第40話 やわらかな刺激

 波の音が、頭の中に響いているような気がした。それは、何度も何度も繰り返し続いていた。恥ずかしくなって後ろを振り向くと、月の光に照らされている海が特別に見えた。


 女の子みたいだという言葉が、心のどこかに引っかかっていた。それを聞いて、戸惑わない男がどこにいるのか。そう言われて嬉しいと感じる人もいるだろうが、俺は決してそうは思えない。そもそも、なんて無神経なことを言えるんだ、この子は。

「いきなり、なにするんだよ」

 目の前の女性は、なぜかとても積極的だった。それも、こちらがひいてしまうほどにだ。こういった行為をすることに対して慣れているのか、ただ何も考えていないだけなのか、そのどちらに当てはまるのかはすぐに結論が出なかった。

「私からいくのは、好きじゃない?」

 なんてことをいわれた場面もあったが、そういうことではないのだ。彼女にからかわれているだけなのか。それとも、本心からそう思っているのか。それが分からないので、無関心を装うことしか出来ないのだ。

「沙希からは……してくれないんだね」

「なんで……」

「え?」

「急に、どうしちゃったんだよ」

 彼女のもっていた疑問への回答をせずに疑問で返してしまったせいか、口がポカンとしていた。

 俺に向けているその感情がなんなのか、それが分からないままにこのじゃれあいを続けるのは、納得できなかった。たとえ彼女がそこに意味をもたなかったとしても、俺はその事実を知りたいと思った。

「分からない。分からないけれど、触れたいと思ったのよ」

「なんだよそれ……」

 友情というのは、彼女の頭の中ではこういうことをする仲を指す言葉なのだろうか。それならば、俺はこの事実を受け入れられない。こんな軽い気持ちでしていいことだとは、俺は思えなかった。何が“友情の証”なんだ。こんなの、友情でもなんでもないだろう。それとも、彼女の中ではこれも含めて友情だというのだろうか。そんな考え方、俺にはできない。

「もしかして、今のが“初めて”だったりした? ね?」

「うるさいなあ」

 人というのは、図星をつかれると少し反抗的になってしまう生き物である。もっとも、単純に相手が鬱陶しいと反抗してしまうこともある。だからこそ余計に、彼女がからかってくるような姿勢を見せ続けるのが、たまらなく嫌だった。

「そうなんだ。へえ」

「言っとくけど、俺はこれが初めてじゃないからな」

「じゃあ、いつが沙希の初めてだったのよ」

「中学の頃、だったかな」

 目の前の女の子とそっくりな人と、俺は初めてこういうことをした。

 初めてのキスは甘酸っぱい味がするとかそんな話を聞いたことがあるけれど、実際はそんなことを考える暇などなかった。ただそれが終わった後に、口元に残ったかすかな感触が忘れられなかったということは確かだった。

「そうなんだ。意外と早かったのね」

「はるかがもってる俺の印象は、いったいどうなってるんだ」

 彼女はふふっと笑ったあと、砂浜の端にある石段へと戻っていった。


 ほんの数分前に起きた衝撃の大きさに、俺は落ち着いていられなかった。とりあえず炭酸が飲みたい気分だったので、炭酸水を買うことにした。

「どうしたの?」

 俺が突然立ち上がったことに疑問を抱いたのか、はるかが声をかけてきた。

「ちょっと飲み物買ってくる」

「え? なんで?」

「喉が渇いたから」

「ここにあるじゃん」

 そう言って見せてきたのは、さっき2人で飲んだペットボトルだった。

「はいはい」

「ちょっと、待ってよう」

「待ちません。俺はもうその水は飲まないぞ」

 自販機の前に着いたときには、彼女は海のほうへ視線が向いていた。なぜかその横顔が、寂し気に見えた。


 冷えている炭酸水を持ちながら、俺は元の場所へと戻った。

「何買ってきたの?」

 はるかは海を見ながらぼーっとしていたのであえて声をかけずにいると、気配を察したのか彼女から話しかけてきた。

「炭酸水」

 ペットボトルの蓋を開けると、プシュッという独特な音が鳴った。

「沙希って炭酸が好きだったの」

「いや、そうでもない」

 実のところ、俺は炭酸が苦手だ。飲んだときの独特な感覚が、どうしても受け入れられない。しかし、そんな俺が炭酸を飲むときがあった。それは、心がつらくなったときだ。

「あのさ」

「なに?」

 海の近くで話すのが、俺は好きだ。誰かと一緒にいるときの沈黙とか、わだかまりとか、そういったものを打ち消して流してくれるような気がした。

「さっきのやつ、誰とでもするのか…?」

 ほんの少しの沈黙ののち、彼女はこちらを向いてよく分からない声を漏らしていた。

「はぁ? ちょっと、それどういう意味」

「だってさ、別に俺のこと好きなわけじゃないんだろ?」

「一応、そういうことになるのかな」

 はるかはしっかりしていそうで、実は中身はこんな感じなのだ。気持ちがふわふわしているというか、浮ついている。はっきりしないことのほうが多いし、誤魔化すこともよくあった。

「好きでもない相手とキスなんてして、何がいいんだ?」

「そうね、特にこれといった理由はないね。なんとなく、沙希となら出来るかもって思ったからかな?」

「なんだよそれ」

「気がついたら、体が沙希のほうに動いてたの。自分でもびっくりしたよ」

 俺は、内心つらかった。目の前にいる元気な女の子は、あまりにも羽衣に似ている。忘れていた羽衣の存在を、こんなところで感じてしまうなんて、なんて酷い奴なんだ。

「もっと言うなら、自分の気持ちを確かめたかった……かな」

 はるかの声と見た目が違ったなら、俺は彼女に羽衣を重ねることはなかったのだろうか。


 そろそろお開きということになり、俺たちは近くにある但沼海岸駅ただぬまかいがんえきまで戻っていた。

「そしたら、私とはここでお別れね」

 あゆかんの終電は早い。改札口には終電に乗り遅れまいと急ぐ人の姿が、まばらにあった。

 ちなみにはるかさんは学生寮の住民ではないので、家に帰るにはあゆかんを使わないと大変なことになるのだ。もっとも、そうなると俺が困るのでそういった事態は避けたい。

「夜遅いから、気を付けて帰るんだぞ」

「そういうこと、言えるんだ。気が利くね」

「はいはい。早く行かないと、もう電車来るぞ」

 まったく、どこまで失礼なやつなんだ。そう思いつつ、俺の乗る行先とは反対側の電車の音が近づいてきていた。

「また、散歩つきあってね」

 そう言って、彼女は離れていかなかった。ほんの一瞬だけ柔らかな唇の感触があった。何が起こったのかは、考えなくても分かった。

 鮎川駅方面の電車が去っていった後も呆然と立ち尽くしていた俺の耳元に残っていたのは、いつもより激しい波の音だけだった。

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