 なぜ急にその名前が出てくるのかと思ったが、当然だと思う自分もいた。遥姉さんが、俺をここへ導いた理由。それを考えると、遥姉さんと校長先生の関係がただの知り合い程度ではないことくらいは察しがついた。

「はい。そうです」

「そうか。分かった」

 右手をぐっと握って、校長は立ち上がった。そのあとで校長室の奥にある窓のそばへと移動した。その動きはあまりにも露骨で、俺と顔を合わせたくないと言っているかのようだった。

「遥からどこまで聞いたかは分からんが、結論から言う」

 気持ちの問題だろうか、喉も渇いていた。おそらくこれを聞いたあとは、もう引き返すことはできない。真実がどんなものであっても、受け入れないといけない。

 そう思っていた。その言葉が耳を通るまでは。

「私が、秋路の父親だ……とはいっても、そう言えるほどの資格があるのかは、実のところ分からない」

「…校長先生が、俺の父親?」

 名前を呼ばれて、それが自分のことだと気づくのに数秒かかったのは、仕方のないことだと思った。なぜなら、その名で呼ばれたのがいつぶりなのだろうか、そんなふうに考えるほどに久しぶりのことなのである。

 校長なのだから知っている、そう考えるのもありかもしれない。しかし、よく考えてみてほしい。一人ひとりの名前を、ましてやフルネームで覚えている校長などいるのだろうか。なおかつ、俺はすでに卒業生だ。いくらなんでも記憶力が良すぎる。

 つまり、窓際で俺の言葉を待っていたその人は、俺のことを覚えているに違いない。そういうことなのだ。

「そうだ。今まできちんと会えていなくて、すまなかった。本当に、そう思っている」

 心の中では、さまざまな感情がせめぎ合っていた。なぜ遥姉さんにすべてを任せたのか、母さんはなぜ亡くなったのか。そして、なぜ俺たちを見捨てたのか。話したいことが、泉から湧いて出るように溢れだしていた。

「あのさ」

「うん?」

「俺がここへ来なかったら、あなたはなにも言わないつもりだったのですか」

「そのつもりだった」

「なぜ?」

 声が大きくなりそうになったが、それを必死に抑えていた。落ち着かなければ、きっと俺はここにいられなくなる。感情の暴走は、なにも生み出さない。そのことを、俺は痛いほどに分かっていた。

「それが私の、自分自身への戒めだと思っていたからだ」

「戒め?」

「私は、秋路の体のことを受け入れられなかった」

「どういうこと?」

「実は、秋路が生まれるまえに出生前診断をしたんだ。お前の母親の体の中にいるときの話だがな。そのあと、結果を伝えられたんだ。結果は、染色体異常の可能性がある、というものだった。それがなんなのか、言われた直後は分からなかった。しかし、具体例を挙げられて、ようやく分かったんだ。生まれてきた子は、"普通"ではないのだと」

 ……堪えよう。いったん堪えよう、俺。

「生まれてきた秋路と入れ替わるように、母親のゆかりは亡くなった。元々体が弱かったためか、出産に耐えられなかったらしい」

「じゃあ、俺は自分の母親のゆかりさんとは会ったことがない?」

 実感が湧かない。まるで他人の話に聞こえてしまう。それはきっと、これまでの生活の中でその名前を聞いたことがなかったし、写真すらも見たことがなかったからだ。

 俺にとっては、父親がいたらこんな感じなのだろうと思える人が、目の前で知らない女の人の話をしているようにしか思えない。なんてひどいやつなんだと思うと同時に、父親がこんな人だったのかと失望すらしていた。

 こんなに耳が痛くなる話があるだろうか。これでは、俺が生まれたことそのものが悪だったと、そう聞こえるではないか。

「それで、父さんは逃げたんだね」

 堪えきれずに吐き出すように出た言葉は、明らかに父親への当てつけだった。

「そうだ。その通りだ」

 おじさんは、開き直った。吐き出してすっきりしたのだろう。

 むかついた。

 父親との感動の再会どころか、感情が荒ぶっているだけだった。こんなことを抱えるために、俺はここまで来ているのだろうか。もしそうだとするなら、かなり後悔してしまう。来なければよかったと、そんなふうに考えてしまうじゃないか。

「だからこそ、せめて自分にできることを探していた結果、秋路にその日がきたことを聞いたんだ。早坂先生から」

 女体化現象。そして、そのあとで異常なまでに保護された俺自身に対する、高校での支援体制。俺は知らないあいだに、父さんからの支援を受けていたのだ。だが、それらはすべて父さんの押し付けではないだろうか。素直に喜びにくかった。なぜなら、父さんはもっと根本的な部分を見ないようにしているからだ。

「遥姉さんに全部押し付けたこと、なんとも思ってないの」

「感謝している。そして、申し訳ないと思っている」

「ありがとう、だなんて言いたくない。ひどいと思ってる」

 感情がこもっていない言い方に、俺はついに耐えられず、帰り支度を始めた。

「父さん。もう俺は会うつもりないけど、正直会えて良かったとは思えなかったよ」

「秋路、本当にすまなかった」

 立ち上がり後ろを振り向き、入口の扉に向かって歩いた。そして校長室の扉を開き、明るいほうへと進んで歩いた。もう、後ろは振り向かない。父さんはきっと、俺を止めようともしない。

 結局、父さんはあくまでも校長先生で。俺のことを、ずっと前から認識していた人で。けれども、俺のことはよく分かっていなくて。

 会いに来たことに意味があったのかと考えてみたけど、たぶんそこに価値はなかった。人生に意味を見出すのは野暮だが、こんなにも空虚感を覚えることになるとは思っていなかった。


 さよなら。きっと、あの人ともう会うことはない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る