第三章 儚い季節
第19話 雪が降り、解けるまで
紗那と付き合うようになってから、半年ほどが過ぎた。それ以外は特に何の変化もなく、時間だけが過ぎていった。付き合うといっても、友達関係の延長線上でしかなかった。仲が悪いわけじゃないかった。しかし、これでいいのかという焦燥感はあった。
「それって本当に付き合ってるの?」
由果に最近の紗那との関係を話していると、こんなことを言われた。付き合うというのは、世間一般的にはどういうことを指すのだろう。恋人らしいことといえば、何があるだろうか。手をつなぐとか、キスをするなどは思いついていた。しかし、それ以降は……。
「どうなんだろう。分からなくなってきた」
正直なところ、それ以上の行為はかなりの抵抗感があった。それが何を意味しているのかを、俺は理解できていなかった。少なくとも、彼女に対してそういった感情が湧いたとしても、その行為ができないことは確かだった。
大学受験の日まで、あと三週間になったころのことだった。紗那と久しぶりにデートをすることになった。お互いに時間の余裕がなく、放課後に学校に残って勉強を一緒にすることはあったものの、それ以上のことは何もなかった。
最後の場所は、いつもの喫茶店だった。ここに来るまで、紗那が買い物をしたいということで付き合っていたものの、何かを買ったわけではなかった。
「パフェ、食べようよ」
彼女は甘いものが好きだった。この喫茶店では、最近流行っているような派手なものはないが、どこかノスタルジックな雰囲気のあるパフェが看板メニューとしてあった。実際、人気は高いらしい。口コミでしか話題になっていないため、知る人ぞ知る存在となっているのがまたいい。
俺はそこまでお腹がすいていなかったので、彼女のパフェを少しだけいただくことにした。ちなみに頼んでいたのは、いちごパフェである。
「本当に一口だけでいいの?」
信じられないと言わんばかりの目で言ってきたので、俺は思わず笑ってしまった。
「我慢してるわけじゃないから」
そう言うと、少しだけ悲しそうな顔になっていた。そんなに一緒に食べたかったのだろうか。これではまるで、俺が悪いことをしているみたいじゃないか。
「じゃあ、一口あげる。はい、あーん」
「あーんって……子どもじゃないんだから」
差し出されたスプーンに向かって、口を開けた。パフェの味は、いい意味でいつも通りだった。甘くなく、あまり主張しないところがここのパフェのいいところだ。俺はこれがとても好きだが、一人で食べるのはハードルが高いので、七海によく付き合ってもらっていた。
口の中にあったパフェは、すぐに消えていくのが分かった。ああ、無情。
「ありがとう、美味しかった」
紗那は目の前の白い塊に夢中になっており、反応は薄かった。
彼女がパフェを食べ終わり、束の間のひとときを過ごしていた。俺がコーヒーのおかわりを頼もうとしたタイミングで、彼女はちょうど食べ終わった。量が少ないとはいえ、いくらなんでも食べるのが早くないだろうか。
「コーヒーのおかわり、お願いします」
「かしこまりました」
何の前触れもなく、彼女はこんなことを言い始めた。
「こうして会うのは、いつぶりだろうね」
紗那の目は、どこか遠くを見ていた。俺のほうを向いているはずなのに、どこか遠くを見つめていた。
「ゆっくり話す機会は、あまりなかったよね」
俺はそう言いながら、どこか後ろめたさを感じていた。実際には、いくらでも話すタイミングはあったからだ。しかし、紗那と付き合っているうちに、俺はあることに気づいてしまったのだ。それは、俺の体がどう見ても女になってしまっているということだった。うぬぼれているわけではなく、ただ客観的に見たときに、俺の体はどうみても女だった。だからなんだと思われるかもしれない。けれども、それがどうしようもなく許せなかった。
「すごく、懐かしい気分だわ」
紗那は、俺のことをどれくらい理解してくれているのだろう。そう思うと同時に、俺も紗那のことをどこまで理解できているのだろうと思った。
「このあと、時間ある?」
今の関係になる前によく見せてくれていた笑顔で、そう尋ねてきた。
「用事は特にないけど。どうしたの」
「あたしの家、来ない?」
ふと窓を見ると、外が少しずつ暗くなり始めていた。日に日に陽が落ちるのが遅くなってはいるものの、やはり冬は沈むのが早かった。
「お菓子とかがなくて、ごめんね」
そう言いながら彼女が持ってきたのは、紅茶だった。
「いいよ。ありがとう」
少しだけ冷ましてから持ってきてくれたのか、すぐに飲める温度だった。こういう細かいところの気配りが、本当に紗那は得意だった。ただ、それがつらいと感じることもあった。察してくれるからこそ、彼女からはあまり俺に求めてこなかった。わざとそういう場面にならないように、避けているということは薄々気づいていたのだろう。しかし、彼女は何も言わなかった。
俺からも、何も言わなかった。
「ねえ、沙希」
それは、今まで見たことがなかった、不安そうな顔だった。少なくとも、俺には見せてこなかった顔だった。
「あたしのこと、嫌いになった?」
「……そんなことないよ」
自信がなかった。紗那のことを、実は嫌いになってしまっているのではないか、という疑念はわずかながらにあったからだ。こんなに近くにいるのに、すごく離れたところで会話をしているような感覚があった。
「そっか」
もう多分、二人とも気づいていたのだ。この交際が、あまり長く続きそうにないことと、タイミングが悪かったということを。
「沙希はさ、こういうことをあたしとしたいなって思わなかったの?」
彼女は、俺のことを優しく包み込んでくれていた。その行為は、俺のことを安心させていた。しかし、それ以上の感情はなかった。
「……こっち向いて」
その瞬間、彼女のやわらかな唇の感覚が伝わってきた。あまりに優しく、脆かった。
「こういうことするのは、嫌?」
「嫌じゃ、ないよ」
嫌だという気持ちは、全くなかった。紗那が本当に俺のことを好いてくれているというのが伝わってきていたし、それが嬉しくもあった。しかし、なぜだろう。そこに、俺が入れる箱はなかった。
そのあとも、行為は続いた。初めは軽く唇が触れ合うだけだったけれど、途中からお互いの舌を入れるようになっていた。経験したことのない感覚に、思わず声が漏れてしまう場面が何度かあった。ちなみに、紗那の両親はともに出張中で、家には俺と紗那の二人だけだった。もっとも、そのことを知ったのはつい先ほどのことだけれど。
「これ以上は……さ。これ以上は、したくないんだよね」
泣いていた。薄暗い部屋の中でも、はっきりと分かるくらいに、彼女は涙を流していた。俺はどうすればいいのかが分からず、彼女の体に近づいて軽く抱擁した。そして、優しく頭を撫でた。彼女の髪の毛は短いけれど、手入れをしっかりとしているのはすぐに分かった。
俺が元男であることを、彼女は知っていた。だからこそ、抵抗感がより大きかったのかもしれない。彼女にもっと近づきたいという感情が、全くないわけではなかった。しかし、俺は俺自身の体を受け入れ切れていなかった。どれほど女の子たちの輪の中にいても、女子制服を着て登校しても、自分が本当は男だと思い続けることで平常心を保てていたのだ。
彼女の前で服を脱ぐという行為は、それをすべて無に帰す行為でもあるのだ。現実とは、なんて残酷なのだろう。服を脱ぐと、そこに現れるのは女の体の中津沙希なのだ。そんな当たり前のことを、俺はいまだに受け入れられずにいた。そしてそれは、目の前の彼女を傷つける結果となってしまっていた。
「ごめんね」
謝るほかなかった。それ以外に、俺にできることは見つからなかった。
外は寒く、雪がちらついていた。息を吐くたびに、白くなっていた。
もう、終わったと思った。こんなにあからさまな、すれ違いがあるだろうか。俺は結局、自分が傷つきたくないだけだった。彼女を傷つけたとしても、その気持ちに変わりはなかった。それがどうしようもなく、許せなかった。
俺がこんな体じゃなければ、こうはならなかっただろう。しかしそれは、想像の中の話でしかなかった。現実を受け入れられなかった、俺が悪いのだ。
彼女は、女の俺が好きなのだろうか。女の子が好きな、女の子なのだろうか。考えても仕方のないことが、頭の中で渦巻いていた。
いいよな、そんなこと気にしなくてもいい人は、などと考えていた。それほどに、俺は行き詰っていた。ただ、隣の芝生は青かったのである。
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