第24話 時計はいつまわるのか

 七海と二人きりで出かけることは、これが初めてではなかった。

 羽衣が少し遠くの存在となってしまったあの日以降、七海はしばらく笑顔を見せなかった。そんな状況をどうにかしようと思い、俺は七海をある場所へ連れ出すことにした。

「虹の丘…?」

「そう、虹の丘公園。花見をしに行こう」

 羽衣が好きだと言っていたこの景色が、存在していることを確かめに行く。それが、七海と俺がした約束だった。毎年必ず、桜の咲く季節になるとここへ来ていた。


 それからの七海は、元気を取り戻したかのようだった。それが、初めての七海とのデートだった。デートという表現をしたのは、七海だった。

「兄妹だけど、恋人同士っていう設定ね。だから、今日のお出かけはデートだよ」

 帰り際に、彼女が突然そう言い始めた。しかし、笑顔を取り戻した七海は、徐々に俺との距離を保つようになった。少し寂しく思ったけれど、年頃の妹はこういうものなのだろうと納得していた。


 もう俺は、七海に心配をかけてはいけない。だからこそ、七海の家族であり続ける必要がある。それは、俺自身が一番理解しているはずだった。

 血のつながりのない、妹。告白しようとしていた羽衣の、妹。もはや、自分の中の気持ちを無視し続けるのには、限界を感じていた。ただどうしようもなく、七海は羽衣に似ているのである。


 その日は、七海のリクエストに応え、女装で出かけることとなった。服は七海のものを借りて、着ていた。スカート以外がいいと伝えると、妥協案としてワンピースを提案された。

「お兄ちゃん、用意できた?」

「できたよ。変じゃないかな」

 妹に女装の度合いを見てもらい、変じゃないかと聞く兄。文字だけにすると、かなり恐ろしいことをしているかのように思えた。

「大丈夫だよ。可愛くなった」

 女の子の言う『可愛い』という言葉は、男の使うそれとは意味合いが違っていることに気づいたのは、つい最近のことだった。男の使う『可愛い』には、見た目の情報しか含まれていないことが多い。例えば、容姿などがそれにあたる。しかし、女の子の使う『可愛い』には、雰囲気や言葉遣いなどの情報も含まれている。要するに、幅が広いのだ。それゆえに、

「女の子の言う『可愛い』は信用できない」

 などと聞くことがあるけれど、範囲が異なるため仕方のないことなのだ。

 もはや、可愛いは挨拶程度の言葉という認識になっているのだろう。


 学校に行く以外で、こうして七海と一緒に外へ出るのはいつ以来だろうか。

「だいぶと暖かくなってきたね」

 気温が少しずつ上がっていき、近頃はカーディガンを羽織るくらいで十分な気候になっていた。朝晩のひんやりとした空気が、太陽が昇るにつれてゆっくりと暖かくなっていく感覚が、俺は好きだった。

「桜、咲き始めてるみたい」

 駅に向かう途中に、桜の木があった。満開とはいえないけれど、確かに咲いていた。こうしてまた、季節は巡る。


 このあたりで外へ買い物に行くと言えば、大多数が此花駅に行くというだろう。俺が住んでいた森本市には、本当にこれと言ったものがない。そこあるのは、緑豊かな自然だけだった。それが、観光客にとっては人気なのだそうだ。

 ただ、こういうときにはとても困る。わざわざ、電車に乗って此花まで行かないと、買い物を楽しめるようなところはなかった。このあたりには、いまだに商店街のようなところがあった。普段の買い物であれば、ここで十分に揃う。比べること自体が失礼にあたるかもしれないが、此花に比べるとやはり静かだった。雰囲気自体は、森本のほうが好きだった。不便だというところが、唯一の難点だ。


 十分ほど歩いたところで、森本駅に到着した。駅のまわりには、人があまりいなかった。まだ、時間が早いからだろうか。

「此花までの切符お願いします」

「はい、どうぞ。二百円です」

 この駅には、都会にあるような券売機がまだ導入されていない。導入される気配すらなかった。そのうちに導入されるという噂もあるみたいだけれど、まだまだ先だと思った。こういうときに、ここはやはり田舎だなあと実感する。

 そういえば、学生寮へ行ったときは往復の切符を用意していたため、券売機を使っていないことに気づいた。ただ一つ、ある事件が起きていた。改札を出るときに、切符を渡そうと準備していた。けれど、直前で機械に入れて出入りする仕組みだということに気づき、切符の入れ方を駅員に聞きにいった。都会では、駅員に切符を渡して改札を出るという仕組みは、かなり前に廃れてしまったらしい。

 ほかにも、俺の持っている常識が世間の常識ではないことがあるのだろうか。そう考えると、少しだけ怖くなった。


 駅のホームへ向かうと、ちょうど電車が近づいてきていた。次の電車が来るまで、かなり待たされることもあるため、これは運がいいと思った。

 電車に乗り込むと、中には数人だけしかいなかった。休みの日の電車というのは、だいたいこんな感じなので、特に驚くことでもなかった。これは、ここでの普通なのだ。


 此花駅に着くと、七海はにっこりと微笑んで、

「今日は楽しむよ。お姉ちゃんと出かけるの、久しぶりなんだから」

 と言った。その姿は、羽衣が近くにいた頃の七海に似ていて、ある意味つらい気持ちになっていた。七海は、俺のことをどう思っているのだろう。こんなふうに屈託のない笑顔を向けられるほど、許されているのだろうか。

 もちろん、七海がそのことに関して、意図的に触れてこないことは分かっていた。それは、俺も同様だった。

 しかし、今日はデートだ。そう、七海が望んだデートなのである。

「楽しもうね」


 何かが欲しいからというよりも、七海の今日の目的は、俺と一緒に出かけることだったらしい。そのため、試着をして店を回ったものの、買うまでには至らなかった。女の子って、つくづく不思議な生き物である。

 デート中の主導権を握っていたのは、常に七海だった。少し複雑な気持ちではあったものの、彼女なりの気づかいが嬉しかった。


 此花駅の近くにある、例の喫茶店に来ていた。香織さんと話し合ったのが、ついこのあいだのように思えた。

「今日、楽しかった?」

「どうしたの、急に」

 俺がコーヒーを飲むときは、必ずミルクコーヒーの加糖を頼んでいる。甘ければ甘いほどいいというわけではないけれど、甘いほうが好みではあった。七海は、ブレンドコーヒーを飲んでいた。

「デートの誘い方が、今思うと少し強引だったかなと思ってね」

「そんなこと、別に気にしなくてもいいよ」

「終わった後に、お姉ちゃんに謝ろうかなって思ってたくらいだよ」

 これから、七海はどうなるのだろう。めったに家族が全員集まることがなく、いつも七海と二人で食事をしていた。母は仕事が一段落ついているから、といっていたので、一人で食事をすることはないと思うけれど、心配ではあった。

「ごめんね。気をつかわせて」

 

 俺たちは、仲がいい兄妹であり、姉妹だ。だから、手をつないで此花駅のほうへと向かった。なにも不自然じゃない。俺は、羽衣の代わりであり続けなければいけないんだ。

「虹の丘公園に、行こうか」

「え?」

 あまりにも突然な提案に、七海の目は点になっていた。

「もう、桜は咲いてるんだよ」


 なあ、羽衣。いつになれば、七海は自由になれるんだろうな。

 

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