第41話 どこまでも恋心
ペットボトル事件のあと、学生寮に帰ってこれたのは日付が変わる直前だった。
部屋に帰ると、寝転んで本を読んでいるあかねの姿が見えた。いつもと変わらない姿に、俺は心底ホッとしていた。
「ただいま」
「おかえり。遅いぞ、沙希」
こちらを振り向くことはなく、あかねの視線はひたすらに文字を追っていた。決して、俺に目線を向けようとはしてこなかった。
「ごめん。そういえば、何も言ってなかった気がする」
「だろ? お互いに気をつけようぜ」
その後は、特に会話という会話はなく、お風呂から上がった俺はただ天井のシミを数えていた。
結局、はるかさんには本当のことを話せず、心のどこかに霧がかかっているかのようだった。ただ、はるかさんに真実を伝えたところで、問題は解決するわけではない。それは根本的な解決ではないのだから。かといって、あかねに話すわけにもいかなかった。なぜなら、俺が悩んでいる一番の原因なのだ。
翌日の朝は、体を起こすだけで体力が奪われていった。
「…大丈夫か?」
「眠れなかった」
寝起きの顔というのは、皆平等に酷い絵面になるものだが、その日の俺は特に酷かった。
「目の下がとんでもないことになってるぞ」
あすかがそこまで言うなら、きっと相当酷いのだろう。そう思い、覚悟を決めて洗面台にある鏡の前へ行った。そこには、まさしく疲れ切った俺がいた。
「すげえ」
言葉が上手く出てこなかった。頭が回っていないことは明らかで、心なしか呼吸が浅かった。いつも通りのことが、いつも通りに出来ないということがこんなにもつらいとは、思ってもいなかった。
「休んだほうがいいんじゃないか…?」
「いや、とりあえず行くわ」
「単位危ないのか?」
「そういうわけじゃないけど」
大学は、年が明けたあとはすぐに期末試験がやってくる。つまり、この時期の出席を減らしてしまうと、単位取得の安全ルートが途絶える可能性がある。しかし、午前の言語学は出席していなくても大丈夫な部類なのだ。同じ講義を受けているあかねがいるため、何かあれば情報は入ってくる。なので無理はしなくていいと、あかねは言いたいのだろう。
「それなら……」
わがままをいえるなら、俺はあかねの優しさに甘えたかった。
しかし、そうしていられない事情があった。そのときの俺は、寮から外に出ないと気が狂いそうだったのだ。
案の定、講義の内容は一つも頭に入ってこなかった。
「おはよ。どうしたの、そんな暗い顔して」
大学の午前講義が終わったあとに声をかけてきたのは、昨日俺にとんでもないことをした相手だった。お前のせいでこんなことになってるんだぞと言いたかったが、そんな元気もなかった。
「人生に疲れたんだよ」
「またそんなこと言って! 頑張れ、若者よ」
テンションが上がったり下がったり忙しいやつなので、まともに付き合っていると、ろくな目に合わない。彼女のいうことは、半分真面目に聞いていれば十分なのだ。きっと、昨日のキスもなにかの手違いに過ぎない。そう思わないと、心の平穏を保てなかった。
「はいはい」
「はいは一回だけ!」
声が横から聞こえてきたので、隣を見てみると、かなり至近距離にはるかさんの目があった。
「おおっ!?」
驚いた拍子によろけてしまったが、倒れないようになんとか耐えた。それを見ていた彼女は、くすくすと笑っている。
「はるかのせいだぞ」
「えぇ? 勝手に驚いたのは、沙希じゃないの」
いたずらが好きだと言いたげな顔をしながら、はるかは俺の半歩先を歩いていた。
「そうだったかもな」
「相変わらずつれないねえ。今から食堂に行くんだけど、沙希はどうする?」
「……ついてくよ」
お腹が空いているわけではなかったが、今を逃すと夜まで食事をする機会がなさそうだったので、仕方なく付き合うことにした。
当然ながら定食の味を感じることができず、ものがひたすら胃に入っていくのを感じる時間を過ごした。風邪のときにおかゆを無理やり食べるような感覚に近い、といえば分かりやすいだろう。
一日が終わり、俺はあかねと一緒に寮に帰っていた。あかねはいつも通り本を読み、俺は脱力していた。長く一緒の部屋で生活していると、常に話しているわけでもなく、話題が生まれない限りこうして各々の時間を過ごすことが多かった。程よい距離感が大事なのだ。
「お前さ」
「どうした?」
何かをする気力もなく座布団の上で寝転がっていた俺に、あかねがなんの唐突もなく話しかけてきた。そういうときは、あまり俺が聞きたくない話だと相場が決まっている。いつだって、あかねは"タイミングがいい"のだ。
「最近、例のはるかさんとなんかあった?」
「……いや、なにもないよ」
本当に、何も。やましいことなんてしていないし、変な感情を持ったこともきっとない。そのはずだ。けれど、なぜだろう。今こうしてあかねからはるかの話題を出されたときに、ドキッとしてしまった。心のどこかで、俺はきっと罪悪感のようなものを抱えているに違いない。
「待て。今の微妙な間はなんだ」
心で繋がったあかねから、体で繋がってしまったはるかのことを聞かれて、俺は少し戸惑っているのだと思う。それとも、元から俺とあかねの間には心の繋がりなんてものは存在していないのだろうか。
気持ち悪い想像ばかりをして、俺はどうかしてしまったんだ。
「言ってみろよ。明らかに距離が近くなってただろ」
「そんなことない。前からあんな感じだったよ」
所詮は他人。いくら仲が良かったとしても、お互いのことを理解しようとしても、言葉を交わさなければ本当の気持ちなんてものは分からない。
「そうか。それなら、なんであんな時間に
「えっ」
なぜそのことを知っているのかと聞きたかったが、質問の意図を理解できていなかった。
「もっと言うなら、はるかさんと一緒にいただろ?」
その場から、消え去りたかった。なぜよりにもよって、バレる相手が今村たちではなくあかねなんだ。そもそも、なんであの時間にあかねが但沼にいる。しかし、今はそれを聞いてもいいときではない。まずは、あかねの質問に答えなければ納得しないだろう。
「いたね。ちょっと、成り行きでああなった」
浮気がバレたときのような、苦い感情が渦巻いていた。浮気なんてしたことはないけれど、きっとそれがバレたときはこんな感じなのだろう。俺とあかねがそういう関係ではないことは明らかだ。それにも関わらず、あかねのことを考えるたびに勝手な想像を膨らませてしまう俺は、きっと馬鹿に違いない。
「……そうか」
「お前がどういう解釈をしているのかは知らないが、俺とはるかの間にはなにもないぞ」
「そう言われてもなあ」
納得できないと言いたげな表情をしながら、あかねは腕を組み始めた。考え事をするときのあかねの癖だ。
「というか、あかねはなんであんなところにいたの?」
「散歩というか、ランニングしてたんだよ。体が鈍っちゃってさ」
嘘をついているようには見えなかった。きっと、本当に偶然が重なった結果、あの現場を見られてしまったのだ。少なくとも、どちらも悪くない。
「にしてもさ、いつの間にそういう関係になってたんだ?」
「だからさ、そういうんじゃないんだって」
まるで弟の成長を見守る兄のような目線を送られて、正直なところ精神的に参っていた。あかねはあくまでも、当事者にはならない立場にいると知っているからだ。そういうことは絶対に起こり得ない。俺の気持ちを分かっていながら、こんなことを言ってくるのならば、俺はあかねのことを心底嫌うだろう。そしてそれでも、好きだという感情を捨てきれずにいるのだろう。
俺は、俺自身を振り回していた。
「大事にしなよ。はるかさんのこと」
もうこれで話は終わりにしたかったのか、あかねはベッドの上に戻っていった。言い訳すらできず、消化不良に陥っていた。
どうすれば、誤解が解けるのだろう。いや、そもそも誤解を解く必要があるのか。それを解いたところで、なにかが変わるわけでもなく、平凡な日常が続いていくだけなのだ。
なぜなら、俺とあかねの間には、絶対に越えられない壁があるのだから。それが存在し続ける限り、俺はあかねのことを好きでいつづけるのだ。近いからこそ遠い距離に、俺は虚しさを感じていた。
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