第31話 バスタオル

 時間が、どれくらい経ったころだろう。時間という概念が頭の中から消えてしまうほどに、ふわりとした感覚が体を包んでいた。

「なあ、沙希。顔が近い」

 そんな俺とは裏腹に、あかねは渋柿を食べた後のような顔をしていた。気まずい雰囲気にしてしまったことに、申し訳ない気持ちが心のどこかに芽生えていた。

「ごめん」

 顔が近いだけで、こんなにも緊張してしまうものなのだろうか。目の前にあったあかねの顔に、気を抜くと吸い込まれてしまうんじゃないかと思えるほどに、俺は目線を逸らすことができなかった。

「そろそろ帰ろうぜ。お腹減った」

「それもそうだね」

 その後の俺は、普段通りを装うだけで精一杯だった。至近距離にあったそれを思い出すたびに、心臓が激しく動いているのが分かるほどだった。


 そこからの時間は、今までのどの時間よりも長く感じた。大学から学生寮に帰るまでのあいだ、俺たちは会話といえるほどのやり取りをしていなかったのである。

 部屋に入ってからも、無言の時間が続いた。関係構築が上手くできていなかったころとは違い、それなりに仲良くなったつもりだった。そのためか、あかねの息遣いが聞こえるほどの無言の空間を過ごすことは、あまりに苦痛だった。

「あかね、そろそろ寝ないか」

 このままではあまりの寂しさに気が狂いそうだった俺は、あかねに寝ることを提案した。

「特にすることもないしな。少し早いけど、寝ようか」

 結局、被服室で目が合ってから寝るまでに再び目が合うことはなかった。


 身の回りの異変に気づいたのは、床についてから……どれくらい経ったころかは分からなかった。明らかだったのは、いつの間にかちゃぶ台の上で寝ていたということだった。確かに、俺は何時間か前にベッドの上で寝たはずなのだが。もしかして、これが夢遊病というやつだろうか。

「一体、何が起きてるんだ?」

 恐怖というよりも、不思議だと思う気持ちのほうが勝っていたのか、不安を抱くようなことはなかった。

「沙希、そこにいるのか」

 寝ているはずのあかねは、なぜか脱衣所にいた。寝ていたということはつまり、被服室での出来事はすべて夢だったのだろうか。そう考えれば、とりあえず辻褄は合うはずだ。

「いるぞ。ちょっと寝てた」

「申し訳ないんだけど、バスタオル取ってくれないか」

 素っ気ない雰囲気でそう言ってくるあかねに、俺は少し苛立った。こんなことで喧嘩をするのは馬鹿馬鹿しいのでしたくはないが、いくらなんでも態度が変わり過ぎではないだろうか。いや、そもそも被服室での一件が夢だったとしたら、その後の時間も俺が見ていた幻だということなのか。もしそうならば、俺は一人で何をしているんだ。

 行き場のない感情を抱え、俺はバスタオルを脱衣所のカーテンの横にある隙間から手渡した。

「ありがとう。助かった」

 聞こえないようにため息をついて、俺は元々いたところに戻った。

 ところが、それとほぼ同時にカーテンの開く音がした。


 シャワー室との気温差が大きいのか、あかねの体が温かいのか、バスタオルを巻いただけのあかねは湯気が立っていた。

 ほんのりと赤みがかっていたあかねの顔は、とても可愛かった。可愛らしいという表現が、一番正しいかもしれない。そう思えるほどに、魅力的だった。

「ねえ、沙希」

「ど、どうしたの」

 普段とは比べものにならないほどに、女の子のような声をしていた。何も意識していないときの声は、こんな感じだったのか。

 そうだ。本来のあかねは女として生活しているはずで、決して男としての生活を強いられるはずがないのだ。なぜなら、こんなにも目の前の少女は可愛らしいではないか。しかし、あかねは自分のことを男だと言い張り、実際に男として生活を送っている。そんなことが、現実にあっていいのだろうか。

 そこまで考えたところで、俺はある重大な秘密を隠していることに気づいた。俺はまだ、あかねに体が女のようになっていることを伝えていなかった。人のことを言えるような立場では、ないのである。

「今日だけでいいから、俺の願いを聞いてくれないか」

 そう言いながら、あかねは俺をベッドの上へと押し倒してきた。あまりのも一瞬の出来事に、口が開いたままになっていた。

「とりあえずだな、服を着ないと風邪ひくよ」

 状況を受け入れることができなかった俺は、正論を伝えることで逃げることにした。この状況を理解できるものがいるなら、この場所を変わってほしいものである。ただただ、困惑するしかなかった。

「俺のこと……嫌いなのか」

 いつのまにか目が赤くなっていたあかねが、涙を浮かべながら聞いてくる姿に、俺はある種の興奮を覚えてしまった。

 なぜ今日に限って、こんなに女のように接してくるのだろう。これではまるで、あかね自身が女としての体を持つ自分を受け入れているようだった。そのうえで、女としての魅力を最大限に生かして振る舞っていた。この短時間で、一体どんな心の変化が起きたのだろうか。

 それとも、俺の知らないところで変化はあったのだろうか。

 普段は見られない表情や行動に、真っ直ぐ視線を向けることができなかった。

「本当にどうしたんだよ」

「沙希……」

 あかねの体が近づいてくるような感覚を覚えたような気がしたものの、次の瞬間に体が震えて目覚めた。

「なんだ夢だったのか」

 いつも通りの部屋の景色に、俺は心のどこかで安堵していた。しかし、それに反するような悲しいという感情もあった。

 俺の気持ちは、一体どこにあったのだろうか。


 とりあえず顔でも洗って気持ちを切り替えようと思い、扉を開けるとうなり声のようなものが聞こえてきた。不気味だとは思いつつも、その声の元をたどってみるとあかねの部屋だった。

「もう諦めてくれよ……」

 深入りしてはいけないんだろう、という気持ちはある。だが、あかねがこうしてうなされているということは、どの程度かは分からないが、ストレスを抱えているのだろう。きっと、理解できないほどの悩みなのだ。


 もしかすると、あかねのうなり声を聞いたことで、変な夢を見てしまったのだろうか。それならば、俺は最低だな。

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