俺が女子高生になれたなら

六条菜々子

introduction

第一章 白い季節

第1話 女体化のはじまり

 何も変化のない日常のことを大人たちは『幸せ』と呼んでいる。しかし、何も変化がないことが本当に幸せなことなのだろうか。確かにそれも一つの考え方として受け入れることは出来る。普通に生きることもままならない人が存在しているということはもちろん知っている。それに比べると、ある意味では幸せなのかもしれない。だけれど、思っているのはそういうことじゃない。

 何と表現すればいいのかと考えたときに、これが最適な表現だとは思えないけれど、端的に言うと刺激がない。だからといって、何をすればいいのかは分からない。


 いつも通りに閉じそうなまぶたに最大限の力を込めて、体を起こす。そうすると、おぼろげながらも視界が澄んでくる。何も変わらない自室が、目に入ってきた。当然ながら、特に何も変化はなかった。ふらつきながらも、部屋の外にあるトイレに向かった。一つ目の違和感はそこだった。

「んあ?」

 いつもとは違うということに気づいた。だが、それが具体的に何なのかがまだ分からなかった。

 部屋に戻り、制服に着替えているとあることに気づいた。胸のあたりが少し痛いのである。それも表面上ではなく、内側から押されるような気持ち悪い痛みであった。とりあえず目で確認しようと思い、着ていた服をすべて脱ぎ、裸になった。そこで、二つ目の違和感を覚えた。

「胸ってこんなに前に出ていたかな」

 それは思わず独り言をつぶやいてしまうほどの恐怖だった。普段あまりにも気に留めていなかったのか、自分の体が変化していることに全く気付いていなかったのだ。だが、冷静に考えてそんなことがあるはずがない。これは夢なのだと思い、頬をつねってみるととても痛かった。さらに、もう一つ変わっているところがあることを認識してしまった。声が異常に出しづらいのである。まるで風邪でもひいてしまったかのような感覚である。

「風邪でもひいちゃったかな…?」

 独り言を呟き続けることで、現実逃避を継続した。二つの違和感は、ひとまず隅に置いておくことにした。

 壁にかかっている時計を見ると、家を出るまでの余裕があまりなかった。違和感うんぬんいっている場合ではない。これは、単位との勝負なのだ。それを考えたときに、これ以上遅刻するのはさすがに危険だった。こうなると目をつぶって、無かったこととして今日は過ごすしかない。胸の内側の異常な痛さと声の出しづらさはあるものの、体が動かないわけではないのだ。目の前に単位があるなら、取りにいくしかない。

 朝食を抜くのはつらいが、今はそんなことを言っている場合ではない。制服に着替えて家を逃げるように飛び出した。玄関あたりで母に声をかけられた気がしたが、多分それも気のせいだ。


 学校に着き、教室に入るとともに武弥がいつも通りに声をかけてきた。いつも通りの出来事が、今の俺にはとてもありがたかった。しかし、俺の姿を見るなり武弥は顔色が悪くなっていた。

「どうした。顔色が悪いぞ」

「それはこっちの台詞だよ。秋路、顔が真っ青」

 頭の中が混乱していたので、少し気を落ち着かせて考えることにした。つまり、武弥は俺の真っ青な顔を見て気分が悪くなってしまったということだろうか。それほどまでに自分の顔は恐ろしいことになっていたのだ。知らないふりをしようと思っていたが、さすがに限界が来たのか体が急激に重くなっていた。家を出た直後は走れていたものの、あまり続けることが出来なかった。思うように動けなかったのである。

「それに、風邪でもひいたのか? 声がいつもとは違う」

「やっぱりそう思うか」

 動揺する俺に、武弥は保健室へ行くことを勧めてきた。明らかに様子がおかしかったのか、教室内の生徒たちの視線は俺たちの方向に向けられていた。保健室に行けば、早坂先生からこの症状についての情報がもらえるかもしれない。少しでも原因究明の糸口がつかめるなら、それに越したことは無い。

「いつもと違って、高くないか…?」


 保健室に行くなんて何年振りだろう。記憶が正しければ、小学生のとき以来だと思う。そのころは、よく体調が悪くなって保健室に毎日のように通っていた。そのことをはっきりと覚えている。今では懐かしい思い出だけれど、当時は保健室に行くのが嫌で仕方がなかった。

 俺は昔から、自分の体のことは自分が良く分かるという言葉を信じていない。病気になっていたとしても、すべてに自覚症状があるわけではないからだ。自分の体を俺は信用できない。実際、今も自分の体に何が起きているのか、説明することが出来ない。

 保健室の扉を引き、声をかけてから中に人がいないかを確認してみると早坂先生がいた。

「失礼します」

「…あれ、どうしたの?」

 このままではどうすればいいのかが分からないので、話だけでも聞いてもらうことにした。こんな朝早くからの訪問者に、早坂先生は少しだけびっくりしていた。

 早坂先生というのは、保健室担当の養護教諭。いわゆる、保健室の先生というやつだ。だいたい、漫画やアニメに登場する保健室の先生という概念は、若くて美人という決まりがある。だから、現実での保健室の先生はあり得ない存在だと思っていた。少なくとも、中学生のときまでは。

 しかし、この桜ヶ丘高校に所属している保健室の先生は、若くて美人という部分を満たしていた。そのため、主に男子生徒からの根強い人気がある。女子生徒にも、話しやすい先生として評判がいい。

「体調でも悪いの?」

「体調が悪いのは当然なのですが、実はちょっとした相談があって……」

 早坂先生に、俺の今の状況をわかりやすく理解してもらうために、今日起きた出来事の全てを話した。特に隠すようなことではないと判断したからだ。下手に隠して、別の問題が起きるとそれはそれで困る。つまり、変な脚色を付けても意味がないのだ。ただし、自分でも起きた状況を正しく理解しているとは限らないので、上手く伝わっているかどうかは不安である。

 こんなことを早坂先生に言ってもいいのだろうかと躊躇しそうにもなったが、相談するしか選択肢がない。どうせなら、現実逃避をしない方法で乗り切ったほうがあとが楽だ。

「これは私の個人的な推測なのだけれど、あなたの体は確実に変わっていくと思うわ」

「それはつまり、どういうことですか?」

 その言葉が何を意味しているのか、すぐには分からなかった。だが、体があまりよくない状態だということは確かなのだろう。現に胸の痛みや声の出しづらさは一向に回復する見込みがない。むしろ、悪化しているような気がする。

「いろいろ可能性は考えられるけれど、とりあえず様子を見ましょう」

「わかりました」

 本当ならば近くの総合病院に行って、この謎の現象について調べて欲しいところだ。けれども、多分相手にされないと思った。今起きている症状の中で日常生活を送ることが困難なレベルのものは、何一つ存在していないのだ。そもそも、こんな地味な変化を理解してくれるのかも定かではない。だからこそ、早坂先生の存在はとてもありがたいと感じた。問題は何も解決していないが、感謝の気持ちを伝えて保健室を出た。


 謎の現象が起きてから約一週間が経過した。これが夢ではないと理解はしているものの、これは夢なのだと思い込むしか、精神を安定させる方法が見つからなかった。体は回復するどころか、悪化の一途をたどっていたのだ。

 全くと言ってもいいほどに戻らなかったのだ。正直なところ、ここまで変化が顕著に表れるとは思っていなかったのである。

 胸の痛みは徐々にではあるが、なくなってきていた。それと同じく、声の出しづらさも日に日に改善していった。だが、その代わりに別の症状が現れた。胸の痛みが引くごとに胸は膨らんでいき、声が出しやすくなっていくごとに声の高さが上がっていったのだ。

 武弥によると、違和感を覚えた日にはすでに声の高さは上がっていたらしい。前者は目視で確認をした。初めは気にし過ぎてそう見えているのだろうと思っていたが、一昨日からはどう見てもあるのを認めるしかなかった。後者は武弥や早坂先生に指摘されて認めた。

「お前、そろそろ女子の制服とか頼んだらどうだ」

「絶対に嫌だ」

「今のお前の声はほぼ完全に女の子だからな」

「いや、俺にも心の準備っていうのがあるんだよ」

 声は多少出しやすくなったとはいえ、まだ慣れていないのか風邪をひいたような声であることに変わりはなかった。そろそろ隠すのが厳しくなってきたのである。隠せていないような気もするが、隠せていると信じないと精神的に不安定になりそうだ。

「というか、その声で俺って言うのなんかくすぐったいからやめてくれ」

 武弥が、変な性癖を持たないように注意しよう…。


 放課後になり、いつものように保健室へと向かった。

 早坂先生からは、保健室登校にすることも選択肢の一つだと昨日言われた。けれど、あまり気が乗らなかった。普通ではないという自覚を持ってしまうからだ。今も普通の体ではなくなっている。しかし、それでも俺は何かにすがっていたかった。

「調子はどう?」

「大分良くなりました。ただ……」

 日常生活に支障が出ていることを認めざるを得ない状況であることを伝えた。ごまかして生活しているものの、不便さを払拭することは出来ないだろうと思っていた。

「まあ、そうなるよね。女の子が男子制服着てるようにしか見えなくなってきたもの」

 以前のような普通の日々を送ることは、もう諦めるしかないのだろうかと途方に暮れていた。精神的な疲れは確かに蓄積されていたのだ。

 そんな状況にある俺に早坂先生が提案してきたのは、校長先生に相談してみようということだった。当然ながら、面と向かって直接話したことはない。生徒会などの委員会活動に参加していれば、多少は話す機会があるかもしれない。しかし、そういった活動に関わることは極力避けてきたのだ。直接的に関わったことがないため、謎が多いのは当たり前だった。

「そんな難しい顔しなくてもいいわよ」

「でも、話聞いてくれますかね」

 不安そうな顔をしていたのか、早坂先生は少し微笑んでこう言った。

「優しい方だから、無下にするようなことはしないはずよ」

 早坂先生の協力により、校長先生と話をすることになった。その理由は単純だった。もう早坂先生がカバーできる範囲を越えようとしている。だからこそ、校長先生の協力が必要になった。

 本来であればこういった事項は教頭を通すべきなのだけれど、特例扱いということで直接会うことは実現することとなった。日時は翌日の放課後になった。


 果てしない不安感とともに空虚感を抱いていた。自分のことなのに、自分のこととは捉えられなくなっていた。あまりにも現実離れした現象の繰り返しに、精神は完全に消耗しきっていたのだ。

 放課後になり、早坂先生とともに校長室に来ていた。

「それは災難だったね……」

 見た目とは裏腹に、とても話しやすい人だった。再確認も兼ねて、俺は置かれている状況と困っていることを出来るだけ丁寧に伝えた。校長先生は一言も取りこぼさないようにしているかのように、じっくりと聞き入ってくれていたのだ。それだけでも俺は嬉しかった。

「君はどうしたいと思ってるのかな」

「どういう意味ですか?」

 校長先生は予想していなかった提案を持ち掛けてきた。

「もし君が望むのであれば、女子生徒として通うようにすることも可能だ」

「え…?」

 発せられた言葉が、あまりにも現実離れしていた。

「そのほうが、中津さんにとって多少は楽になるのではないかと思ってね」

 俺の置かれている状況は、本来ならばあり得ない状況なのである。それならば、少しでも違和感の無いように、生活できる環境を整える準備はするということだった。端的に言うならば、女子高生として生活すればいいのではないかという提案だった。

「でも、それっていろいろ問題が多くないですか」

 話はうまく伝わっていたようだが、それは逆に危険ではないのかとも思った。確かに今の俺の体では、普通の女子を装う方が楽な場面もあるのは否定できない。だが、それは精神的な面のみで考えた場合での話なのである。それで本当に大丈夫なのだろうかという新しい不安が生まれた。

「俺は見た目こそ女っぽくなってますけど、中身は男なんですよ?」

 結局、どこまでいっても俺は男子高校生なのである。そんな人間を校長先生は女子高校生に仕立て上げる準備を手伝うと言っているのだ。冷静になって考えてみると、とても奇妙な話なのである。

「心配はしていません。生徒のことを信じ、導くのが桜ヶ丘高校の教育の第一方針ですからね」


 結局、この話は一旦保留ということになった。そして、真剣に自分の今の立場について考えることにした。

 多分、校長先生と早坂先生はこの現象がより進むものとして考えている。これ以上進行してどうすると思う部分もあるが、そんなことを考える余裕はなかった。順調かつ確実に女体化は進行しているのだ。もはや気のせいとして済ませるのは、無理が生じ始めていた。

 周囲から女の子扱いを受けることには、いつの間にか慣れてしまった。変化していく声や体に、周りの人たちが気付かないはずがなかった。

 これからは女子高生として暮らしていく。だから、今のうちに慣れておくのはいいことなのではないかと思えるほどに、元の体に戻ることを諦めていた。総合病院などに行き、体の変化を止めることも出来るかもしれないと早坂先生からは言われたが、そうすることには抵抗があった。

 これから、俺は一体どうなってしまうのだろうか。それまで晴天だったはずの空が、急に雲に覆われたような感覚に襲われていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る