第32話 幻を抱いて
文化祭とは、振り返ってみると幻のようなものだった。一言で表すならば、この表現が、最適だろう。そう思ってしまうほどに、あっけなく終わってしまった。
「それにしても、終日売り子をするとはね」
隣で憐れむような笑みを浮かべるのは、あかねだった。初めは、名前を貸し出すという名目で、文芸サークルの一員となったあかねだったが、いつのまにか積極的に参加するようになっていた。
今回の文化祭でのあかねの役割は、主にカメラマンだった。あかねは、なぜか男装をすることになり、いわゆる学ランを着て写真集に載った。竹原さんによると、必ずしも異性装をテーマとしているわけではないとのことなので、特に問題はないのだろう。
「笑うなよ。結局、最後まで女装をしていたのは、俺一人だけだったじゃないか」
あかねに、何か非があるわけではないが、行き場のない気持ちを吐露するには、このタイミングしかなかった。
文化祭の前日までは、写真集に載っている12人のうち、異性装をした人が写真集と同じ格好で校内を回るはずだった。しかし、途中で俺以外のメンバーが装うのをやめて、私服に着替えたのである。結果的に、俺一人だったというわけだ。
酷い裏切り行為である。
「まあ、そう怒るなよ。過ぎたことに怒っても、何も生まれないぜ?」
「むぅ」
そんなわけで、ふたを開いてみるとあっけなく終わってしまった文化祭だった。文化祭のようなものは、当日よりも準備日のほうが楽しいとよくいうが、本当にその通りだ。
売り子をした影響が多少はあったのか、文芸サークルの写真集は完売した。薄利ではあるものの、文化祭終了後に部員全員へ、缶ジュースを渡せるくらいの余裕があった。成功といっても過言ではないだろう。
ただ一つ、心残りがあるとするならば、あかねの女装姿を写真集に載せることができなかったことだ。
そこからの一か月間は、あっという間に過ぎていった。時間の流れが、日を追うごとに早くなっていったのである。
お天気お姉さんが、暖冬になるかもしれないといっていたが、そんなことはなかった。すっかり、外を歩いていると、寒さで肩が凝ってしまうような気温の日々が続いていた。たまには、自然の景色を楽しもうと思って、紅葉を心待ちにしていたが、気がついたときには木々が枝のみになっていた。気のせいだとは思うが、年々春と秋の期間が短くなっていないだろうか。もちろん、風景や気温などのことである。
12月に入ると、皆が話題にあげるのは、もっぱら例の日にどう過ごすかということだった。
「クリスマス、中津は予定あるのか?」
いかにも、お前には予定はないんだろう、と言いたげな顔で質問をしてきたのは、今村だった。
「それを聞くのは、少し失礼だとは思わないのか」
一緒に住む男との関係で、気まずい感情を持つような人に、クリスマスを共に過ごす相手などいるはずがないだろう。
そんな、とても今村には言えそうにないことを考えつつ、俺はジョッキに残っていたビールを飲み干した。
「良い飲みっぷりだねえ。もう一杯飲むか?」
「いや、そろそろ帰らないとあかねに怒られる」
店には、ほとんど客はいなかった。つい先ほどまでは、いかにも大学生という雰囲気の集団が騒がしかったのだが。
「それもそうか」
「お会計、お願いします」
そう言って出てきたレシートの長さに、俺は酔いがさめた。
あゆかんで学生寮の最寄り駅である、
部屋の前に着くと、中の光が漏れていた。もしかして、まだ起きているのだろうか。
鍵を開けて中に入ると、奥のちゃぶ台であかねが本を読んでいた。
「お帰り、ずいぶん遅かったな」
眠たいのか、いつもよりも声が小さかった。こういう姿を見せることがあるんだなと、俺は少し変な気持ちになっていた。きっと、酔っているせいだろう。
「ちょっとね。今村と飲んできた」
そういえば、あかねはクリスマスの予定が決まっているのだろうか。よく考えてみると、少なくとも今まで、その話題を話したことがなかった。あかねのことなので、きっと予定が決まっていれば、おそらく俺に言ってくるはずである。
もちろん、これは俺が勝手に思っているだけだ。しかし、そのくらいの仲ではないかと信じていた。
「そうか。早めにシャワー浴びてきたほうがいいぞ。後回しにすると、面倒さが増す」
あかねはそう言って、手元の文庫本に目線を戻していた。
「まあ、確かにね。何の本読んでるの」
「大垣とも子って人の本。知ってるか?」
それは本の題名ではなく、著者の名前だった。主に恋愛小説を書く人で、その手のファンには有名だった。
「名前は知ってるけれど、読んだことはないね」
「それなら、ぜひ読んでみてよ。あんまり難しい表現とか言葉は使わない人だから、読みやすいんだよね」
途端に口数が増えたあかねに、俺は少しだけ驚いていた。
よく考えてみると、俺はあかねの好きなこととか好きな食べ物とか、そういった基本的なことを何も知らなかった。仲がいいと思っているわりに、あかねの内側を知ろうとはしてこなかったのである。
あかねに対して抱いている気持ちが嘘なのだと思えるように、ずっと避けていた。それが、友情という幻なのだと思えるように。
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