第44話 無口な夜

 シャワーの音が、部屋中に響いていた。先ほどまで見ていたテレビの音が雑音に感じてしまい、電源を切ってしまった。微妙な空気感に耐え切れず、部屋の明かりも消してしまった。

「なんでこんなところにいるんだ……」

 話の流れというのもあるが、それにしても女の子にリードされるのはあまり良い気分ではなかった。だってそうだろう。流されるまま、言われるがままになっている俺は、まるで操り人形のようであった。決してそれが悪いわけではないが、少しだけ情けなく感じていた。

 シャワーの音が消えて、ドアが開く音がした。きっと、終わったのだろう。布が擦れる音がしていた。


 あの日のことを、嫌でも思い出す。あかねがバスタオルを巻いて、あられもない姿を晒しているところが、なぜか頭の中に浮かび上がってしまうのだ。近くにいる相手ではなく、あかねの裸体を想像してしまう自分に対して、どうしようもない苛立ちを感じていた。

 本来であれば、ここで想像する相手はシャワーを浴びている本人であるべきなのだ。それにもかかわらず、俺は別の相手を思い描いていた。不可抗力というよりも、ただ単にはるかのことをそういう目で見れないということを意味しているのだろうか。


 スリッパの音が近づいてきていた。

「大丈夫?」

 声をかけられて見上げてみると、そこにはあの日のあかねと同じようにバスタオル一枚だけを巻いている、はるかがいた。その姿を見てからでも、それにあかねの姿を重ねてしまっている自分がいた。

「うん、まあ。ちょっと嫌なこと思い出してただけ」

「そっか」

 はるかの目は、優しかった。責めることも、否定もしない。けれども、肯定もしない。彼女は決して、俺の中に入ってこようとはしてこなかった。


「はあ……」

 どうやって説明しようかと、俺は悩んでいた。服をすべて脱いでしまうと、そこにいるのはパッと見るとただの女体なのだ。これで自分のことを男だと言い張っているのが馬鹿らしくなってしまうほどに、女体化は進行していた。隠すように生きているからこそ、自分でもこうしてまじまじと見るのはかなり久々だと思う。意図的に考えないようにしていたからこそ、肝心なときに悩む時間を無駄にしてしまう。俺の悪い癖だった。

 悩んでも仕方のない問題ではあるが、悩むことでしか自らの精神を保つことができそうになかった。そのくらいに、俺は弱い。

 普段は、無理にナベシャツと呼ばれるもので胸を押し付けているため、乳房の形はいびつになっている。女であることを避けるために、俺は女の体に近くなっている自分の体を押さえつけなければならないのだ。しかしそれは明らかに、男の体だと言い張るには不自然なものだった。

「やってられんな」

 きっとこのあと、はるかは俺のことを見て異変に気づくだろう。そして、きっと彼女は優しいので話を聞いてくれるだろう。想像が容易いからこそ、どう接すればいいのかが分からなかった。

 水と一緒に、悩みや考え事を洗い流せればいいなと思っていた。


「おかえり」

 バスルームから出ると、ラブホテル特有のとんでもなく広いベッドの上で、はるかは寝転がってこちらを向いていた。そして先ほどと同じように、バスタオルに身を包んだままだった。

「うん」

「どうしたの。元気ないね」

 部屋の中は暗いままだったので、はるかの表情はよく見えなかった。俺から見えていないということは、きっとはるかから見てもよく見えないはず。

 俺はバスルームの明かりをあえてつけたまま、ベッドのほうへと足を進めていった。そして、はるかのすぐ後ろで寝転んだ。


 それからしばらくのあいだは、無言の時間が続いた。どちらも話を切り出そうともせず、顔を見合わせることもなく、ただ無の空間を漂っているだけだった。それを終わらせたのは、はるかだった。

「ねえ」

「ん?」

「そろそろ、バスタオル脱いでもいい?」

「いいかよくないかで言ったら、やめてほしいかな」

「なんでよ」

「だって、そうしたら俺も脱がないといけなくなるだろう」

 これではもう、俺の負けが確定してしまう。心の準備がどうのというよりも、このままこの謎な時間が終わってほしいと思っていた。そんなことあるはずがないのだけれど。

「え? 自分が脱ぎたくないの」

「そう」

 場の雰囲気が一変してしまった。俺がおかしくしてしまっただけなのだが、この状況をどうすれば改善できるのかは分からない。考えている余裕なんてものは、残念ながら持ち合わせていなかった。

「普通、逆じゃない?」

 普通とは、なんぞや。幼い頃からずっと考えていることではあるが、きっとそれに答えなんてものは存在しない。全く同じ価値観を持っている人がいるとは思えないし、同時にもしそんな人がいるなら怖いとも思っていた。それぞれの『普通』が存在するからこそ、今こうして微妙な雰囲気が生まれているのだ。

 俺が黙っていると、はるかは観念したように言葉を続けた。

「そんなに頑なに嫌がるってことは、なにか特別な事情があるのね」

「……特別というほどでもないけど、言いづらいことだね」

「もしかして、誘わないほうがよかった?」

 ここまできてそんなことを言うなと思ったが、そう思うのも仕方ないだろう。目の前の相手が、こんなにも拒絶している現状を見れば、誰だってそう考えてしまうに違いなかった。

「話が……あるんだ」

 告白。そう、これは告白なのだ。俺がなぜ、こんなに遠回りの人生を送っているのか、そして目の前にいるはるかを困らせているのか。その2つの疑問は、すべてこの事実に紐づいているのである。

「わたしはいいんだけど、沙希は終電大丈夫?」

 そう言われて、俺はあることを思い出した。数日前にあすかと約束した。もし帰りが遅くなるときは連絡を入れることを忘れない、という約束だ。ほんの少し前に決めたことを忘れかけていた俺は、本当にどうしようもない人間だな。思い出せてよかった。心から、そう思えた。

「大丈夫なんだけど、ちょっと電話してもいい?」

 はるかは、静かにうなずいた。


 ラブホテルから学生寮に電話をするやつなんて、いるのだろうか。そう思いながら、俺は電話をかけた。

「あ、もしもし。中津です」

「はいはい。どうしたの、こんな時間に。もしかして……」

「あの、稲穂に代わってもらえますか」

 電話に出たのは、寮長だった。滅多に会うことはないが、電話をかけると寮長のところに繋がるので、強制的に話す羽目になるのだ。

「教えてくれてもいいじゃない。分かったわ、ちょっと待ってて」

 受話器を置く音が聞こえ、足音が離れていった。しばらく待っていると、再び足音が近づいてきた。

『お待たせ。こんな時間になに?』

「あすか」

 なぜかここで、喉が少し焼けるような感覚に襲われたような気がした。言葉が喉で詰まっているようだった。

『おう。どうした?』

「……今日は帰れなくなった。明日の朝、帰るわ」

『そうか、分かった』

「うん、それだけ。じゃあね」

 こんなこと、あっていいのか。俺は自分自身にそう問いかけた。あまりに呆気なく、電話は終わった。


 受話器を元に戻すと、はるかがすぐ隣に座っていた。

「終わった?」

「うん。ありがとう」

「よし。それじゃあ、その『話』とやらを聞こうじゃないか」

 覚悟を決めたというよりも、諦めに近い感覚をもっていた。お互いにバスタオルを巻いているだけの姿で、こんなに近い距離にいるのだ。話してしまったほうが、お互いのためになるだろう。たとえこれが、俺の独りよがりだとしても。

「ずっと話すか迷ってたんだけど、もう隠せそうにないから言うね」

 心臓がいつもより激しく動いていた。手を当てなくても分かるくらいに、激しく。

「実は俺……体が女みたいになってるんだ」

 どう伝えれば、一番伝わりやすいのか。考えた結果、出てきた言葉がこれだった。なんというか、上手く伝わっていないだろうなと思った。分かってはいるけれど、ほかの伝え方を思いつかなかったのだ。自身の語彙のなさに悲しくなる。

 そのときのはるかが何を考えているのか分からなかったが、黙って俺の話を聞いてくれていた。

「初めのうちは、少し違和感があるくらいだった。でもだんだん、酷くなっていったんだ。検査してみると、これは女体化現象なのではないかと言われた。わけが分からなかった。こうして話していても、いまだに信じられない。けれど、俺は実際にこうなってしまったんだ」

 そこまで言ったあと、俺はゆっくりとバスタオルを体からがした。そうしてはるかの目に映ってしまったのは、押さえつけられているせいで赤くなり形が歪んでいる乳房と、丸みを帯び始めている腰だった。いつかはバレるだろうから、積極的に隠しているつもりではなかった。しかし、先ほどシャワーを浴びているときに見た自分の裸体を見て、吐き気を催してしまった。

 気持ち悪いと思ってしまったのである。

 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。これが自分の体なのか。

 自分が、自分でなくなった瞬間であり、観測してしまった瞬間だった。気づいていないふりをしていたからこそ、隠すことに耐えることができていた。だがこれで完全に、それを抑えるための堤防が決壊してしまったのである。決壊したあとは、もうとめどなく流れる水が溢れ出てくるだけだった。

「笑ってくれ。そうでないと俺、どうしたらいいか分からない」

 そこで口を止めると、はるかがバスタオルを脱ぎはじめた。なにをしているんだと思ってしまったが、その理由はすぐに分かった。

「はい、これで同じね」

 性格と口調に似合わず、体はとても女の子らしかった。暗順応した目が、しっかりとはるかの裸体を認識していた。

「いったいなにを……」

 考えるよりも先に、はるかは俺に体を密着し始めた。肌はとてもなめらかで、擦れあうたびに気持ちがよかった。ああ、そうか。はるかは女の子なんだ。

 そこから時間の感覚をなくしてしまうほど、何度も体を擦りあわせた。ただ、それ以上のことはなにもなかった。音もなく、光もなく。そこにあるのは、相手の体温だけだった。互いの汗が、互いの肌に触れていた。ただそれだけのことなのだけれど、とても心地良いと感じることができた。


「もしかして、沙希ってこういうことするの初めて?」

 布団を肩のあたりまで被っているはるかが、こちらのほうを向いていた。彼女の表情は慈愛に満ちていた。

「まあ、初めてだね」

「そっか」

 深入りはしてこなかった。はるかはあくまでも、今の俺の体を受け入れるのみに徹していた。それがそのときの俺にとっては、とても心地がよかった。ただ、まったく触れようとしてこないわけではなく、こちらの表情をうかがいながら質問をいくつかしていた。

「沙希ってさ」

「うん?」

「わたしのこと、実は男だとか思ってたりした?」

 頭の中を読まれていたので、俺は思わず笑ってしまった。かなり失礼になるとは思うが、間違いなくそうだと思っていた。それほどに、彼女は男らしいのである。

「すまん。悪気はないから、許して」

「仕方ないなあ」

 となりの女の子は、ニコニコと笑っている。俺はこのとき、笑えていただろうか。きっとそのときの俺は、とても困っている表情をしていただろう。

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