第38話 パンドラの箱

「お久しぶりです、芹澤先生」

 母校である桜ヶ丘高校に帰ってきたのは、いったいいつ以来のことだろうか。

 これっぽっちも変わっていなかった校舎とは裏腹に、芹澤先生のお腹は大きくなっていた。

「本当に久しぶりね。つい最近のような気もするけれど」

 ふふっと笑っている姿は、生徒として通っていたころとは違う柔らかな微笑みだった。

「保健室に早坂先生いるから、行ってきな?」

 相変わらずの軽めな口調に落ち着きを感じつつも、俺は保健室へと向かった。


 ドアを3回ノックしてみると、中から「はーい」という伸びた声が聞こえてきた。

「失礼します」

 中に入ると、見覚えのある女の人が腕を左右に揺らしながら、だらしない声を漏らしていた。

「中津、久しぶりだね」

 道中に乗っていた電車の中で考えていたのは、例のニュースのことばかりだった。七海に会えるとか、羽衣のお墓参りに行かないといけないとか、そんなことを頭の中で考えることができるようになったのは、もっとずっと後のことだった。

 そして、あかねのもとから一時的とはいえ離れられるということも。

「大学生活は、上手くやってるの?」

「そう聞かれると、微妙なところですね」

 ……色んな意味で。

 きっと、先生は軽い気持ちで聞いてきたのかもしれない。けれど、俺にとっては深刻な問題なのだ。クリスマスの件以降、俺にできるのは、いかにして冷静を装ってあかねと接するかということだった。

 あかねはきっと、あれをなかったことにしたいと思っているはずだ。そうでなければ、昨日までずっと話題にもあがらないなんてことはない。考えすぎだろうか。

「まあ、そんなもんよね。あたしも大学のときは色々やらかしてたからね……」

 このままでは、ペースを早坂先生に持っていかれる。そう悟った俺は、すぐに話題の修正に取り掛かった。

「先生の大学時代の話は、また今度、時間のあるときに聞きますから。そろそろ本題に入りましょうよ」

 そう伝えると、少し残念そうな顔をしながらも、クリップで留めている資料を机の上に広げて俺に見せてくれた。そこには『性の転化現象と実例』というタイトルが載っていた。


 中身は専門用語が飛び交っていて、あまりの難解さと俺自身の読解力のなさに呆れてしまい、途中で読むことを諦めてしまった。だが、そうなることを予想していたのか、早坂先生はその内容を要約して教えてくれた。

 まず、転化という言葉そのものの意味であるが、『別の状態・物に変化すること』ということらしい。そのままではあるが、性の転化現象というのは『元の性別の状態から異なる性別の状態に変化すること』という定義付けなのだ。あくまでもこの論文の中での話だが。読み方が面倒なので、早坂先生はこれを性転化現象と呼ぶことに決めたと言っていた。俺もそれにならうことにする。

 さらに、実例とある。つまり、この論文の中をしっかり読み解けば、実際に性転化現象が起きた人の話が見れてしまうということなのか。読む力のないことを、こんなに後悔するときがくるとは……。


「もし難しければ、実例だけ読んでもいいよ。そこの部分は、比較的簡単に書かれてあるから」

 そう言われて、俺は気分を入れ替えて再度読み進めてみることにした。


『以下の実例集は機密事項および個人情報保護の為、取り扱いには最大限の注意を払うこと』

 冒頭の文章から、これがとんでもない資料であることが分かった。固唾を呑んで、先を読み進めていく。そんな俺の様子に気づいたのか、先生が「読み進めて大丈夫よ。そのためにこんなところまで呼んだのよ」と言ってくれた。

『対象者名:上村あずさ 元の性別:男』

 あまりにも生々しい内容が続くため、休憩を挟みながらゆっくりとページを進めた。

『すでに生活上での性別移行を終えており、この小節ではそのことに対して言及は避ける』

 先生によると、性別移行というのは、生まれもった性別とは異なる性別で一定期間を過ごすことを指す言葉らしい。また、それが上手くいけば、性別移行を終えたことになるとのこと。

『対象者は11歳頃から、元の性別とは明らかに異なる身体的特徴が現れ始める。それ以前より本人の意向で、女の子としての生活を送っていた為、日常生活では影響出ず』

 堅苦しく書かれてあるが、これはつまり元の性別を周囲の人は知らなかったということなのだろうか。

『現在では、いわゆる戸籍特例修正法により、対象者は戸籍上も女性であり、観察対象者からは除外されている』


「これ、俺が読んで本当に大丈夫な代物なんですか…?」

「大丈夫よ。きちんと学会には話を通してあるから」

 そういう問題じゃないんだけどな……と思いつつも、俺はページを数枚進めた。

 どこか、他人事だった。なぜなら、文章でしかなかったからだ。

 目の前に人がいて、その人が話しているわけでもなく、ただ文字がつらつらと書かれているだけ。そんなものに、感情が宿ることはなかった。

 その文字が目に入るまでは……。


『対象者:藤村羽衣 元の性別:女』


「え…?」

 そのときの自分の顔が、いったいどうなっていたのか。どれほど異常な様子だったのか。それは、目の前でじっと見ていた早坂先生が、異常さを感じて背中をさすりに来るほどのことだった。

「中津? ねえ、中津くん、大丈夫?」

「あ、ああ。はい。大丈夫だと思いますけど」

 自分のことなど、どうでもよかった。なぜだろう、そう思えた。

 どんな形であれ、またこうして羽衣の生きていた痕跡に触れられるのなら。まだそうと決まったわけではないけれど、その可能性がわずかながらあるのなら。


『対象者は14歳頃から、身体的性徴に違和感を覚える。第二次性徴期であるにもかかわらず、月経が止まるなどの明らかな異常を訴える。その為、要検査対象者となる。検査初期の段階は、染色体異常による症状かと思われたが、染色体は女性型を示しており、異常みられず。原因の究明が必要であると考え可能な限りのことは行ったが、判明せず』

 そういえば、急に羽衣がよそよそしくなったのも、おそらくこのあたりだったはずだ。

『本人の意向と親権者の希望により、対象者には定期的に抗男性ホルモン剤の投与および女性ホルモン剤の投与を開始。ホルモンバランスの乱れによる精神的な影響が出た為、対象者への精神安定剤の投薬を開始』

 お腹がいっぱいだった。いくらなんでも情報量が多すぎやしないか。

 文字を読み進めていくごとに、羽衣の体の変化が進んでいることがよく理解できた。なぜ、羽衣はこれを俺に隠していたのだろう。

 読んでいるのも苦しく、飛ばそうとして何枚かめくったところに、これが羽衣であることを決定的にする文言があった。

『ただしそれ以降の経過観察は、対象者が事故死した為、実質的に不可となる。その際に親権者の同意を得ている為、この資料を今後の研究に活かす目的で使用する』


「なんだよ…これ…」

 俺の知らない羽衣が、そこにはいた。

 なあ、羽衣。俺がこれを読んで、本当に良かったのか?

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