第21話 さまよう心
受験した大学に合格し、無事に卒業式が終わってから数日が経ったある日のことだった。なんのしがらみもないこの期間を有意義な時間にしようと思い、俺は街に出ていた。
七海や紗那は、隣にいなかった。一人だけで街に出るのは、いつ以来だろうか。そんなことを考えながら、無意識に例のやかんの前にあるベンチまで来ていた。誰かと待ち合わせをしているわけではなかったけれど、体にこの習慣がしみ込んでいた。
とりあえず、十番街に向かおうと立ち上がったときに、何かがぶつかったような感覚があった。その直後、俺は地面に座り込んでしまった。
「ごめんなさい、立てますか?」
目の前にいる女性はそう言いながら、俺のほうへと手を伸ばしてきた。それに気づいてはいたが、頭が混乱していたのかそれを無視して立ち上がろうとした。すると、女性の指先が俺の胸に当たった。というよりも、少し沈んだ。
「はうっ」
変な声を出してしまった。あまりの恥ずかしさに、俺は再び座り込んでしまった。
「……え、えっと。とりあえず立てる?」
女性は、少し混乱していた。しかし、すぐに冷静さを取り戻せたのか、俺を連れて近くにあったカフェへと向かった。
「うん。ごめんね、ちょっと間に合いそうにない」
カフェの中に入るなり、女性はかばんの中から携帯電話を取り出して、誰かと話し始めた。携帯電話なんて初めて見た俺は、思わず興奮してしまった。あんな小さな機械で電話ができるなんて、と感動していた。
「さっきは、本当にごめんなさい」
携帯電話に気を取られていた俺は、いつの間にか話し終わっていたことに気づかなかった。
「いや、その。僕のほうこそ、すみませんでした」
普段は『私』を多用していたので、どうしても『俺』とは言いづらかった。そこで使ったのは、『僕』だった。自分のことを指して使ったのは、おそらくこのときが初めてだった。
「あれは、完全に私が悪かった。けがとかしてない?」
「大丈夫です。びっくりしただけですから」
居心地が悪かった。目の前のお冷を少しずつ飲むことだけに集中しないと、気がおかしくなりそうだった。その原因は、はっきりとしていた。目の前の人が、俺の体がどこかおかしいことを認識してしまったからである。
「ところで、さ」
「はい。なんでしょうか」
「答えたくなかったら、答えなくても大丈夫なんだけどね。もしかして女の子ですか?」
やはり気づかれていた。
種明かしをすると、俺の今の状態は傍から見るとただの男っぽい女でしかなかった。この言葉は極力使いたくなかったが、男装なのだ。ずっと伸ばしていた髪の毛を切り、ボーイッシュな雰囲気にしたのだ。髪を切り、服装でごまかせばバレないと思っていた。しかし、まさかこんな事態になるとは思ってもいなかった。
「そうではないですけど、そうです」
「それは、どういう意味ですか?」
これも何かの縁だということで、俺は目の前の女性にすべてを話した。途中で敬語はやめてくださいと提案すると、女性も同じことを思っていたと言った。そして、そこからはお互いに敬語をやめて話を続けた。
「へえ、人間って不思議ね」
すべての話が終わり、一息ついていたときに香織さんはそう言った。香織というのが、目の前にいる女性の名前らしい。俺はあえて、自分のことを『沙希』と名乗った。実は、これは本名ではない。名前も性別も、俺とその周りの人たちがそう呼び、認識しているだけなのだ。
「じゃあ、見た目と中身が違うってことなのね」
「そういうこと」
敬語を使わないようにするというのは、意外と大変だった。ちなみに、敬語を使うと香織さんから白い目で見られるという特典付きだった。
「それにしても、さらしで巻くだけはさすがにバレちゃうよ」
「そうですか……」
「でも、そんなことあるのね。ちょっと信じられないわ」
そう考えてしまうのは、仕方のないことだった。なぜなら、当事者であるはずの俺自身がいまだに信じられないのだから。
「僕も、全部を受け入れているわけじゃない。ただ、事実そうなってしまっているので、認めざるを得ないというか」
認めたくはないけれど、認めないと生きていけない。そんな矛盾を抱えながら、俺は一年間という期間を過ごしてきた。
「それでも、認められなかったのね」
耐えきれなくなった俺は、昨日買い物に出かけた。男物の服がすべて捨てられてしまったため、買いに行くしかなかった。そのあと、髪を切りに行った。あまりに短くなったせいか、七海と母さんはすごく驚いていた。
「僕、実は大学は男として通う予定なんだよね」
「え?」
俺はそこで、誰にも言っていなかったことを話した。香織さんなら、誰とも接点がないので話しても問題ないと思ったからだ。
「一年過ごしてみて、思ったことがあって。このまま女として生活していたら、本当に女になってしまうんじゃないか。男に戻れなくなるんじゃないかと、そう思ったんだ」
体が女みたいになっていることは、苦しくなるほどに分かっていた。しかし、十七年のあいだ男として生活してきた人間が、そう簡単に意識が変化するはずがなかった。心と体で、逆転現象が起きていたのである。
「沙希くんは男の子に戻りたいの?」
そう言われて、俺ははっとした。戻りたいか、戻りたくないか。そのどちらかを選ぶ必要があるという、根本的な問題を抱えたままだということをすっかり忘却していたのである。
「まだ、分からないです。自分でも、どうすればいいのかが分からないんです」
「そっか。なんだか、あなたを見ていると懐かしい気分になるわ」
香織さんの言葉に、強い違和感を覚えた。話の流れから考えても、懐かしいという言葉がそこで出てくるのはおかしいと感じた。
「懐かしいって…どういう意味ですか?」
そう聞くと、彼女は軽く微笑んでこう続けた。
「私も、同じような経験を積んできたのよ」
香織さんは、少しずつ自分の過去を語ってくれた。俺の頭の中にあった常識という箱を壊してしまうような、そんな話だった。
「小学生のときに、同じクラスの女の子と仲良くなったの。放課後に二人で遊ぶこともあったわ」
彼女の目には、何かが映っていた。それは目の前にあるコーヒーカップではなく、もっと綺麗で儚い輝きのように見えた。
「ある日、その子に聞いたの。『僕もその服着てみたい』って。そしたらね、びっくりした顔で『これは女の子が着る服だよ?』って返ってきたの。意味が分からなくて、気づいたら泣いちゃってたんだよね」
「ちょっと待ってください」
そこで、俺は気がついてしまった。この話に、辻褄がないということだった。香織さんは女の人で、仲良くなったのも女の子のはずだ。やはり何度考えても、香織さんの話はおかしな部分があった。
考え込んでいると、なぜか香織さんが笑い始めた。
「ごめんね。もしかして、混乱してる?」
「してます。話の中の登場人物、間違えてませんか」
「間違えてないよ。やっぱり、初めに話すべきだったね」
ほんの数秒前まで笑っていた香織さんが、笑うのをやめていた。もしかすると、俺はなにか彼女に対して失礼な態度を取っていただろうか。それとも、別な理由があるのだろうか。
「私ね、元男なのよ」
「…はい?」
なにかと思えば、彼女は思いもよらぬことを口にしていた。
「男として、十何年過ごしてきたわ。高校の卒業式が終わった後、すべてを打ち明けたの。そしたらね、なんて言われたと思う?」
俺は何も言えなかった。何を言ったとしても、香織さんに対して失礼な発言をしてしまうのではないかという不安があったのだ。
「目を覚ませって言われたの。そりゃそうだよね」
当時の香織さんは、父とは仲が悪いわけではなかった。しかし、香織さんの告白により家族関係は崩壊し、そこから逃げるように去った。今では母と連絡を取ることはあるものの、父とは一切会っていないとのことだった。
「境遇が違うとはいえ、なんかこのまま別れるのは違う気がしてね。お節介だと思うけど、助けられないかなって思ったの」
とても信じられる話ではなかった。俺自身が特殊だという話をしたあとだからこそ、なんとか理解しようと思えた。しかし、明らかに俺の状態とは違っていると気づいたところがあった。
それは、香織さんは自ら選択して、今は『女』として生活していることだった。
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