第46話 それぞれの帰省

 公園でおでんを食べたあとは、特に目立った話をすることはなかった。食べ終わったあとで、これはペットボトル事件よりも濃い時間を過ごしてしまったのではないかと思ったが、そんなことを気にしているのはやはり俺だけのようで。

 寮に戻ったあと、機械的にシャワーを浴びてから寝た。それはつまらないというよりも、気まずい雰囲気にならないためにした行動の結果だった。


 翌朝になり、年が一つ進んだ。最初に顔を合わせたのは当然ながらあかねだったので、早々に年始の挨拶を済ませた。これも同じく、機械的なものだった。毎日のように一緒にいれば、これが当たり前になってしまうのだ。

 そんな元日に俺はふと、あることを思っていた。それは、実家に帰るかどうかということである。つまり、それについて悩んでいた。

 悩んでいる理由はいくつかあった。一つ目に、去年は帰っていないということだ。帰ってこないのかと七海から電話がきたが、とうとう俺は帰らなかった。お盆期間にも帰っていないので、丸一年近く七海とは会えていない。ゆえに、元日になってから今更帰りますというのもどうかということだ。そして二つ目、あかねはきっと帰らないということだ。あかねの口からめったに出てこない家族の話だが、その原因がなにかということを俺は知らない。だが、これははっきりしていた。それは、あかねは帰りづらい状況にあるということだった。そのため、俺が実家に帰るとあかねがここで一人になる。それ自体に問題があるというよりも、置いていけないというのが理由だった。ただの友達なのだから、勝手にすればいいというのは分かっているのだが、どうしても帰りづらい。


「なあ、あかね。俺、やっぱり帰ることにした」

「……そっか。分かった」

 悩んだ挙句、帰ることにした俺は家に電話をしようと寮長室へと向かった。部屋から出ると、昨日と変わらず寮内は静まっていた。強いていうなら、寮長室からだと思われるテレビの音が聞こえるくらいである。

 寮長室の前に着き、ドアを軽くノックした。

「すみません。寮長いらっしゃいますか」

「はーい」

 ドアの向こう側から、いつもと変わらない伸び切った声が聞こえてきた。

「失礼します。あの、電話借りたいです」

「どうぞ」

 これは仕方のないことではあるが、ここから電話をすると会話の内容が寮長に筒抜け状態だ。まあ、恥ずかしがるようなことや秘密にしたい内容ではないので、特に問題がないといえばないのだけれど。そもそも、そんなことを気にするような人がプライベート筒抜け学生寮に住むことなどできないだろう。

 かけ慣れた電話番号を入れて、受話器を耳に当てた。

「もしもし、中津です」

『もしもし、えっと。その声は、お兄ちゃん?』

 七海の声を聞いたとき、俺はかなり懐かしい気持ちに浸っていた。ほっとしたというよりも、ある意味で年に数回会う親戚のような感覚に近かった。以前は毎日顔を合わせていたのが日常だったけれど、今ではそれが普通ではなくなった。

 離れて数日は違和感があったものの、すっかり慣れてしまっていた。慣れというのは、本当に恐ろしいものだ。

「うん。今日は、どこか行く予定ある?」

『ううん。今のところ、特に予定はないよ。ああでも、羽衣お姉ちゃんのところに行こうかなとは思ってた』

 羽衣お姉ちゃん。七海の本当の姉であり、俺にとっての大切な人だ。七海と会うということは、そのことについての再認識をさせられるということでもある。決して、それが嫌だとかそういう意味ではない。ただ、それを言い訳にして会わなかった去年の俺自身を否定したいのだ。

「そうなんだ」

『そう』

「……俺もついて行っていいかな」

 七海にとっての実姉に会いに行くことに対して、あえて許可を取ろうとするのは、きっとどこかで怖いという気持ちがあるからだ。一緒に会いに行ったほうが、きっと羽衣も嬉しいだろう。それを理由にしなければ、俺はきっと七海と羽衣に会いに行く口実を作ることができない。

『いいよ。今日こっちに来るの?』

「そのつもり。急でごめんな」

 あまりにも呆気なく許可を得ることができたので、なんだそんな程度のことだったのかと気づかされた。というか、七海からすると俺が羽衣に会いに行くのはあまり抵抗がないのだろうか。それとも、そう思っていないふりをされているだけなのか。どちらにせよ、しっかり妹と向き合う良い機会だ。

『大丈夫だよ。はるかさんにも伝えておくね』

「分かった。じゃあ、また電車乗るときに電話入れる」

『はーい。じゃあね』

 受話器を戻すと、寮長が生暖かい目でこちらを見ていた。鳥肌が立ち始めたので、そろそろやめていただけないだろうか。この人はやはり、少し変だ。異質な存在である俺がいうのもなんだが、これとは別な方向で変なのだ。

「電話、ありがとうございました」

「うむ。今のは、もしかして彼女さん?」

「違います、からかわないでください。ただの妹です」

 そう伝えると、寮長は目を細めてこちらを見始めた。疑っているのは察しがついていたが、そこまで態度に示さなくてもいいじゃないかと思った。この人の頭の中には、隠すという考え方は存在しないのだろう。それゆえに信頼できる存在なのだけれど。

「へえ」

 これ以上会話を続けていると変な誤解を生みそうだったので、軽くお辞儀をして自室へと戻った。

 戻ると、あかねが窓の外を眺めていた。その横顔を見て綺麗だと思ってしまったが、今はそんなことを考えている場合ではない。我に返った俺は、あかねにある問いかけをしてみることにした。

「あかねは、帰らないのか?」

 その質問をしたあとで、俺は時を戻したくなった。しまったと、そう心が叫んでいたのである。だが、口から出た言葉は取り消しできない。忘れてくれと言っても、どうしようもない空気に飲み込まれるだけである。

 逃げることを諦めて、言葉に詰まっているあかねの表情をじっと見守ることにした。これ以上言葉を重ねたとしても、また失言をしてしまうだけだ。

「そのつもりだったんだけど……」

 あかねは頭を掻きながら、ボソボソと独り言を漏らしていた。

「やっぱ、俺も帰る。これを逃したらもう帰れない気がするわ」

 予想外の返事に驚いたが、どうやらあかねは覚悟を決めたようだった。


 そのあと、30分ほどかけて帰省する準備をし、荷物を持ってひとまず萩の上駅へと向かうことになった。

 とりあえず電車で東京駅まで一緒に移動して、そこで別々に行動することにした。ちょっとしたお出かけ気分を味わうことができたが、あまり居心地のいいものではなかった。そう思ってしまうほどに、あかねの表情はいいものではなかった。おそらく、少し無理をしているのだと思う。

 このまま離れて大丈夫かと心配していたが、それは俺がしても仕方のない悩みだった。もしここで俺があかねの帰省を止めたとしても『なにいってんだお前』と言われて終わりだ。


 考えているうちにタイムリミットがきたため、俺たちは乗っていた電車を降りた。

「それじゃあ、ここで」

「うん。あ、そうだ。ちょっと待って」

 相手の行動を変えることなんて、そんなに容易いものではない。脅したりしない限り、相手にある決定権を奪うことなんてできない。そのことは十分すぎるほどに理解していた。しかし、行動を変えやすくするための行動はできるはずだ。

 このことに気づけた俺を褒めたい。そう思いながら、俺はかばんの中に入れていたメモ用紙とボールペンを取り出してある数字を書き殴った。

「これ、一応俺の実家の番号だから」

 メモ用紙を引きちぎって渡すと、あかねはきょとんとした顔でこちらを見た。

「あ、ありがとう…?」

 あかねが別のホームへ行くのを見届けて、俺は七海に電話するために公衆電話を探した。


 電車に揺られて数時間。俺は此花駅このはなえきに降り立った。ここに来て思ったのは、やはり冬は寒いということだった。

 七海との約束通りに改札口に向かうと、その先に赤いニット帽を被った少女がいた。目立ちやすい格好をするとは言っていたが、さすが七海である。

「あ、お兄ちゃん! こっち!」

「お待たせ。わざわざありがとうな」

 とても嬉しそうな笑顔をしていたので、こっちまでなんだか嬉しい気持ちになっていた。こんなに喜んでくれるとは、思っていなかったのだ。きちんと会うのは一年振りだったので、それが起因しているのだろうか。

「予定通りに電車動いて、よかったね」

 実はそのとき、北陸地方には大雪警報が発表されていた。天候に左右されやすい路線だったので、此花まで来れるかどうかさえ怪しかったのだ。こうして無事に辿り着いただけでも、ほっとしていた。

「本当にな」

 此花では雪は降っていなかったが、途中までは雪がかなり積もっているところもあった。正直なところ、着くかどうかも不安だった。

「羽衣お姉ちゃんのところ、行く?」

「そうだな。このまま行こうか」

 そこへ行くには、バスを使うしかない。徒歩で行けないわけではないが、距離があるのであまり現実的な選択肢とはいえなかった。

 さっそく、此花駅の西口にあるバスターミナルへ向かい、バスが来るのを待った。寒かったが、七海が持ってきていたカイロを交代で使って温まっていた。ただ、途中からは俺の右手にカイロを持たせ、七海がそこに自身の左手を重ねていた。特に俺自身はなにも思わなかったが、七海はこういったことに抵抗を感じないのか。まあ、姉妹という関係でそんなことを考えてしまう俺のほうが、きっとどうかしているだけなのだ。

 10分ほど待っていると、バスはやってきた。


 バスに揺られながら、俺は久しぶりに見る此花市内の景色をなんとなしに見ていた。すると、七海がこんなことを言い始めた。

「お兄ちゃん、雰囲気だいぶ変わったね」

「そうか?」

「うん。なんだかね、素に戻ったって感じがするよ」

「無理に女子高生する必要がなくなったからな」

 人を人として形成しているのは、あくまでも環境である。いつかの哲学の講義でそんな言葉を聞いた覚えがあった。

 わけが分からないまま女子高生をしていたときよりも、今のほうが楽に決まっている。ただ、そのぶん悩みが増えてしまっているのも確かだ。それは主にあかねやはるかとの関係について、なのだが。

「今のほうが、お兄ちゃんは生活しやすい?」

「かもしれないし、そうじゃないかもしれない」

「なあに、それ」

 世の中には、答えのないことのほうがたぶん多いんだよ。

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