第2話 二人の新しい友達

 体調が落ち着くまでの間はゆっくり休んだ方がいいという校長先生の意見により、俺は約一か月間の自宅待機となった。学校に通うという日常的行動がとれないのは少々退屈だったが、その間にも体の変化は大きく進行していた。

 表面上で確認できるのは胸のあたりだけだったが、明らかに変化した部分もあった。自分の体から、ものすごく甘ったるいような匂いがする。これもそのうち消えるものだと思っていた。しかし、それは日に日に悪化していくばかりだった。

 未だに、他人事としか思えないような変化が続いている。それはもはや、現実離れしたような感覚だった。初めこそ戸惑いはあったものの、ここまでくるともう諦めのほうが勝っていた。ただひたすらに溜め込んだ水が、決壊し一気に流れ出たような感じである。


 本来であれば、他の高校に転校をすることによって、人間関係をリセットしたほうがいい。そうすれば、元々男子高校生として生活していたという記録は引き継がれず、女子高生として生活していたという設定で進めることも出来なくはないと校長先生からは言われていた。つまり、特例措置としてそういう扱いにすることも可能だと言われたのだ。それは本校での生活が通常通り出来ないと判断したときにしてほしいとも言っていた。最後の手段としてであれば、そうしても構わないということである。校長先生としては、出来る限り協力はするので卒業までいてほしいということなのだそうだ。

 協力というのは、女子生徒としてこれからは扱っていくことも出来るという意味らしい。それはつまり、『普通の』女子生徒としてこれからも通うということだ。外見的に女で生活できるのなら、記号的にも女でいたほうが生活しやすいのではないかという、特例措置。特例という以上、問題が山積みのような気がする。けれど、今はそれに従ったほうがいいと思った。俺はもう普通でいいのだから。


 その日の俺は、とても緊張していた。なぜなら、明日付けで同じ高校の同じ学年、同じクラスに男としてではなく女としてまた通うことになったからだ。こんな奇妙な体験は普通ならばできないだろう。見た目が以前に比べると多少変化したとはいえ、中身は俺自身なのだ。校長先生が、桜ヶ丘の他の先生には話を通しておいたらしい。だが、全員がいい顔をしたわけではないのだそうだ。もし俺が先生方の立場だったなら、同じことを思っていただろう。きっと、なんでそんな問題児を受け入れようとしているのかと疑問を抱いてしまう。それは仕方のないことだと思った。

 いずれにしても、事情を把握していてもらえるというのは少し安心感があった。それがどう伝わっているのかは分からないのだけれど。それでも、事前に情報が共有されていなければ、先生方が困るだろう。俺は迷惑をかけたくて女体化を受け入れたわけじゃない。


 担任教諭の芹澤先生が話をしたいということで、放課後の時間を利用して職員室に向かった。予定では明日から以前のように高校へ通うことになっている。そのことも含めて、意見を交換しておきたいとのことだった。

「芹澤先生、いらっしゃいますか?」

 職員室に入り先生を呼ぶと、こっちを振り向くなり少し驚いたような顔をしていた。特に驚かせるようなことはしていないつもりなのだが。俺に近づいてくる先生は、まだ戸惑っているようだ。これでは、冷静過ぎる俺がなんだか馬鹿らしくなってくる。もっと女の子らしく、少しはおどおどしたほうがよかっただろうか。

「ここじゃあ話しにくいでしょう? 移動しようか」

 芹澤先生は、二年生の担任教諭だ。専門としている科目は理科で、授業以外の時間は、理科準備室か司書室にこもっている。理由はすごく単純で、お茶係り回避のため。もう一つは、教材研究がすぐに出来るようにとのことだった。いずれにしても、大量の書籍に囲まれているのが、芹澤先生にとっては居心地がいいらしい。


 移動先は理科準備室だった。理科を担当しているのは、今年からは芹澤先生しかいないので、より謎の空間と化していた。本棚を横目で見ると、よく分からない英語の羅列となんとか研究と書かれた背表紙が並んでいた。

「いきなりだけど、本題に入ってもいいかな」

 頷くと芹澤先生はいくつか質問をしてきた。考えながら話しかけてくる感じがあったので、多分言葉を選んでくれているのだろう。俺自身はもう諦めているが、これは結構デリケートな問題なのである。

「体はまだ落ち着いていないの?」

「そうですね…。以前に比べたら目立った変化は出なくなりました」

 どう回答するのが、一番適切なのか。それが分からない。

 確かに変化は落ち着いてきたが、先生のいう『落ち着いた』と俺のいうそれが同一ではないことは分かる。問題は、どこを着地点とするのかだった。

「早坂先生から多少は話を聞いているけれど、大変だったそうね」

「何が起きてるのかを理解できなかったんですよ」

「そうなるよね。だって、私がある日突然男になったみたいな感じでしょう?」

 あくまでも受け入れようと、頑張ってくれていた。その気持ちだけでも、俺は嬉しかった。てっきり、適当にごまかされるばかりではないのかと、家を出るまでは思っていたからである。

「明日からでいいのよね」

「はい。そろそろきちんと授業を受けないと、期末試験もうすぐですよね?」

 不安ではあったけれど、これ以上休むと復帰できないような気がした。芹澤先生は少しだけ困ったような顔をしていたが、渋々ながらも認めてくれた。

「明日から、中津沙希は通常登校しますって校長先生に言っておくね」

「ありがとうございます」

 ほっとした表情を浮かべていた。それほどまでに心配してくれていたのだろうか。少しだけ申し訳ない気持ちになった。迷惑をかけたくはないと思っていても、知らず知らずのうちにかけてしまっていることはよくある。今回のことも、それに該当する案件だろう。


 翌日になり、芹澤先生と教室へ向かっていると、何人かの生徒が不思議そうな顔で俺のことを見ていた。なるべく不自然にならないように見た目は気を使っているつもりなのだけれど。

「分かっていたことだけど、注目されているわね」

「特に服装とかには気を遣ったんですけどね。どこかおかしいのかな」

 その言葉の意味はすぐには理解できなかったが、先生曰く俺が誰なのかがみんな分かっていないだろうという話だった。髪の毛は多少伸びていたので整えてきたのだが、そのせいで余計に女の子っぽく見えるとのことだった。女の子に見えないとしても、中津秋路と同一人物だとは思えないほどの変わりようとのことらしい。自分では毎日鏡で見ていて少しずつ変化を感じ取っていたため、そこまで変化したようには思えなかった。もしかして、転校生のような感じだと思われているのだろうか。

「名簿上、あなたは今日から『中津沙希』だからね」

「もう置き換わってるんですか」

 実は戸籍上は、すでに秋路から沙希に切り替わっている。その手続きが思ったより時間がかかり、変更が完了したのはつい数日前のことだった。学校側にも芹澤先生を通して連絡したが、こんなにも迅速に対応してくれるとは思っていなかった。


「少しここで待っててくれる?」

「わかりました」

 教室に芹澤先生が入ると、一気に静寂に包まれた。先生が何かを言っているのは分かるが、内容まではさすがに分からなかった。聞かなくても内容はだいたい察しが付く。『中津沙希』が今日からまた登校することになったとか、そういう話だろう。しばらく経つと、教室が少し騒がしくなっていたので少し不安感が大きくなっていた。そんなことを考えていると、教室の扉がゆっくりと開いた。

「中津さん入ってきていいわよ」

 先ほどまでの騒ぎがいつの間にか収まっていた。あまり静かにされると緊張が高まってしまうのでやめてほしい。この調子だと、教室に入った瞬間にクラス中の視線が一気に集まるのだろう。そう考えると気味が悪くなってきたが、俺は冷静に気持ちを保つことを心がけながら教室に入った。

 黒板の前まで進み教室の中を見渡すと、生徒たちの目線を感じた。実は今の服装は女子制服である。恥ずかしいというよりも、変態扱いされないだろうかという気持ちのほうが上回っているのだ。

「さっきも言った通り、中津は今日から女子生徒として通うことになった。変な詮索はしないようにな」

「……よろしくお願いします」

 今にも逃げ出したい気持ちをぐっと抑え、形式上のあいさつを済ませた。特に生徒たちからの反応は無かったが、不思議そうな目で見られているのは確かだった。

 芹澤先生の発案により、学期末にもかかわらず席替えとなった。席の位置はあまり変わらなかったが、結果的に武弥の隣になった。どう扱えばいいのか分からないと言いたげな目線を送られていたが、気にしないようにしていた。武弥とどう接すればいいのかが分からないのは、俺も同じだったからである。ずっと男同士という関係を続けてきたのだから、そうなるのは当然だと思った。


 一時間目の授業が終わり、休み時間になった。次の授業は何だったかなと考えていると、武弥はさりげなく俺に声をかけてきた。

「お前がここまで変わるとは思っていなかった」

「開口一番がそれかよ……」

 見た目の変化に対して、武弥も驚いているようだった。俺自身が感じる驚きは見た目というよりも、目に見えない変化のほうである。少しずつ変わる見た目を当然ながら毎日見ていたので、一か月以上期間を開けて見た武弥とは驚きの度合いが変わるのは仕方のないことのように思えた。見た目だけに限定するならば、思っていたよりも変化は大きいようである。自分から見た自分と他人から見た俺では、変化を感じる部分は違うのだろう。

「ボーイッシュな感じがあるけど、見た目は完全に女子高生じゃないか」

「それは喜んでいいの?」

 顔を見ると苦笑いをしていた。そこはノーコメントでとお願いされているようだった。

 武弥に対する態度は今まで通りでいいのかと考えていたけれど、何も変えなくてもいいと思った。なぜなら、武弥は俺にとって親友なのだから。親友だからこそ、今は話すタイミングではないと思った。


 午前の授業は終わり、昼休みとなった。武弥から一緒に昼飯を食べようと誘われたが、断った。念のために、保健室に来るようにと早坂先生から昨日言われていたからである。武弥とは久々に会ったのだから、積もる話もあった。だが、これは仕方がない。

「体の調子の方はどんな感じなの?」

「特に問題はないですね」

「それならよかった。でも、申し訳ないけどしばらくはこうして来てもらえないかな」

「分かりました」

 経過観察を兼ねて、しばらくの間は昼休みに保健室へ来ることが決まった。今のところ、体に関することで頼りになるのは早坂先生しかいないのである。なので、そう言われることはとても安心感があった。頼れる人は、たくさんいたほうがいい。すごく自分勝手な考え方ではあるが、これが本音だった。

 同じクラスの人は事情を知らされたとはいえ、全員が理解を示しているわけではないと思っていた。警戒とまではいかないまでも、ある程度の距離を置く必要はあるように思うのである。今頼るべきなのは、間違いなく早坂先生なのだ。


 教室に戻ると、自分の席の近くにいた女の子二人が近づいてきた。何か用でもあるのだろうか。特に面識は無いはずなのだけれど。

「中津さん、よかったら一緒にご飯食べない?」

 何か言われるのかとは思っていたが、まさか昼ご飯を一緒に食べようという誘いだとは思っていなかった。それはつまり、俺と仲良くしてくれるという意味なのだろうか。

「その…お邪魔ではなかった?」

 その言葉の意味は、武弥と一緒に食べなくてもよかったのかということだとすぐにわかった。武弥がまるで恋人を取られて、寂しがっている彼氏のような顔をしているのが悪いのだ。どうもこの二人の認識として、武弥と俺が友達以上の関係にあると思っているのだそうだ。武弥の行動は誤解を生みかねないのでやめてほしい。

 確かに親友ではあるけれど、そこに恋愛的な意味合いは全く含まれていないはずだ。少なくとも俺の中ではそういう認識はない。武弥がどう思っているのかは知らないが、そうではないと信じたい。だって、俺は男なのだから。

「いや、大丈夫だよ」


 とりあえず昼休みは二人と過ごすことにした。今までであれば武弥と食事をとっていたのだが、今日はなんとなくそうしないほうがいいような気がした。武弥を加えればいいのではとも思ったが、それは違う。この二人は、俺を誘ってきたのだ。もし武弥に対して気を遣っているのなら、初めから誘うはずである。

「中津さんのこと、下の名前で呼んでもいいかな?」

 お弁当を食べ終わりゆっくりしていると、浜野由果がそう尋ねてきた。彼女は図書委員で、成績は中の上くらい。まったりとした口調なので、よくいいところのお嬢様と思われるが、実はそんなことはない。ただマイペースなだけである。

 下の名前で呼んでもいいかという提案は、とても嬉しかった。これは感覚的な話ではあるけれど、名字で呼び合うと他人行儀な感じがして嫌なのだ。特に女の子同士の会話であるならば余計に。そこは俺が男だという前提を無視するならの話だけれど、一旦それは隅においておこう。

 人間関係の構築は、とても重要だ。人付き合いが苦手だからといって、避けては通れない道である。きちんと自分と向き合うと決めた以上、これはチャンスだと思うことにした。

「大丈夫だよ。私も二人の事、下の名前で呼んでもいいかな」

 ほんの少しの時間ではあったが、二人との間にあった距離は少しだけ縮まったような気がする。もしかしたら他人とここまで長く話すことは久しぶりかも知れない。武弥以外の人とはあまり話していなかった。他人に興味がないというよりも、きっかけを無くしていたのだ。

「もちろんいいわ」

 もう一人の名前は、上宮紗那である。男っぽい女だという話は以前に武弥から聞かされていた。それがどういうことなのかをつかめなかったが、こうして目の前にいるので雰囲気と声のトーンで理解できた。たしかにこれは女子からの人気も高いはずである。

 常に二人でいたことは知っていたので、よっぽど仲がいいのだろうなとは思っていた。仲が良すぎるので、実は付き合っているのではないかという噂が立つほどである。いつの間にか、そんな二人を俺は羨ましく思っていた。

 その後も話は続いた。次第に緊張感は薄まっていき、二人と会話をすることに抵抗はなくなっていた。多分、人と接点を持つことに臆病なだけなのである。また誰かを傷つけてしまうのではないかという気持ちがどこかにあるのだ。


 放課後に三人で帰ろうという話になり、三人で帰っていた。その途中に紗那がある質問を投げかけてきた。

「沙希ってスタイルいいよね」

「え?」

 あまりにも唐突な発言だったので、俺は変な声を出してしまった。ここでのスタイルがいいというのは、痩せているという意味なのだろうか。確かに女の子体形ではないので、比べてみると細い。しかし、その原因は女性特有の皮下脂肪があまり付いていないせいである。女の子っぽく見せるという考え方に沿うならば、俺は失敗しているのだろう。そもそも、この学校の制服は体のラインが前面に出やすい。ダイエットと称して女子たちが自らの食生活を嘆いているのも、今に始まった話ではない。世の中の考え方が、少し極端すぎるのだ。健康ならば、それで問題ないと俺は思うのだが、こんなことを言うと反感を持たれてしまうだろう。

 少し前の話ではあるが、七海が自身の体を気にしているのを見てしまったことがある。もちろん、その現場には偶然居合わせたのだけれど。決して狙って七海の裸を見たわけじゃない。

 無意識に気にしてしまうものなのだろう。気にしたくなくても、周りが気にしているなら私も気にしないとという風に、同調してしまうのだと思った。俺もそのうち、腰の周りとかに脂肪がついてくるのだろうか。『普通の』女の子のようになるのだろうか。しかし、俺の思っている『普通』とは、一体何を指して言っているのだろう。それは一体、どの目線で考えていることなのか。

「なんでそんなに細いの……羨ましいわ」

 ほんの少し前まで、ごく一般的な男子高校生として生活してきたのだ。そんな俺に何がわかるというのだろうか。やはり、女性としての細かい部分は当然ながら分からない。それが『女心』というものかと思った。女としての生活の経験値が不足している俺が、その概念を理解するのはもっと先の話なのだろう。こればかりは、これから改善していくしかない。では、具体的にどうすればいいのかについては全く分からないので、解決しようがないのだけれど。何かをすることで得られるというような、単純な話だとは思えなかった。もっと複雑に絡み合う糸を手繰り寄せるようなものなのだろう。

 これからの生活は、これまでとは似ているようで全く違う第二の人生なのだ。そうするしか出来ないように自ら道を閉じたのである。出来ることならば、明日も楽しく過ごしたいと願った。それが、今の俺にできる最大限の恩返しなのだから。

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