第51話 あなたは特別じゃないから
新年が明けて、俺は大学にいた。新年明けの大学は、通常よりも人が少ない。ようは、サボる人がそれなりにいるためだ。ここまで分かりやすい行動をしているのは、本当に馬鹿馬鹿しいと思ってしまう。一日や二日休んだところで、特になにかがあるわけでもないだろうに。そのせいで単位取得が危ぶまれる人がいてもおかしくない。
ちなみにどのくらい少ないのかというと、講義室の人口密度があまりにも低く、人と人の感覚がかなり空いていた。それもあってか、教授によってはやる気が起きなかったのか、自習の時間だと言って出ていく始末だ。去年の今頃も同じ現象が起きていたが、本当に酷い。俺が真面目に来ている理由の一つは、教授の悲しい顔をどうにかしたいというものだ。自分自身の気持ちを割合にして考えると、本当にごくわずかなものだったが。
ある意味で地獄のような時間を過ごしたあとで、俺は幽霊部員に近い存在となってしまっている文芸サークルに足を運んでいた。今の時期は皆が忙しいと口を揃えるので、部室内は閑散としていた。来なくてもペナルティーはなく、自由な考え方を尊重するサークルなので、全員の顔が見れる日はかなり少ないのだ。
そんな環境ではあるため、俺はこの部室にこもることが多かった。何をしているのかというと、当然ながら読書だった。
俺自身はいつもと変わらず読書をしていたつもりだった。しかし、今村がこんなことを言い始めた。
「沙希、お前好きな人でもできたのか?」
「なんだよ、藪から棒に」
いったい、どんな思考をすればそんな発想に辿り着くんだ。それまでしていた話に関連性はないし、それに近い会話をしていたわけでもなかった。ストーブを入れているおかげで暖かくなったおかげで、頭が上手く回らないのだろうか。
「だって、ずっと同じページばかり読んでるぞ」
どうやら、頭が回っていなかったのは俺のほうらしい。指摘されて気がついた事実に、俺の顔は真っ赤になっていた。そう思ってしまうほど、顔の表面に熱っぽさを感じていた。
はるかとの関係は、あれ以降まったくといっていいほどに進展がなかった。完全に
はるかから見ると、俺はどんな感じなのだろうか。しばらくそんなことを考えていたが、そんなものは考えても結論など出せない話だった。他人の頭の中は、覗き見できない。
「もしかして、はるかさんとなにかあったのか」
「なにもないよ、本当。なにもなかった」
唯一いえるのは、あのときの俺はどうかしていたということだ。確かにあのとき、俺は自らの女の部分をはるかに対してさらけ出していた。あとで客観的に考えると、とても異様だといえる。暗闇だったゆえに、さほど気にならなかったのだろう。
「顔には『違う』って書いてあるぞ」
「余計なお世話だ」
今村に何がわかるんだ。そう言ってやりたかった。
一度沸き上がった感情を収められず、本を読む気になれない俺はQ棟を出て、中庭まで来ていた。着いたあとに長時間縮こまっていた背中を伸ばしていると、どこからか視線を感じた。どこからかとあたりを見回すと、久しぶりに見る姿があった。
「あれ、沙希じゃん。元気?」
なんであれからずっと連絡してこなかったのかと聞きたくなったが、それをいうならこちらも同じことをしているということに気がついてやめた。今更そのことをどうこう言ったところで、なにかが変わるわけじゃない。
「まあね。そこそこかな」
どうしたらいいのかが分からず、そこでじっと我慢して待っていた。言葉を待つなんて、俺は自分のことを卑怯だと思った。どんな言葉を投げかけるか、そして与えるかによって、花の咲き方は変わるのである。先頭を進んでいける自信が、なかった。
「あの、沙希」
「うん?」
「わたしといるの、気まずい?」
言わなくても伝わることはある。しかし、それが自分の思っていることと食い違うことなんて、日常茶飯事だ。同じ空気を吸っていても、それはごく当たり前に、俺たちの周りを包んでいる。
「いや、そういうわけじゃ……」
相手が気にしないでといっていても、言われたほうが気にしてしまう。今の俺の状況は、とてもそれに近いだろう。
「別にいいよ?」
俺には、その『いいよ』がどういった意味での『いいよ』なのかが理解できなかった。良いというそのままの意味なのか、それとも不要だという意味にとらえていいのか。どちらと受け取るかによって、やりとりの行先がかなり変わってしまう。だが、はっきりさせたいところは、そんなことじゃない。
「うん」
人間、困ったときにはとりあえず
もやをなくさないといけないことに限って、そのもやを晴らせようとはしないのだ。お互いに。
「沙希は、ああいうの嫌いな人?」
さっきからかなりぼかして言葉をかけてくるのには、何か理由があるのだろうか。その話をあまりする気ではなかったのか、それともただ単純に具体化したくないだけなのか。それが、すぐには判別できなかった。だが、それを言ったあとのはるかの表情で、俺はある確信をもった。
はるかは、俺と体を重ねたことに対して疑問をもってしまっているのだろう。
俺はあのとき、確かにはるかのことを受け入れた。しかし、そこに心はなかった。戸惑いとかそういった感情は確かにあったが、それは決してはるかと交わりたいとか、そんなものじゃない。
「嫌いかそうじゃないかで答えるのは難しいけど、ちょっとだけびっくりはしたかな」
「そっかぁ……」
どうも納得いっていない様子だ。
「すごく失礼なこと、聞いてもいい?」
「いいよ」
「沙希は、好きじゃない人でもああいうことするの」
沈黙。ただ、そこにあるのは沈黙だった。
答えられない。そのときの俺は、はるかの言う通りの感情を抱えていた。自分の中でうずくまっていた、はるかへの感情がいったいなんであるかを確かめたのだ。その結果で分かったのは、俺ははるかに対してなんの感情もなかったということである。潮風とペットボトルの口に、俺は惑わされていたのである。
「……あの、もしよかったらさ」
「うん」
「わたしの部屋、来ない?」
「はい?」
「大丈夫。なにもしないから」
こんなにも信じられない『なにもしない』を聞くのは、初めてかもしれない。判別をつけるためにはるかの顔を見てみたが、真顔だった。ああ、そうか。これがいわゆるポーカーフェイスなのだ。
いや、しかしだ。目の前の女の子もといはるかさんは、なぜこんなにも俺に干渉してくるのだろう。俺自身の秘密は、すべて明かしてしまった。それをした理由は、俺のことを忘れて離れてもらうためだった。だが、そんな俺の考えをすべてなかったことにするかのように、はるかはまだ俺の中に入ってこようとする。どれだけこちらに来ようとも、俺ははるかをこれ以上内側に入れるつもりはないし、こちらから向かおうとも思えない。
それならば、俺がもうはるかに関わる必要は、ないのではないか。何も思われていないと分かっているからこそ、俺に関わってくるとも考えられた。
「なんだよそれ。あいにく用事があるから、今日は厳しいな」
苦笑いをしながら、俺はそう言った。
もちろん、嘘。
秘密の共有をすれば、俺はあかねへの想いを断ち切って、はるかのほうを向けると思っていた。けれど、その考えは甘かった。
手の届く距離でうつむく女の子の姿を見て、羽衣と重ねる俺は、本当にどうかしているのだ。どれだけ想われていても、俺ははるかの気持ちに応えることはできない。もっと顔が違っていたら、声が違っていたら、もしかすると俺がはるかのことを好きになる世界もあったのだろうか。
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