第20話 姉としての自分

 七海は俺と同じ歳だ。そして、俺のほうが早く生まれたので姉ということになっている。細かいところをいうならば、まだ書類上は男のままだ。そのため、俺が兄で七海が妹ということになる。

 七海が中津家にいるようになってから、実の妹のように接してきたつもりだった。実際のところ、どう思われているのかは分からない。けれども、兄妹としての関係は崩すことができない。そのあたりを気づかっているのか、今でも七海は俺のことを『お兄ちゃん』と呼んでいる。家の中にいるときだけは、相変わらずそう呼んでいた。

「お兄ちゃん、一緒にみかん食べない?」

 それは近所の青果店で、特売品として売られていた。俺が連絡なしに家に帰るのが遅くなり、そのお詫びとして買ってきたみかんだった。

「いいよ。あとで下に行く」

 その日の気温はとても過ごしやすく、窓を少しだけ開けるとちょうど良い温度になった。机の上で頭だけ横にしながら、いろいろと考えごとをするには最適な環境だった。


 大学入試は一区切りつき、あとはよい結果を待つだけとなっていた。成績も目立って下がるようなことはなく、何日後に訪れる卒業式を待つのみだった。自分の体が女のようになる現象に見舞われながらも、なんとか生き延びてきた俺のことを褒めてほしい。

 時間というのは、気がついたときにはあっという間に過ぎていく。いわゆる女体化現象が始まってから、約一年が経過していた。現状、その進行は鈍り始めていた。右肩上がりで成長を続けていた体は、少しずつ落ち着いてきていた。それが何を意味しているのかは分からないけれど、もう驚くことに対しても疲れ始めていた。今の俺なら、何が起きても対処できる自信がある。 

 外見的に一番変化したのは、体のラインだった。それまで意識していなかった俺でも気がつくくらいに、変化していた。もう、男に戻ることができないということなのか。意識と外見の乖離は、今後も大きくなるのだろう。そういった不安とは裏腹に、時間は止まることを知らなかった。


「お兄ちゃん、やっと来た」

 リビングに行くと、そこには体をぴったり机の上につけながら、みかんを食べる七海の姿があった。相変わらずの格好だった。

「行儀が悪いよ」

「はーい」

 感情がどこかへいってしまったかのような声で、七海は返事をしてきた。スイッチが入っていないと、七海はかなりのだらしなさを発揮する。七海が家族になってからまだ日が浅かったころは、こんな風に注意することはなかった。そもそも、彼女が心を開いてくれるまでにかなりの時間を要したからだ。

「みかん、もらうね」

「うん」

 時間が、ゆっくりと流れているような気がした。誰にも邪魔されず、何の干渉もなく、ただ外にいる鳥の声とみかんをむく音が耳に届いていた。


「みかん、まだほしい?」

「いや、私は大丈夫だよ」

 みかんの補給を終えた七海は、先ほどと同じように机の上に寝そべっていた。

「ねえ、お姉ちゃん」

「どうしたの。やっぱりほしい?」

「そうじゃなくて」

 そう言いながら、七海は少し苦しそうな顔をしていた。俺は何も言うことができず、ただ次の言葉を待っていた。ここで焦ってはいけないと、なぜかそう思ったからだ。

「私の部屋に来てくれないかな」

 

 部屋の中は、いたってシンプルだった。白を基調にしていて、奥にある小さな本棚には教科書がつまっていた。これまでにも何度か来ているけれど、そのたびにぬいぐるみの数が増えている気がした。

「いらっしゃい、お姉ちゃん」

 その瞬間、違和感があった。かすかなものではなく、とてもはっきりとしたものだった。ずっと同じ場所に放置されていた分厚い本が、突然消えたかのような感覚だった。

「お姉ちゃん?」

 違和感の正体に、俺は気づいてしまった。家の中では徹底して『お兄ちゃん』と呼んでいた七海が、なにを思ったのか『お姉ちゃん』と呼んでいるのだ。違和感を覚えるのは、当然のことだった。

「どうしたの」

「だって、家の中にいるときはお姉ちゃんなんて呼んだことなかったよね」

 そう言うと、七海が深いため息をついた。そのあと、俺のほうを指さしてこう続けた。彼女の顔は、とても真剣だった。

「……もう、お兄ちゃんのことをお兄ちゃんって呼ぶのは卒業しようかなと思ってね」

「え?」

 あまりに唐突で、脈絡のない発言だった。もう少し段階をふんで、俺に心の準備をさせてくれないだろうか。

「今のお兄ちゃんは、お兄ちゃんじゃないよ」

「七海……」

「あのとき、私を助けてくれたお兄ちゃんは、どこにいったのかな」

 あの日、羽衣が手の届かないところへ旅立っていった日。俺は家族を失ってしまった七海を、すくい上げた。中津秋路の妹という箱を用意し、決して一人にはさせないという気持ちをもって、七海という子と向き合ってきたつもりだった。独りよがりだったのかもしれない。

 彼女の目から伝う雫は、止むことを知らなかった。


 それからしばらくたち、ようやく気持ちが落ち着いてきたのか、七海は重たい口を開いた。目の周りは、ほんのりと赤くなっていた。

「お姉ちゃんは、女の人として生きていきたい人?」

 俺はあのとき、男で留まることを諦めた。短い時間ではあったものの、これからどうしていきたいかも考えたうえでの、結論だった。しかし、今ではどうだろうか。考えても仕方のないことを、考えてしまうときもあった。もしあのとき、諦めていなかったらどうなっていただろう、と。

「悩んでるんだよね」

 医者に提示された選択肢は、二つあった。一つ目は、体の変化に適応すること。二つ目は、体の変化に逆らって男に戻ること。だけれど、一つ目を選ぶことはあまり推奨されなかった。なぜなら、かなりの副作用が発生するおそれがある行為だと、医者は語ったからだった。怖くなってしまったのだ。

 それなら、元から女だと思い込んで生活したほうが、楽なんじゃないかと思った。しかし、現実はそう甘くはなかった。自分がどれだけ思い込んだとしても、心は変えられなかった。

 周りから女として見られることが、こんなにも苦しいとは思っていなかった。そう、俺の考えは甘かったのだ。

「やっぱり、お兄ちゃんって呼んだほうがいい?」

 最近、悩んでいることがある。それは、七海をこんな風に困らせることが多くなったということだった。それまで当たり前だったことが、当たり前でなくなる恐怖を味わっていた。

「そのほうが落ち着く」

 俺は心のどこかで、七海に支えてほしいと思っているのかもしれない。七海なら、俺のことを分かってくれるという思い込みを、いつの間にかしていたのだ。しかし、そんなのはただの幻想でしかなく、七海は七海なりに考えてくれていたのだろう。

「でも、さ。そのうち限界来ると思うけど、いいの?」

「今の状態にってこと?」

「うん」

 考えているだけで実現できる夢なんて、一つもないと思った。天と地が入れ替わったとしても、人間が鳥になったり、星になったりすることはない。物事には、必ず限度がある。

「それはまた、そのとき考えるよ」

 未来に起きることなんて、誰も分からない。なぜなら、まだ起きていないことだから。

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