第39話 これはきっと、裏切り

 森本から、どうやってここまで帰ってきたのだろう。

 切符を買ったことはかすかに覚えているが、それ以降のことを全くといっていいほど覚えていなかった。


 目の前には、見慣れた喫茶店があった。

 入り口近くにある公衆電話で、スーツ姿の男が大きな声で話していた。年末だというのに、どうしたのだろう。喧嘩でもしたのだろうか。

 ただ、今の俺にはそんなことを考えている余裕はない。主に俺自身とあすかに対する接し方についての問題をどうするのかについて、考えねばならない。


 ドアを開けると、いつものようにカランコロンという鈴の音が店内に響いた。

「いらっしゃいませ……久しぶりね」

 入り口で出迎えてくれたのは、はるかさんだった。俺のほうを向いた瞬間、顔の色が変わったのはきっと気のせいだ。

「そうですね」

「こちらへどうぞ」

 気を遣ってくれたのか、一番奥の席に誘導された。変に気を遣ってほしくはなかったのだが、はるかさんが持っていたトレーの裏側に反射して映っていた自分の顔が、あまりにも情けないことになっていた。これでは、気を遣ってくれといってきているかのようだ。

 ポーカーフェイスが上手いあすかのことを、今日ほど羨ましいと思ったことはなかった。


 店内を見渡すと、喫茶店の店長とはるかさんの2人だけだった。もう夜も遅い時間なので、特に忙しそうなわけでもなかった。

「ご注文はお決まりですか?」

 お冷を置く音がからんと響くほど、店内は静かだった。客は俺1人だけだということに今更ながら気付き、なんだか落ち着かなかった。

「えっと、アイスミルクコーヒーを1つください」

「かしこまりました。ホットじゃなくて、アイスですね。甘みは入れて、大丈夫ですか?」

 返事をするのも億劫になっていた俺は、首を縦に振っていた。


 頭の中では、思考が巡りめぐっていた。はたから見ると、ただぼーっとしているだけなのだ。

 ああ、忙しい。なんといえば、適切な表現になるのだろう。

 これはまるで、ハンドルとブレーキがなくなった車のようだ。エンジンはかかったままなので、永遠に前へ前へと進み続けている。しかし、方向を変えることもスピードを緩めることもできなかった。

 はるかさんは、ここへ入ってきた俺を見ていったいどう思ったのだろう。きっと何かがあったと思われているはずだ。そうでなければ、あんな顔はしない。


「お待たせしました。アイスミルクコーヒーです」

 彼女の一言で、俺の中の時計の針がまた進み始めた。もし1人でいたら、永遠に正常な時の流れに戻ってこれないような気がした。自分ひとりだけが、深海をさまよっているかのようだ。

「ありがとうございます」


 誰彼構わず、話してしまいたかった。

 あかねにことも、俺自身のことも、変な研究のことも。全て全て。もう、ぶち撒けてしまいたかった。

 こんなことは考えたくないけれど、なぜ俺ばかり我慢しているんだ。俺だけが知っているという状況そのものがおかしいのだ。


 はるかさんになら、話しても大丈夫なのだろうか。

 なにをもって大丈夫なのだろう。それは、どこに境界線が敷かれているのか。俺は把握していない。

 それらを話すということはつまり、相手にも黙っていてほしい。だが、理解してほしい。という、究極のわがままでしかないのだ。そんなことは、許されるのか。いや、許されるか許すかの問題ではないのか。


「難しそうな顔して、大丈夫かい?」

 そういいつつ、はるかさんはコップに水を注いでいた。ふと時計を見ると、閉店時間が迫っている。

「もうそろそろ帰ったほうがいいかな」

「そうだね、そろそろ店閉めるから」

 カウンター越しに、髭にこだわっている店長が微笑みながらそう言った。髭なんて似合わない人ばかりだと思っていたが、ここの店長はイケメンかつ髭が似合っている。

「店長さんがそういうなら、帰ります」

 帰り支度をしようと早坂先生にもらった資料を片付けていると、はるかさんが耳打ちしてきた。

「私でよければ話聞くから、もしあれだったら公衆電話の前で待ってて」

 やはりはるかさんは、気を遣ってくれていた。こんなことを彼女にさせるくらいなら、ここへ立ち寄るべきではなかっただろうか。そう思ったが、どちらにしろそれはできなかった。なぜなら、この悶々とした感情が今にも張り裂けそうだったからだ。

 自分のことしか考えられない俺自身のことが、とても嫌いになりそうだ。


 言われた通りに公衆電話近くでしばらく待っていると、Tシャツにジーパンといういかにもはるかさんらしい格好でやってきた。

「お待たせ。ちょっと散歩でもしよっか」

 言われるがままに、俺ははるかさんのあとをついていった。彼女はとてもたくましい人だ。女の子にこんなことをいうのはどうかと思うのだが、頼りがいがあって自立している。簡単にいうならば、お姉さんという感じだ。本当に同い年なのかが怪しい。はたまた、俺があまりにも子どもっぽいのか。

「ちょっと、また難しい顔して。この顔がいけないのよ」

 なにを思ったのか、突然俺の頬を引っ張り始めた。

「痛い、痛いから。分かったから」

「なにを分かったのかな、沙希くん?」

 いたずらっ子みたいな表情をして、はるかさんはしばらく俺のことを解放してくれなかった。


 近くの海岸まで下りると、心地よい風が体を包んでくれた。

「やっと着いたね」

 まだ頬の違和感が残っていた。あれがなければ、もう少し早く着いていたと思うのだが。

「ここまで来たのはいつぶりだろ。近くにあると、なかなか来ないよね」

 海が嫌いだとかそういうわけではないが、特別に好きだというわけでもない。そんな俺にとって、海という存在はなんとなくあるものだった。なのでこうして、砂浜まで来ることなんて、めったになかった。

「そういえばさ、なんであの日来てくれなかったの?」

 ここでいう『あの日』というのは、きっと25日のことだ。だが、俺は一言も必ず行くとは言っていない。気が向いたら、と言っていたはずだ。

 会いたくなかったわけではない。しかし、あの日はあすかとの約束があったのだ。

「いろいろあってね」

 ならば、はじめから今日は行けないと伝えるべきなのだろう。しかし、あのときの俺は選べない選択肢を残しておくという、はるかさんにとって最低なことをしたのだ。心のどこかで、俺はあすかが来てくれなかったときのことを考えていた。

 はるかさんを、2番目に選んでしまっていたのだ。

「そんな顔しないでよ。もう許してあげるから」

 彼女はそう言い放ったあと、立ち上がって階段の上にある自動販売機でなにかを買っていた。持ち帰ってきたのは天然水と書かれたラベルが張ってある、ペットボトルだった。

「はい。これは友情の印」

「ただの水が入ってるペットボトルだよね」

 その突っ込みをさえぎるように、彼女は水を口にした。そして、なにを思ったのかそれをそのまま俺に手渡してきた。どういう意味なのかが分からずに彼女の顔を見てみると、眉間にしわを寄せていた。

「私が飲んだのは、飲めないって言うの?」

 あまりにも不服そうな表情だったので、諦めて飲むことにした。これがいわゆる、間接キスというものなのか。なんというか、想像よりも情緒も何もないな、これ。

「もしかしてだけど、沙希って女の子が苦手だったりする?」

「どうして、そう思った」

「だって、こんなことくらいで顔赤くしちゃってさ。単純だよねえ」

 指摘されてから、自分の顔が熱くなっていることに気が付いた。もう遅かった。

 彼女にはきっと、俺の心にはない余裕がある。だからこうして、真横にいる相手をからかってくるのだ。

「ねえ」

「えっ?」

 ペットボトルの代わりに、今度ははるかさんの顔が目前に迫っていた。どういう状況かを把握するのに数秒かかったが、どうも俺ははるかさんにあごを持ち上げられているようだ。いや、行動がイケメンだ。

「ふぅ」

 彼女はため息をついて、もとの位置へと戻った。手元には、先ほどのペットボトルが何事もなかったかのように存在していた。

 月夜に照らされたはるかさんは、幻の存在のようだった。これは夢なのか。はたまたうつつなのか。それすらも、あやふやだった。

「ふふ」

「どうしたの?」

「だってさ……沙希の唇、柔らかくて女の子みたい」

 そう言いながら無邪気に笑うはるかさんは、大人だった。

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