第17話 夕暮れ時の彼女
自分の中で認識している常識と世間での常識には、しばしばズレが生じている。だからこそ、他人と話していると新しい発見が生まれる。その発見のすべてが役に立つとは限らないけれど、そこに意味を見出すのは無意味な行為なのではないかと、俺は思っていた。
一人で考えても答えの出ない問いというのは、無数に存在している。答えがないからこそ、すれ違いや矛盾が生ずる。このときの俺は、まさにその状態だった。
「ごめんね、急に呼び出して」
学校からの帰り道、いつもとは逆方向に進み、川沿いの小さな公園へと来ていた。きちんと時間を作ってから紗那と会うのは、数日前のデート以来の二人きりのことだった。朝に偶然会っただけでも緊張したのに、今は自分の心臓の音が相手に聞こえるんじゃないかと心配になるほどだった。
「……いいよ」
彼女の顔は、あまりにも悲しそうだった。夕焼けの赤に照らされながら、軽くため息をついていた。
「あのときは、ごめんね」
その日の彼女は、謝ってばかりだった。高校生にもなって「好きかもしれない」という言葉を使ったのが、とても恥ずかしかったという話だった。人を好きになったのは、俺が初めてなのだそうだ。自分の気持ちにはっきりとした言葉を乗せることができず、かもしれないという言葉になってしまったとのことだった。
「別に、謝るようなことじゃないよ」
そう言うと、心地よい風が全身に流れた。もやもやとした生暖かい空気を、一気にどこかへ運んでいってくれた。これでもう、後ろを振り向く必要はないと感じた。あとは目の前にいる紗那に、思っていることを伝えるだけだった。
「あのさ、紗那は私のことをどう思っているの?」
それは、どうしても気になっていた疑問だった。一人でいくら考えていても、紗那の気持ちにはなれない。人の持っている感情は、その人にしか分からないからだ。だからこそ、直接聞くしかなかった。
「それは、どういう意味で聞いてるの?」
「紗那は、私が今の姿になる前のことを知ってるでしょ。それについて、どう思ってるのかなと思ってね」
自分がかなり面倒くさい質問をしていることは、紗那の表情を見れば分かることだった。もし俺が紗那の立場であったなら、なんて難しい質問をしてくるんだと思うだろう。
彼女は、心が広い人間だと思う。女子高生として通い直してから、初めて声をかけてくれたのは彼女だった。何も言わずに、俺の存在をただ肯定してくれたのである。そのことが、なによりも嬉しかった。
「沙希のことは、今では女の子だと思ってるよ。正直に言うと、見た目が変わったときはびっくりしたけどね」
「紗那って女の子が恋愛対象なの?」
踏み込んだ質問をしてしまったが、これははっきりとさせておかないといけないことだ。自分のことは男だという認識で生活していた。見た目がどれだけ変わろうとも、心が変わることはなかった。もし紗那が女の子が好きな女の子ならば、俺は手を引いて断るべきだろう。どう頑張っても、俺が女子高生にはなれないからだ。
「そんなこと、今まで考えたこともなかったよ」
質問をしている俺も、そんなことは今まで一度も考えたことがなかった。
女の子って、なんなんだろう。見た目が女の子なら、それは女の子なのだろうか。心が女の子でなければ、それは女の子だといえるのだろうか。
「こんなこと、紗那に言っていいのか分からないけど、自分のことを女だと思ってないんだよね」
ある意味、これは告白だった。自身の奥にひそめていたかけらを、手のひらにのせていた。紗那がしてくれた告白とは意味が違うけれど、とても重要な話だと思うからこそ、俺は真実を告げることにした。これでもし嫌われたとしても、それは仕方のないことだった。
「じゃあ、あまり沙希のことを女の子扱いしないほうがいい?」
返答が、予想の斜め上をいっていた。彼女は、このことさえも受け入れるつもりなのだろうか。
「そのほうが、私は助かるよ」
「分かった。これからは気をつけるね」
自分一人だけで悩んでいたのが、馬鹿らしくなってきていた。悩むのは大切だが、もっと早く話すべきだった。
「でもさ……」
夕陽が沈んだあとの彼女の顔は、夕焼けの赤に負けないくらいに赤かった。
かわいいと思った。彼女に触れたいと思った。
「あたしは、沙希のことを好きになったんだよ。男とか女とか、考えてもなかったよ」
「そうなんだ」
二回目の告白だった。かもしれないという言葉が消えて、好きという言葉だけが彼女の口から流れていた。これ以上、本筋からそれた会話は必要なかった。俺はすでに、結論を導き出せていたのだから。
「私も紗那のことが好きです」
感情があふれ出していた。全身に血液がめぐる感覚といつもより激しく脈打つ感覚があった。緊張というよりも、行き場の失った辛くない苦しさが心の中を埋めていた。
「本当…? 嬉しい」
泣きそうな目をしながらも、顔は笑っていた。とても嬉しそうな表情をしていた。
「もし紗那がよければ、私と付き合ってください」
震えそうになる声を必死に隠そうとしながら、俺は紗那にそう伝えた。あの日、羽衣に伝えられなかったことを紗那に伝えられたことが、どうしようもなく嬉しかった。気持ちを伝えるということは、こんなにも心を動かされるものなんだ。寿橋での紗那は、今の俺みたいな気持ちになっていたのだろうか。
「いいよ。いいに決まってる」
いつの間にか、彼女との距離はなくなっていた。隠すようなことではないのけれど、彼女のほうが俺よりも身長が少し高い。この状況で抱きつかないという選択肢を選ぶことは、できなかった。
彼女の体は、やわらかかった。そのまま埋もれていきそうなほどに、やわらかかった。服の上からでも、人肌のぬくもりを感じることができた。それは、懐かしくも悲しい感覚だった。
「ねえ、沙希……」
時間が止まっているかのようだった。目の前にいる彼女しか、見えなくなっていた。
唇が重なっていた。初めての口づけは甘酸っぱい味がすると聞いたことがあった。しかし、実際はどうだろう。そんなことを考えている暇がなかった。もしかすると、この時間が永遠に続くのではないか、という錯覚をしてしまうほどに思考が停止していた。
「……しちゃったね」
夕陽が沈み、まばらに立っている電灯がつき始めてもなお、彼女の顔は赤かった。その表情を見ていると、なんだか顔が熱くなってきているような気がした。もしかすると、俺の顔も赤くなっているのかもしれない。
「私たちって、傍から見ると女同士だよね」
「沙希は、見た目が完全に女の子だからね」
「それじゃあさ、レズビアンってことになるのかな」
昔の俺には、羽衣と七海の着せ替え人形になっていた時期があった。容姿や雰囲気が女の子寄りだったためか、よく女の子と間違われることがあった。当時はまだ武弥と知り合う前で、友達は羽衣と七海しかいなかった。
女装という行為が好きなわけではなかったが、羽衣によく女装で買い物に付き合わされることがあった。理由は、女の子同士のほうが楽だからというものだった。
それが、今ではどうだろう。日常的に女装をして生活するのが、すっかり当たり前になっていた。初めのうちは抵抗感が大きかったけれど、日数を重ねるごとにそれは小さくなっていった。結局のところ、女子高生にはなれていない。これは、おそらく今後も変わらないだろう。見栄えが良くなっただけで、その実態は女子高生という箱に入った俺自身なのだ。
「もし私の見た目が男に戻ったら、紗那はそのあとも好きでいられる自信ある?」
脈絡のない質問だと分かってはいたけれど、そうせざるを得なかった。こんなに存在が不安定な人と付き合うという感覚は、どういうものなのだろう。
彼女は、少し考えたあとに軽くため息をついて、こう続けた。
「それは、そのときのあたしじゃないと分かんないよ」
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