第11話 手荒い歓迎
薄暗くなった、夕方の桜ヶ丘高校。生徒はほとんど帰り、校舎の中は誰かが廊下を歩くと靴音が響くくらいに静かだった。部活動で残っているのは、今の時間だと吹奏楽部くらいだろう。
電灯が元々少ないため、学校の周りは真っ暗になる。目立っているのは、車の明かりくらいだ。それ以外には特になく、ひたすらに暗い。
女体化の進行に伴う負担軽減のために、自宅待機となった日。学校との接点が、七海から渡される課題のみとなった日。
俺は不安な気持ちになっていた。もうごまかすことができないという不安である。次に学校に行くことになるのは、あくまでも女子高生としてだ。その時点で普通の存在ではなくなる。そしてそれは同時に、今までの俺を否定することになるということを意味していた。
中津秋路は消え、中津沙希が突如として生まれ、何事もなかったかのように生活しなければいけない。高校生活を乗り切れたとしても、これから先の人生を俺は『中津沙希』として生きなければいけない。
それがどれくらい大変なことなのかを、俺はまだ理解できていない。しかし、想像できるのはそういう未来である。男がどうとか女がどうとか、そういう次元の話ではなかった。『中津秋路』が『中津沙希』に置き換わってしまった。そういう話なのである。
自分がいくら認めたとしても、周囲から認められなければ意味がなかった。それを否定されてしまうと、社会的に生きていけなくなるのは明白だった。自分を形作っているのは、自分自身ではなく他人との関わりからくるものだ。認められなければ、自分が崩れてしまう。
当然のことだが、認めない人はいる。認めないけれど、関わらない人。そして認めないという意思をぶつける人。大きく、この二種類に分けることができる。前者がいることは当たり前だし、受け入れるべきだ。しかし、後者の存在を俺は受け入れようとは思えなかった。これを受け入れるということは、自分の存在を否定することだからだ。
だがそれが現実になってしまったのは、通常登校を始めてからすぐだった。七海は『大丈夫だよ』と言ってくれていたけれど、現実はそんなに甘くはなかった。軽く引っかかっていた魚の骨が、もっと突き刺さってしまったような。そんな感覚だった。
「お前、どういう気持ちで学校来てるんだ?」
威圧的な態度をとって、目の前の女子が俺のことを見下していた。こんなシチュエーションは、漫画などでしか見たことがなかった。そのため、実際に体験するとこんなにも怖いものだということを知った。そして逃さないと言わんばかりに、四方を取り囲むように人が立っていた。
明確な意思を持って、彼女らは俺の存在を否定していた。
それまで薄く関わりを持っていた数人が、俺に明確な悪意を持って接するようになっていたのだ。それはあまりにも黒く、濁っていた。自分自身、かなり特殊な状態であることは重々分かっていた。だからこそ、関わってほしくなかった。
想像していた以上の苦しさがそこにはあった。
「どうして……」
裏切られたと言えば、そうなのかもしれない。いや、相手が男なら、そう思えたのだろう。信じてもいなかったけれど、積極的介入はしてこないだろうと思っていた相手だった。俺は今『女』を演じている。それはつまり、相手は元は純粋な男だということを知っている。
こんなふうに手荒な歓迎を受けるとは、考えたくもなかった。けれど、それは間違いなく現実に起きているものだった。だって、こんなにも心が痛い。
「それはこっちのセリフだよ、中津さん」
ただのクラスメイトという認識だった、目の前の女子高生。名前は、東條みなみ。リーダー気質があり、いつも東條さんの周りには付き人がいる。付き人というのは、同学年の女の子だ。
ある日、その人が中心となり、俺に対して嫌がらせなどを始めた。その日まで一切関わりがなく、話したことすらなかった。そんな相手からの行動とは、とても思えなかった。
「しばらくいなくなってたと思ったら、今度は女として帰ってくるなんてね」
あまりにも低音が効いた声に、恐怖しか感じなかった。一体なにが、ここまで彼女を動かしているのだろう。
自分の気付かないうちに、なにか癪に障るようなことをしてしまったのだろうか。ただ、原因が分からないのにむやみやたらに謝ることは、かえって相手の怒りを増幅させてしまう恐れがある。そして、そんなふうにごまかしてしまうようなことはしたくない。だけれど、今の自分の置かれている状況が、あまりにもどうしようもなかった。根本にあるのが、俺の女体化であることは確かだった。
「それは……」
言葉が出なかった。というよりも、彼女が何を考えているのかが全く見えなかった。そんな状態で余計なことを言ってしまうよりは、黙っていたほうがずっと安全だ。
原因が分からない。そして、何を求めているのかも分からない。意見を述べることさえも、許されない状況に追い込まれていた。
いじめが起きる原因は、いじめられる側にあるという言葉がある。多かれ少なかれ、俺も当事者になるまではそう思っていた。しかし、それはきっと経験したことのない人の言っていたことなのだろう。こうして現実になってみると、話はまるで違っていたからだ。
こんなにもつらく、あまりにも理不尽で。逃げ道は、当然ながら用意されていない。言葉を選ぶことさえも、許されていなかった。
終わりの見えないトンネルを、懐中電灯を持たずに歩いているような感覚。助けを求める気力すらなく、ひたすらに目を背けるのみであった。ただし、背を向いてもそこにいるのは俺自身だった。自分とはいったいなんなのか。それが分からない。
東條さんからの過剰な干渉はしばらく続いた。七海と紗那、由果が最後まで一緒に居てくれた。心当たりはないものの、なにかを彼女らにしてしまったのだとずっと自分を責めていた。俺がいなければ、三人に嫌な思いをさせずに済んだはずなのだ。だが、そんな俺を紗那は放っておいてはくれなかった。
「いい加減にしなよ、あんたたち」
教室の中に入ってきた紗那は、いつものように囲まれている俺を見るなり、即座に行動した。あまりにも早い動きに、頭がまだ追い付いていない。
東條さんたちは、突然の介入に対してあまり驚いていなかった。いつか来る相手だと思っていたのだろうか。だとすれば、余計に腹が立つ。
「なに、上宮さん。あなたには関係のないことよ」
俺のことなんかで争うのはやめろと言いたいところだったが、意図しない捉え方をされると困るのでやめておいた。そもそも、なぜ東條さんは俺にこだわっているんだ。それが分からない。
男が女として生きる。そこにどんなに矛盾があったとしても、俺はそうすることでしか生きていけなくなったのだ。もしそれが原因なら、そう言ってくれれば対話するきっかけにはなるのに。なぜ一方的な攻撃しかしてこないのだろう。
「だいたい、黙り込んでる中津さんが悪いのよ」
感情をむき出しにして話す東條さんを見るのは、これが初めてだった。今までの威圧的な態度は、雰囲気だけだった。俺のことを追い詰めるために、演技をしていたのだろう。それに比べると、今の彼女は口調や息づかいが荒い。
「話せないような雰囲気を作ってる、あんたたちが悪いんじゃないの?」
今まで黙っていた分を取り返すかのような勢いで、紗那は反論を始めた。
「なによ、それ。まるであたしが全部悪いみたいな言い方は」
その言い方に、少し疑問を感じた。それだと、ほんの少しくらいは自分が悪いと認めることになってしまうのではないか。いや、そういう風に聞こえただけだろうか。
「そうじゃないの? 沙希は何かを言い返すことすら出来ていないじゃない」
こんなに感情的になっている紗那を見るのは、もしかすると初めてかもしれない。普段は言葉遣いが多少荒くなることはあれど、ここまでの迫力はない。そしてなにより、そうなっている原因は俺だ。自分のためではないのに、こんなにも一生懸命になってくれている。そのことがとても嬉しく感じた。しかし、辛くも感じていた。俺さえいなければ、彼女はこんな苦しみを経験せずに済んだ。
「こんなの、おかしいよ……」
紗那の声は、いつの間にか小さくなっていた。そして、目からは涙が出そうになっていた。
そんな状況下で、俺が黙っていられるわけがなかった。俺だけに迷惑をかけるのなら構わない。だが、紗那を巻き込むのは違うだろう。意見を言ってくれないのならば、こちらから一方的に意見をぶつけるしかないのだ。
「ねえ、東條さん」
俺が東條さんに向けて言葉を投げたのは、とても久しぶりだった。日数で見るとあまり時間は経っていないものの、感覚のうえでは随分と長い時間を過ごしたかのようだった。
「私になんの恨みがあるわけ? 紗那にそんなふうに当たらないでよ」
もう一度、俺は問いかけた。あえて低い声で、彼女の目をじっと見つめた。それは、もう抑える必要のなくなった気持ちを無言で送るようなものだった。その気持ちが届くとは思えない。だが、本気になってしまったことを知らしめたかった。
「そんなこと、今は関係ない」
関係ないはずがなかった。紗那が介入してきたこととはいえ、事の発端は東條さん側にあるのだ。だからこそ、紗那は俺を見守るのに徹することを諦めた。
「関係なくないだろ……」
心の中で抑えられなくなった気持ちが、一気に口から飛び出した。完全にスイッチが入ってしまった。そのせいで、いつもは気をつけていた言葉遣いが荒くなっていた。けれど、そんな些細なことを気にしている場合ではなかった。
「もういい加減にしてよ。私が何をしたの?」
きっとこれで状況が良くなると思い、深海に押し留めていた怒りを放流した。ためらう必要はなかった。見るべき相手は、目の前にいる彼女だけなのだから。
「自分の置かれている状況を理解していないの?」
「どういう意味よ」
俺が元男子高校生で、一時期は保健室登校となっていた。その程度のことではないのだろうか。もしかすると、他人から見ればその程度とは思えないのかもしれない。だが、こんな手荒な干渉を受け入れるべきではないことは確かなのだ。
「なんでそんなふうに、堂々と女の真似ごとができるのよ。あなた、男じゃないの」
俺がいつ女の真似をしたのだろう。確かに、言葉遣いを多少は直した。そのままだと、あまりにも違和感があったからだ。しかし、それ以外にはほとんど何も変えていない。無意識のうちに変えている部分はあるかもしれないけれど、それならどうしようもない。
「私は、あなたの人形じゃない」
東條さんは、何事もなく女子高生として過ごしている俺のことを、見過ごせなかったのだ。だから、こんな馬鹿げた行動に出たのだ。
「だからもう、こんな形で干渉してくるのはやめて」
東條さんが反論しようとしていたが、そこで廊下から靴音が聞こえてきた。
「あなたたち、こんな時間までなにしてるのよ」
突然現れたのは、背が高く聞き慣れたハスキーボイスの人だった。状況を上手く飲み込めないのか、教室の中央に立っている俺と東條さんを交互に見ていた。
「芹澤先生……」
ずっと黙っていた七海が、小さな声で言った。
「いや、なにこれ。どういう状況か、全部説明しなさい」
教室内は、混沌としていた。
東條さんの後ろで半泣きしている同級生二人。俺の後ろで静かになく紗那。そして、その後ろで見守っている七海と由果。
芹澤先生がそう言うのも分かる。俺がもし芹澤先生の立場なら、迷わず東條さんと俺を職員室に連行するだろう。
七海と由果は、芹澤先生のところへ事情を説明しに行っていた。東條さんが実質リーダーとなっていたグループも呼び出されていたため、教室の中には俺と紗那の二人だけとなっていた。
俺も連れて行かれると思っていたが、紗那と一緒にいるように芹澤先生に言われたのだ。
教室の明かりは黒板灯しかついていなかった。つまり、この薄暗い教室で二人きりになっていたのだ。こんな状況下で、俺は気が緩んでいたのか、頬を何かが流れていくのを感じていた。
「ありがとうね、紗那」
ありがとうという言葉では表せないほどの気持ちを、俺は紗那に渡した。それが上手く運べたのかは、神のみぞ知る。
「感謝されるようなことは、してないわ」
謙遜している雰囲気はなく、それは飾りのない言葉だった。社交辞令でもなんでもない、心からの想いだと感じた。なぜなら、目の前にいる彼女はいつの間にかいつも通りの紗那に戻っていたのだ。
「もし紗那がいなかったら、これからもずっと東條さんたちから逃れられなかった」
俺を邪魔者扱いしていることには、初めから気づいていた。だからこそ、反抗的な態度をとろうとは思えなかった。その火種が紗那や七海たちに降りかかるようなことは、避けたかったからである。
「少しでも沙希の手助けができたのなら、私はそれで満足だから」
そしてそこで、泣き疲れるまで泣いた。紗那が俺のことを、あまりにも大きな心で受け入れてくれた。そこからは、逃れられそうにない。
「ごめん。こんなに優しくされたら、涙が……」
涙が、止まらなくなってしまう。そう気づいたときには、すでに流れてくる量は増していた。心臓の動きに合わせるかのごとく、増えていった。一度流れ出した涙は、止まることを知らなかった。
七海にも本当の気持ちで話せていない俺が、紗那に気持ちを開いてしまった瞬間でもあった。そのときの俺は、確かに心を許していたのだ。羽衣以外には、心で話すことはできないと思っていた。だからこそ、同時に少しだけ怖いと思ってしまった。
「遠慮しなくていいから。飽きるまで泣くといいわ」
人前でこうして泣いたのは、これで二人目だ。怖いという気持ちを持ちながらも、紗那が与えてくれる愛情を否定することは、もうできなくなっていた。
いつから俺は、羽衣以外の前で泣けるようになったのだろう。
いつになれば、俺は羽衣のことを見送ることができるのだろう。
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