第4話 初めての経験

 女体化現象から、二か月以上がたったある日のことだった。その日は何の予定もなかったので、ずっと家の中にいた。休みの日にしたいと前日まで考えていたことは、すべて終わらせてしまったのである。ただ何もしない時間を過ごしていても仕方がないと思い、理由もなく外へ出ることにした。

 しかし、用意をしている最中に、俺はあることに気付いてしまった。しばらく気にかけていない間に、胸が思っていたよりも大きくなっていたのである。女性ホルモン剤の投与を始めてから、予想以上に女体化の速度が速くなっていた。実は女性ホルモン剤の副作用によって発現するのが、胸の成長だったりする。あくまでも副産物としてのものなのだが、そんなことを俺の体は理解していないらしい。本当に勘弁してほしい。そのおかげで、胸の表面が衣類に擦れて、少し痛いのだ。


 これは大前提のことだが、母にはなるべく迷惑をかけたくはなかった。困りごとがあるなら、誰かに相談したほうが相手にとって迷惑がかからないという考えを母は持っていた。要するに、事態が深刻にならないうちに解決したほうがいいということだ。客観的に考えるならば、俺のような人間は避けられるものなのではないかと思った。どちらかと言うと、母は俺に深く干渉しようとしていた。親になら迷惑をかけてもいいなんて、そんな小学生みたいなことは言いたくない。いずれにせよ、この問いに正解はない。けれど、極力避けたい事柄ではあった。

 それ以外の選択肢はなくもない。それは、七海に相談するという方法だ。しかし、それは七海の姉(?)としては気持ち的に許せなかった。こういうことは女歴の長い人に聞く方がいいだろうと自分に言い聞かせ、母に相談することにした。もう俺のことは、小学生とでも何でも言ってくれ。

「なあ、母さん」

 ついこの間、こんな光景を見た気がしたが、それはきっと気のせいだ。

「ちょっと相談があるんだけど、いいかな」

 電気こたつで温もりを感じながら、母は眠るかのように目を細めてみかんをむいていた。その姿は、まるでおばあちゃんだった。

「…どうしたの?」

 こんなにも話し始めるのが難しい話題が、他にあるだろうか。女の子であれば、特にためらうことなく話すことなのだろうか。そういうものを着け始める時期は、だいたい小学校高学年か、中学生に上がるときという知識はあった。ただ、身内にその段階の子はいなかったため、それは想像でしかなかった。

「最近、胸が服に擦れて痛くてさ。何かいい解決策はない?」

 俺がそう言うと、母は急に笑い始めた。それは馬鹿にするような笑い方ではなく、小さくゆっくりとした笑い方だった。

「そっか。沙希にもそういう時期が来たのね」

 そういう時期という言葉が何を指しているのか、それを想像するのは容易いものだった。年頃の女の子であれば、必ず持っているであろう例のアレだ。

「そろそろ買いに行く?」

「付けないとだめかな?」

 女になると覚悟は決めていたものの、いざその段階を踏んでいこうとすると、後ずさりしそうになるものである。生活の根本的な部分、日ごろ意識していなかったことが変化していくのだ。頭では分かっていても、心が追い付いてくれなかった。

「ブラジャー、絶対必要になるでしょ。着けないと、将来垂れてくるよ」

 さらっとすごい発言をしたような気がしたけれど、流しておいた。もしかして、それを使うことによって痛くなくなるのだろうか。これは一度も経験したことがない、未知の領域の話なのである。

 何だか不思議な気持ちになっていた。他人事としてでしか考えられないのも、仕方のないことだと思った。


 初の女性用下着の買い物だ。特に必要のない緊張をして、変な汗をかいていた。初めから一人で行かせるのはかわいそうだと思ったのか、母が買い物に付き合ってくれることになった。一緒に付いてきて欲しいと頼むと、すぐに承諾を得ることが出来た。

 母と買い物に行くのは、一体何年振りのことだろう。記憶の上では、ほとんど行っていないはずである。そもそも、母と一緒に行動するということを俺が拒んでいたのだ。いつの間にか、無意識のうちに母のことを避けていたのかもしれないと思った。


 家の近くにあるショッピングモールの中にある、下着専門店まで来た。ショッピングモールといっても、都会にあるような大きなものではない。

 なぜか、母のほうが気合が入っているように見えた。この人は何に対しても、いつも全力なのである。やる気満々といった表情で俺のことを見ていた。それに対して俺は、あまりテンションが上がっていなかった。そのテンションに、ついていける気持ちではなかった。なぜ本人より付添人のほうが盛り上がっているのか、それが分からない。

 母は見た目も若いのだが、それ以上に周りを包み込むオーラが若者特有のものに見えるのだ。うまく説明することができないが、とてもいい意味で元気なのである。また、不思議なことに母のことをなぜか姉のように思ってしまうことがあった。初対面の人と会うときに母と二人だと、姉妹だと勘違いされることも少なくなかった。その原因は分からないが、とても母とは思えないのだ。このことは直接的には言ったことがない。その理由は、単純に傷つきそうだからである。実は、年齢が近いのかもしれない。よく考えてみると、母の年齢を知らないということに気付いた。

「どんなのがいいの?」

 そう母は聞いてきた。このお店は専門店なので、品数が異常に多かった。同じ商品でも、種類や色違いがたくさんある。その結果、どうすればいいのかが分からないという状態に陥っているのだ。とりあえず、サイズが分からないので店員に測ってもらうことにした。

「すぐに測り終えるので、じっとしててくださいね」

「わかりました」

 当然ながら、測定の時は上半身裸になった。他人に裸を見せるという行為は、こんなにも恥ずかしいのかと思った。銭湯などとは違い、店員の目が自分の上半身のすぐ近くまで来ていた。

 手慣れているのか、測定は数十秒で終わった。時間的にはそれほどかかっていないものの、体感的にはものすごく長く感じた。店員に感謝を伝えて、店内でそれを元に探し歩いた。色も機能も多種多様だった。何を基準にして選べばいいのかが分からず、母に助けを求めた。

「やっぱり決められないよ」

 人生初のブラジャーということもあり、何で選べばいいのかも見当がつかなかったのである。それこそ適当に選べばいいはずなのだけれど、その適当具合が分からない。女の子は、きっとこの経験を何年も前に済ませているのだ。そう考えると、改めて普通とは違うのだと認識した。

 色などの好みを伝えると、母はすぐに選んで持ってきてくれた。ありがたいと思ったが、それと同時に不満な気持ちがあった。

「これ、少し可愛すぎるんじゃない」

「これくらいがちょうどいいのよ」

 母は、満足げに語っていた。


「おかえり」

「……ただいま」

 家に帰ると、リビングに居た七海が声をかけてきた。家にいる人と挨拶を交わすことを当たり前だと思う人もいると思う。しかし、この七海の行動は俺が男子として生活していたときにはあり得ないことだった。それが今では当たり前のようになってきているのだ。

 正直なところ、慣れていないところはあった。だけども、積極的に関わってくれるようになった七海を見るのは、嬉しかった。ほんの少し前までの七海とはまるで別人になっていた。俺が女体化したことと何か関係があるのだろうか。


 七海は高校二年生だ。特に隠しているわけではないのだが、妹と同い年である。双子などであれば別のクラスになることが一般的だと思うのだが、なぜか同じクラスである。これはなかなか珍しいパターンだと思う。

「買い物に行ってきたの?」

「そうだよ」

 何かのアクションゲームをしていた。ここ最近はずっとこれで遊んでいる気がするけれど、何がそんなに面白いのだろうか。仲良くなりたい口実として、このゲームのことを教えてもらうのもありだと思った。

 七海は、見た目もパッと見は中学生ではないだろうかというくらいの小柄だ。七海自身はそのことをコンプレックスに感じているみたいなのだけれど。気にするほどでもないとは思うのだが。むしろ、小柄なほうが愛嬌を感じるものである。損か得かという話ではないのだ。

「お兄ちゃん、どんどん可愛くなるよね」

「それはどういう意味だ?」

 その発言に、俺は戸惑っていた。女体化現象と女として生きる宣言をしたときにも、何も言わずに受け入れてくれた。数少ない理解者のうちの一人だと、俺は勝手に思い込んでいた。たとえそれが表面上だけの言葉だとしても、関わりを持ってくれるだけでいいと思った。

 もしこれが他人の話なら、そこまで関心は持たないだろう。しかし、俺と七海は一応身内だ。他人と『身内』は違う。それとも、あまり気にしていないからこそ、何も言わないでいてくれるのだろうか。

「今日は沙希のブラを買ってきたのよ」

「お兄ちゃんも、これで女子の仲間入りだね」

「こういうのって下着で決まるものなのか?」

 女かどうかという問題は、下着で決まるものなのだろうか。その理屈はよくわからなかった。どんな形であれ、七海は俺の存在を認めてくれていた。


 いろいろと疑問は残っているが、俺の女子デビューは今日ということで決まったらしい。それを決めたのは、母と七海だ。それはつまり、家族公認の『長女』となった瞬間でもあった。今まで認められていなかったわけではないが、はっきりと言われたのは今日が初めてだった。家族公認になったことで、何が変わるのかは分からない。しかし、こんなことを言われると、さすがに実感がわいてくるのだ。

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