第29話 秘密の共有

 心を許した相手と、秘密の共有をする。その行為自体を、否定するつもりはなかった。しかし、その行為はある種の罪の共有を意味するのである。

 例えば、男女別での着替えなどが日常的なものだろう。

 体育の準備のため、必ず更衣室へ向かう。その際は、当然ながら男女別である。しかし、今村が俺の体のことを知るとどうだろう。きっと、男と一緒に着替えるのはおかしいのではないか、などと考えなくてもいいことを考えるに違いなかった。

 それが繰り返されるうちに、耐えきれなくなって誰かに相談してしまうだろう。そうして、俺の秘密はたちまち広がるという想像は容易だった。

 誰かの秘密を抱えるということは、決して簡単なことではないのである。


 セーラー服を脱ぎ、俺は私服に着替えていた。ようやく股下の不快感から解放されたため、ほっとしていた。

 先ほどまでの妙な感覚を、吐いた息とともに流すことにした。

「今村、着替え終わったぞ」

 着替え始めたときには、後ろからの微妙な視線を感じていた。その視線を送っていたのは、もちろん今村だった。そうすることでしか暇をつぶせないほど、何もすることがないのだろう。俺は、そう思っていた。

 十数分前に起きた今村からの嫌がらせを、俺はしばらく忘れられないだろう。そのくらい、俺の心は弱いし複雑だった。自分のことは自分が一番良く分かるという言葉を、きっとこの先も信じられる日は来ない。

「嫌味とかではなく、率直な疑問があるんだけど」

 よっぽどのことがない限り、声のトーンが下がらない彼が、かなり申し訳なさそうにしてこう続けた。

「変な意味じゃなく…中津って女装経験あるのか?」

 なんてことを聞くんだと、真っ先に思った。もちろん、俺自身への配慮をしてくれていることは感じることができた。だからといって、そんな質問をしてもいいわけではない。

 きっと彼なりに、触れてはいけない領域だということは分かっていたのだと思う。なぜなら、その質問をする際に目を思い切り逸らしたからだ。

「あるといえばある」

 そう言った瞬間、彼の目の焦点にいるのが俺になっていることに気づいた。

「あるとは言っても、実際にはさせられていたというのが適切だな」

 よく考えると、羽衣の話をするのはかなり珍しいことだった。直接的ではないものの、こうして話題の一部に出す機会がなかった。そもそも、羽衣の死を受け入れることができたのが、最近だということが原因の大部分をしめるだろう。

「あれ、中津ってお姉さんとかいたっけ」

 これまで全く自分の家族構成を話してこなかったので、今村の頭の中に疑問が浮かび上がっていたのだろう。目線が、斜め上を向いていた。

「姉はいないよ。妹ならいるけど」

 そう返すと、今村は小さくうなずいていた。

 ここで、実はその妹が義理の関係なんだと伝えるとどうなるのだろうと、少し気になった。今村のことだから、きっと妹に恋愛感情とかないのかなどと茶化してくるに違いないと思った。彼は、思ったことをついつい口にしてしまうタイプの人間なのだ。俺にとっては、その性格がうらやましいと思う瞬間もあった。

「それなら、中津妹なかついもうとが女装のコツを教えたのか?」

「いや、違うよ。妹はあまり関係ない」

 名前を教えなかったためか、七海のことを中津妹と呼び始めた。少しだけ面白かったので、特に指摘しないことにした。

「それなら、何がきっかけで女装をしたんだ」

 彼はこちらの様子をうかがうかのように、ゆっくりとした口調で尋ねてきた。別に隠すようなことでもなく、伝えても特段問題ないと考えた俺は、軽く羽衣のことを話すことにした。

「俺がまだ小学生か中学生くらいのときに、仲のいい女友達がいたんだよ」

 当然ながら、彼には藤村姉妹の過去を話したことがない。そもそも、俺の口から伝えてもいいような内容ではなかった。しかし、それを話さない限り、俺と七海の関係を話すことはできない。そして、羽衣と七海の関係を知る機会はないだろう。

「じゃあ、その女の子に女装を教えてもらっていたのか」

 なぜか彼の声のトーンが少しだけ上がり、一人で納得したような顔をしていた。

「教えてもらうというよりは、そうすることを当たり前にされていた、というのが正しいかもね」

 対して俺は、無意識に声のトーンが下がっていた。きっと今、自分の顔を鏡で見ると、暗い顔をしているだろうと思った。


 言わなければ伝わらないことは、たくさんある。あかねの体の秘密が、そのいい例だ。知らないほうが、お互いのためになることは、この世の中にはたくさん存在しているのだ。

 自分に言い聞かせるように、俺はその言葉を何度も頭の中でかき混ぜた。


 その後、今村とは別れて俺は学生寮へと戻ってきていた。

 この時間ならいつも部屋にいる、あかねの姿は見当たらなかった。偶然会った同じ寮のメンバーに居場所を聞いてみたが、俺が帰ってくる数分前に出ていったところを見たらしい。タイミングが悪いにもほどがある。

 あかねと暮らすようになって、あと数ヶ月で二年が経とうとしていた。初めはただのイケメンだと思っていたが、ふたを開けるとかなりの人付き合いの良さを発揮し、分け隔てなく交流を深めていった。それなりに、女子からの人気も高いらしい。


 だが、あかねにはある重大な秘密があった。それを俺が認識してしまったのは、本当に偶然起きた事故のせいだった。シャワー室から出てきた、裸体のあかねを見てしまったのである。

 出るところは出ていて、引っ込むところは引っ込んでいた。適度にくびれがあり、胸もそこそこあった。そのときすでに思考が停止していた俺は、思わずじっと見てしまったのだ。

「いつまで見てんだよ」

 包み隠さずに怒りを含んだ声で、目の前の女の子は俺に向かって声を投げてきた。

「あかね…?」


 普段のあかねは、男っぽい声で男っぽい格好をしている。だが、あかねの秘密を知ってしまった俺には、どうしても女にしか見えなくなってしまったのだ。

 これがあかねに対する裏切り行為であることは、俺自身が痛いほどに感じていた。おそらく、あかねは俺のことを善人だと思っているだろう。体の秘密を知った後でも、変わらずに接してきたつもりだ。しかし、心がそれに追いついているかというと、そんなわけがなかった。すっかり突き放されていた。


 夕飯でも作って待っていようかと思ったが、そんな気分にはなれずにしばらく時間が経ったころだった。俺は、自分がある重大なミスをしていることに気づいたのである。

「セーラー服、忘れた……」

 着たという事実を受け入れたくなかったのか、俺は立花さんの私物であるセーラー服を被服室に置いたまま忘れていた。

 面倒だとは思いつつも、万が一無くしたなんてことになれば、快く貸し出しに協力してくれた立花さんに申し訳ない。そうならないように、俺は大学に戻ることにした。


 文化祭の時期は閉門時間が遅いため、余裕で大学敷地内に入ることができた。警備員のおじさんに見つかると面倒そうだが、そんなことを気にしている暇はなかった。とりあえず、一刻も早くセーラー服を救出しなければいけないのだ。

 そんなことを考えつつ被服室へ向かっていると、うっすらと電気がついていることに気づいた。こんな時間に、一体誰がいるんだろうと思いつつ、静かに被服室の扉をたたいた。

「すみません。どなたか、いらっしゃいますか」

「はーい。どうぞ」

 返事は、すぐに返ってきた。その声は、とても聞き覚えのある声だった。ある可能性を感じながら、ゆっくりと扉を開いた。中に入り奥へ進んでいくと、そこにいたのは女子高生の姿をした、短髪の少女であった。

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