graduation
第六章 花舞う季節
第52話 二人の場所
桜の開花予想図が、テレビに映し出されていた。季節の移ろいは早く、俺たちはもうすぐ学生寮を離れる。
実は、あかねはもう学生寮には住んでいないも同然だった。というのも、あかねはいつのまにか彼女を作り、今年に入ってから半同棲生活を始めていたのだ。卒業研究の発表会も終わっているので、もうここで暮らす必要性も薄れつつある。
そんな時期だが、三月までに寮から出ないといけない関係で、あかねは一時的に戻ってきていた。要は、荷造りと引越しの準備が必要なのである。
あかねが帰るのは明日、つまり今日が一緒に過ごせる最後の夜だった。最後ということもあり、二人で買ったちゃぶ台の上には酒とつまみが散乱していた。こういうときの話題は、ほとんどが過去を懐かしむものばかりだ。俺たちも、例外ではない。
「今だから言えること、なんだけど」
「なんだよ急に」
それまでの賑わいをなかったことにするように、俺はじっとあかねのことを見つめていた。
ここで言わなければ、もう伝えられるタイミングがない。そのことに気づかされたのは、香織さんのアドバイスのおかげだった。この行為をすることによって、今までのことが許されるわけでもないし、きっとあかねは嫌がるだろう。というよりも、嫌悪感を抱いてしまうかもしれない。しかし、そうやって悩めるのは、今のうちなのだ。
俺たちはもう、ここで会えなくなる。当たり前の日常というのは、いつか終焉のときを迎えるものなのだ。
「俺、あかねのこと好きだった」
伝えたあと、恐る恐る顔を上げてみると、あかねはそれほど驚いてはなかった。むしろ、納得したような表情だった。
「そっか。なるほど」
「反応薄くない?」
あかねは本当になんとも思っていない様子だった。まるで、そう言われることを想定していたかのようでもあった。
「そりゃそうだよ、気づいてた。俺だって、そこまで鈍感じゃない」
「…いつから?」
言葉のやり取りの間に挟まる、無言の時間が永遠とも感じられた。なかなか言葉を続けてくれないあかねの様子を、俺は固唾を呑んで見ていた。
「疑っていたのが確信に変わったのは、例の海岸のときかな」
「はるかとちょっとおかしくなった時期か」
距離感がおかしくなっていたといえば、はるかはきっと怒るだろう。だがそれは、きっとはるかのなかでは過去のことでしかないはずだ。
俺の心の中には、いまだにひっかかっているというのに。
「そう。あのあと、沙希が俺にそのことを話してただろ。そのときに、お前は『それをしたい相手ははるかさんじゃない』って顔してたんだぞ。笑いそうだったんだからな」
ペットボトル事件から、一年が経っている。この一年間、俺はその気持ちを隠したままあかねとの関係を壊さないようにしてきた。だが、どうだろう。そう思っていたのは、どうやら俺だけだったらしい。
あかねは、そんな俺の気持ちに気づいたまま、友人としての関係を続けていたのだ。
「そう思ってたんだが、合ってるか?」
「合ってるよ。間違いない」
なんだったんだろう。お互いに気づいていながら、あかねは気づかないふりを続けていて、俺はバレていないと思い続けていた。
「なら、沙希はいつから俺のことが、その…気になってたんだ?」
「初めて会ったときから、だな。そんでもって、初めから諦めてた」
「……そうか」
あかねとどうこうなりたいとか、もっと関係を深めたいとか、そう思った時期もあった。しかし、悩んでいるうちにあかねは遠くへ行ってしまった。手の届く距離で、あかねに届かない感情が俺の心を覆っていた。
「だからまあ、俺から言えるのは、彼女さんと幸せになれよってことかな」
こんなことを言いたくはなかった。だが、今日がこうして一緒に過ごせる、おそらく最後の日なのだ。あかねの恋を応援しなくて、いったいどうする。それくらいできないと、俺はあかねと一緒にいる資格などない。
「ありがとう」
「……俺、あかねにもう一つ伝えておきたいことがある」
「うん」
目の前にいたのは、なにを聞いても驚かないといいたげな、あかねだった。彼はずっと、俺のことを気遣ってくれていたんだ。そしておそらく、俺がこの話を切り出さなければ話さなかったことだろう。
これはもう、俺のわがままなのだ。自分勝手で、あかねのことを戸惑わせるだけの、そんな迷惑行為なのだ。しかし、伝えないほうが罪悪感が大きい気がするのだ。覚悟を決めた俺は、最後まで秘密にしていたことを伝える。どちらにしろ、もう俺とあかねがこの先会うことはない。
「実は、俺は女の体なんだ」
あかねは黙っていた。口元は少し震えているような気がした。
「とはいっても、あかねとはかなり状況が違うけど。生まれたときは男だった。それから成長していくにつれて、周りの男と同じように背が伸びたり体が大きくなったりした。でも、その日は突然来たんだ」
思い出したくもなかった。もはや、記憶の彼方に投げ捨てたい出来事だった。だが、それがなければ今の俺はきっといない。
「体が、女みたいになり始めたんだ。自分の目を疑った、これはきっと夢なんだ、きっと明日にはまた元に戻る。現実はそう甘くなかった。日が経っていくごとに、体はどんどん女らしくなっていった。だから俺、言ってなかったけど女子高生やってた時期もあったんだ。そうすれば、抱えている違和感も消えて、いつか本当の女になれるんじゃないかって、そう思ってた」
手汗をかいていた。爆発しそうになっていた感情を出さないでいると、人はおかしくなるものなのだ。これは、自然の摂理である。
「今の俺を見てわかる通り、そんなに甘くはなかった。女としての自分を受け入れることができず、男として生きていくことにしたんだ。そして、あかねと出会った。その感情が恋心なのかと聞かれると難しいけれど、確かに惹かれるものを感じたんだ。お前と初めて会った、あの学生寮の玄関の前で」
「辛かっただろ」
「ああ。ものすごく。でも、ここであかねに出会えて本当に良かった。心の底から、俺はそう思ってる」
気持ちを伝えることで、あかねがどう思っているのかは分からない。しかし、伝えたことで喉の奥にせき止められていたもやが、ぱっと晴れたのは間違いなかった。
「ありがとうって言えばいいか? すまん、男相手に告白されたことがないから、正直戸惑ってる」
「それでいいよ。ありがとう、くだらない話を聞いてくれて」
そう伝えると、あかねは少しだけ微笑んでいた。
「全然、くだらなくないから…な?」
俺はあかねのことが、ただどうしようもなく好きだった。この感情を過去のものへ変えるには、どうすればいいのだろうか。
きっと、忘れることなんてできない。だが、これだけははっきりといえる。この四年間の寮生活は、間違いなくかけがえのない時間だったと。そしてもう、あかねとはこういった時間を過ごせないということも。
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