第3話 片道切符の行く先は
その日の朝の体調は最悪だった。まるで体全体に鉛をのせているかのような重さだった。一歩ずつ足を前に出すことでさえも、しんどいと感じていた。目の前を見ると、そこにはいつも通りの通学路と昨日よりはすこし雲が多い空があった。今にも雨が降りそうなどんよりとした天気である。
女体化は日々進行していた。しかし、そういった類のものとはどこかが違う気がするのである。きちんと歯車があっていたはずの部分が、少しだけずれているような気持ちになっていた。
「沙希ちゃん、おはよう」
教室に着くと、そこには由果と紗那がいた。挨拶をしてきたのは由果ちゃんであった。彼女はいつも通りの可愛らしい笑顔を俺に見せてくれたが、今はその余韻に浸ることができる気分ではなかった。
「……おはよう」
元気を装ってごまかそうと思っていたが、隠しきれなかった。二人は心配そうな顔をしていた。何かを勘付かれたようだ。
「沙希、保健室行ってきなよ。そんなんじゃ授業なんてまともに受けられないでしょ」
「でも……」
その先を続けるのは、紗那の強い目線を受けたのでやめた。言い訳すらも出来ない状態だった。
「連れて行った方がよさそうね」
保健室に一人で行かせることに不安が生まれたのか、二人が付き添いに来ることになった。それは、必要以上の迷惑をかけてしまっているのではないかと思った。
「そんな顔しなくても大丈夫だよ。沙希ちゃんの元気がないほうが迷惑だから」
「ごめんね。……ありがと」
気持ちを汲んでくれていたのか、由香はさり気なくその言葉を口にしていた。ここまで人のために動くことが出来る子がいるということに、俺は感動した。人から与えられる温もりを感じた。そのことが、無性に嬉しかった。
もし何か機会があるのならば、お礼がしたいと純粋に思った。
俺は保健室へ向かう間、めまいのような症状に襲われながら歩いていた。両側には二人が付いてくれていたので、安心して歩くことが出来た。そもそも、俺はこんな状況で登校していたのかと思った。もしかして、事故も何もなく登校できたのは奇跡的なことなのではないだろうか。
女体化現象が起きてから、体調に波が生まれていることは気付いていた。以前のようには、自分自身をコントロールすることが出来なくなっているのだ。得体のしれない化け物に、体を乗っ取られているような感覚だった。
紗那は保健室に入るときにノックすることも忘れ、俺を中へと連れ込んだ。それほどに焦りのようなものを感じていたのだろう。他人事のような感覚になっているけれど、これは俺のせいだ。
「体調が悪いみたいなんですけど、診てもらえますか」
保健室に入ると、中では早坂先生が食い入るように何かの資料を見ていた。資料は一つや二つではなく、中央のテーブルに山積みになっていた。しかし、その中身が何なのかを見る余裕はなかった。
「そこのベッドに寝かせてもらってもいい?」
由果と紗那の二人がかりでベッドまで運んでくれた。先生はなぜか冷静に対応していた。それが想定していたものだったからなのか、あえて冷静沈着な姿勢を心がけているのかは分からない。
「二人ともありがとう」
「ううん、気にしないで。早く良くなるといいね」
この症状の原因が分からないので何とも言えなかったけれど、二人からの心が温かくなるような優しさを感じていた。
「二人はもう戻っていいわよ。私が診ておくから」
「よろしくお願いします」
二人は早坂先生の言葉を聞くと、教室へと戻っていった。しかし、その様子はとても心配そうだった。
今の時点で、すでに早坂先生と校長先生には迷惑かけてるのは確かだ。これ以上は他人に心配をかけたくないとは思っているけれど、これは仕方がないとも考えていた。未だに不安定な状態である体に対して、絶対的な自信を持つことは出来ない。だからといって、安易に巻き込もうとするのは避けたいのだ。
早坂先生が資料を見る手を止めて、俺の方へと近づいてきた。さっきまでの険しい表情から、だんだんといつもの優しい表情になっていった。そんなに難しい内容の書類に目を通していたのだろうか。もしこの症状についての何かを知っているなら、ぜひ聞かせてもらいたい。
「あれかもしれないわね」
妙な指示語を使って、早坂先生は説明を始めた。急に『あれ』と言われても、それが何なのか見当もつかない。意図的にそういう表現にしているのは分かるのだが、それは疑問点を増やすだけなのでやめてほしい。
「あれというのは?」
「正確なことは当然ながら分からないけれど、体の中が変化していることは確かね」
もし誰かに、今の俺の裸を見られたとする。そのとき、観測者に男か女かの判別は出来るのだろうか。ある部分を除けば、見た目はほぼ女なのだ。端的に言えば、今の体はとても気持ち悪いと感じるような見た目なのである。同時に存在し得ないものが、存在してしまっていた。それはあってはならないことのはずだった。つい最近まで、俺もそう思っていた。
「体の中まで変わっているんですか」
外見的なものが変わるだけで、中身までは変わることはないだろうという思い込みのようなものがあった。目に見える部分だけで、この現象は起きるものだという根拠のない自信があった。
そもそも自分の体が変化を続けているということを、俺はまだ完全に受け入れ切れていない。体がある日を境におかしくなった。おかしくなったことをごまかすために、とりあえず俺は女として過ごすことにした。それだけだ。決してそのことを受け入れたわけじゃない。
「ゆっくり寝ておきなさい。きっと疲れもたまっているはずだから」
「はい」
眠りにつくまでの体感的な時間はほぼなかった。よほど疲れていたのだろう。最近は自分の体に振り回されてばかりで、心が休まるときがあまりなかった。
目を開けると、仕切り用のカーテンの隙間から赤みを帯びた光が差しこんでいた。起き上がるために布団をはぐと、物音で気づいたのか、先生がベッドの隣まで来てくれた。
「気分はどうなの」
「朝よりは楽になりました」
「そう。よかったわ」
よほど心配だったのか、そう言うと早坂先生の顔が少し緩んだ気がした。体調が悪いせいなのか、その表情を見て、自分の顔が熱くなっていることに気づいた。
額の上にぬるくなったタオルがのっていた。それに効果があったのかは分からないが、眠る前よりは少し気が楽になっていた。体もあまり重くはない。本当にただの寝不足だったのだろうか。
人間というのは恐ろしいものである。俺自身が、この生活に慣れてきていると気付いてしまった。しかし、現実はそんなに甘くはない。
最近、特に間違えそうになるのがトイレ。今までは、当たり前の様に男子トイレを利用していた。しかし、今は女子トイレを使わなければいけない。いや、例外があったこともあるが、それは今話す内容ではない。これは学内会議で決まった事項なので、高校の中にいるときには必ず従わなければいけないのだ。だからといって気持ちが楽になるわけではなく、以前からの付き合いがある人の前で女子トイレを使うのは気まずいものだ。もしそれが俺だと分かっていたとしても、指摘してくることはないと思う。せいぜい一部の生徒に気持ち悪いオーラを出される程度だろう。
昨日の体調不良は、ホルモンバランスが乱れていたからだと、早坂先生は結論を出した。完全な女の体ではないのに、なぜそんな症状が出るのだろうと思った。それほどに、体は中途半端な状態なのだということなのだろうか。
先生によると、今の体の状態は非常によくないらしい。他人事のように話す理由は、そんな実感がないからというのがある。体は不調を訴えているのだが、それがどういう原因かといくら説明されても、納得できるかどうかはまた別の話なのだ。
その話に付け加えて、これからも女性として生きていくのならば、ホルモン投与をしたほうがいいと言われた。ただしそれは、この先ずっと女性で生きていくことの覚悟があるのならばという意味だ。人生を左右するかもしれないほどの決断を迫らせているのだ。それと同時に、一度でも直接的なホルモン投与をしてしまうと、完全には元の体に戻れなくなるということも聞かされた。つまりそれは、不可逆的な行為となる。
血液検査などの方法を用いてホルモンバランスの測定が出来る。それによると、今の状態は男と女の中間なのだそうだ。これはあまりよくない状態で、男性ホルモンか女性ホルモンを出来るだけ早く接種する必要があるらしい。ただし、一度外的にホルモンバランスをいじると元には戻せない。一時的なものではなく、これから先もずっと付きまとってくる問題なのだ。つまり、この選択は俺の将来を決めるものになる。『男』になるか『女』になるかという選択は、ある意味で男らしい決断が求められるのだろう。なんて理不尽なんだ。
確かに何度か女になりたいと思ったことはあった。しかし、そこに覚悟はなかった。もう元の体には戻れないという考え方を持っていなかったのだ。それはあくまでも、ファンタジーの世界として考えていた。
だが今は、これからの人生を男として生きたいのか女として生きたいのかという選択をしなければならないのだ。このような選択肢が人生の中であってもいいのだろうかという疑問はあるものの、実際に起きてしまったことなのだから仕方がなかった。そのことを受け入れるしかないのである。自分の人生なのだから、自分で責任をとらないといけない。それは、まだ未熟な俺には重過ぎる問題だ。
「なあ、母さん」
「どうしたの、真剣な顔しちゃって」
言いたいことはある程度察しがついていたのか、ふざけているような口調ではなかった。変な空気にならないように、上手く調整してくれているのだろう。
「私さあ、どうすればいいのか迷ってるんだ」
「迷うことは大事よ。いっぱい考えたり、悩んだりしなさい」
それは、まるで自分に言い聞かせているような話し方だった。きっと俺の知らない母がそこにはいた。
「ただし、後悔はなるべく少なくなるようにね。決めたからには、途中で揺れてはだめよ」
早坂先生とも話し合いをして、とりあえず二週間だけ待ってもらうことになった。たった二週間ではあるが、自分自身から逃げずに向き合うことにした。こんな時間を作ったのは、初めての経験だった。これからどう生きていくかなどということは、今まで考えた経験がなかった。当然ながら、この選択肢に絶対的な正解は存在しない。数年後に、きっと選んだ道が正解だったかどうかが分かるだろう。
どちらかを決める日の前日は、結局寝ることができなかった。まるであの日のようであった。立場こそ違うものの、状況はそっくりであった。あの時のことを今でもはっきりと思い出すことができた。
居間に移動すると、そこには七海の姿がなかった。先に学校へ向かったのだろうか。
「どっちを選んだの」
軽い口調で聞いてきたので、あまり心配していないのかと思ったが、母の顔を見ると真剣な眼差しだった。息子が女として生きるかどうかの選択をしようとしているのだ。心配ではないと思われているのならば、それはそれで複雑な気持ちになる。
「女になるよ」
そう言うと、母の顔は先ほどよりも険しくなっていた。
「まあ、その見た目じゃ仕方ないか」
「一応言っておくけど、見た目で選んだわけじゃないからね?」
いつも通りに俺は学校へと向かった。ほんの少し前まではあり得なかった女子高生としての登校だけれど、最近はこの格好で過ごすことに慣れつつあった。
この高校は制服が男女ともにブレザーである。当然ながら、大きく違うところがある。それは女子制服は、ズボンではなくスカートというところだ。未だにスカート独特の通気性の良さに慣れておらず、どうしても不自然な動きをしてしまっていた。自覚はあるものの、なかなか直すことができなかった。ペチコートでも買ったほうが、少しは楽になるような気がした。
いつかこの話も、笑い話に変えられる日が来るのだろうか。
保健室に行くのは放課後にした。そのほうが時間的に余裕ができるからだ。余裕ができるといっても、その間は集中することなんてできなかった。今日のお仕事は、窓の外を眺めているだけである。先生の話をきちんと聞いていても理解できないのに、こんな状態で聞いても頭が混乱するだけだ。そもそも、自分のこと以外を気にする余裕はなかった。
放課後になるまでの時間が、いつもよりも長く感じた。今日の分のノートは一切書けていない。後で、七海にでも見せてもらおう。武弥に見せてもらう手もあったが、こいつが板書をとっているわけがない。実際、たそがれる俺の邪魔を寝息という形でしてきたのは武弥だ。たまちゃんだからって、寝ていいわけじゃない。
たまちゃんこと田町先生は、桜ヶ丘高校の国語科担当の教員である。教員歴二年未満のひよこ先生だ。『たまちゃん』というあだ名が生徒の間で広まるほどに、人気がある。本人は嫌がっているが、すでに定着率九割越えだ。こんな田舎に配属されて、たまちゃんも苦労人だよな。
終礼が終わると同時に俺は教室を出た。保健室に入ると、早坂先生は待っていましたと言わんばかりの表情を浮かべた。それはまるで、俺が来るのを待っていたかのようだった。
「どうするの?」
数秒の沈黙の後、俺はゆっくりと宣言した。
「女になります」
もう逃げられなくなることは分かっているし、すでに覚悟は決まっているのだ。
そんな俺の心境を読んだのか、早坂先生は壁際の机の引き出しの中からあるものを取り出した。それは、小さな紙の袋だった。表の概要欄には、手書きの赤い文字で開封厳禁と書かれていた。その中には、白い錠剤が5シートほど入っていた。これは女性ホルモン剤なのだそうだ。
それを見ていると、不安は増していくばかりだった。覚悟が出来たなんて、言葉の上だけのものだったのだろうか。これを飲むことによって、ますます自分が自分でなくなるような気がした。得体のしれない固形物を口にして、水で一気に流し込んだ。味は全くなく、のどに引っかかるようなこともなかった。飲み続けることによって、徐々に効果が出てくるのだそうだ。
ようやく終わったような雰囲気になっていたが、これはあくまでも始まりなのである。これからは、生きている限りホルモン剤の摂取を継続しないといけない。そして、体内のホルモンバランスを薬によって調整することになるので、最初は体調の乱高下が起きやすいらしい。定期的な検査で適切な値を保っているのかどうかを記録することが重要とのことだった。ただ、俺の場合は元から女性ホルモン濃度が基準値より高い。そのため、特に問題は起きないだろうと言われた。これからは、より確実に『女体化』が進んでいくのだろう。
片道切符の生活が、もうすでに始まっていたのである。帰りの切符は、捨ててしまった。
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