第23話 誰かと一緒に住むという意味

 部屋の中に入ると、薄い板で仕切られた空間があった。想像していた以上に部屋は広く、二つの部屋が合わさったような空間となっていた。

「結構、広いんだね」

「仕切りの向こうは狭いけどな」

 稲穂君は、そう言いながら片方の扉を指差した。

「こっちが中津の部屋。段ボールも置ける分だけ入れてある」

 扉を開けると、ベッドの上には綺麗に積まれた段ボールがあった。ベッドの横には、机もあった。意外と快適そうだ。

「もしかして、稲穂君が段ボールを運んでくれたの?」

「俺のほうが、寮に来るのが早かったしな。あと、廊下に段ボールが積まれているのも邪魔だったから」

 心なしか、稲穂君が少し照れているような気がした。

「それは申し訳なかった」

「別にいいよ。俺が好きでしたことだし」

 すっかり稲穂君のペースに乗せられているが、案外いいやつなのかもしれない。


「この奥が、シャワー室になってる」

 部屋に入るドアを開けると、そのまま奥まで見えるような作りになっている。洗面台の横にシャワー室があるので、簡易的な廊下に出ると脱衣所が見えてしまうような構造だった。

 これが何を意味しているのかというと、俺の体の秘密が知られやすくなるのではないかということにつながった。もしタイミングが悪ければ、稲穂君が廊下にいる際に、脱衣所にいる俺の姿が丸見えになってしまう恐れがあるのだ。

「部屋ごとにあるの?」

「そうらしいよ。一応、大浴場も設備としてあるけどね」

 俺自身が大浴場を使う機会は、永遠に訪れないだろう。いくら服や見た目を男に見えるようにしていても、体はもう手遅れなのである。香織さんなら、異性装の奥義を知っているかもしれない。

「俺は使わないかも。銭湯とか苦手だし」

 思っていることとは、全く反対のことを口に出していた。だが、こうでも言わないとわざわざシャワー室を使う理由付けができないのだ。

「あれ、それなら中津も使わないってことか」

「どういう意味?」

「俺は、体質的にお湯につかるのができないんだ。だから、大浴場は使ってないよ」

 少し言葉を濁したような表現をされたので、あまり触れられたくない内容だったのだろうか。そうだったとしても、自分と似たような人がいるというのがとても心強かった。


 とりあえず、このままだと自分のベッドで寝ることができないので、段ボールを片づけるところから始めた。

 実家から送った荷物の中には、食料品もあった。緊急時のために、あらかじめ買い溜めておいた缶詰やカップ麺を詰めた箱が一つだけあった。それ以外の箱は、服や日用品などを入れたのが数箱である。

 正直なところ、荷物の整理ほど面倒なものはないが、初めにしておかないと開封すら面倒に感じてしまう恐れがあるのだ。それだけは、避けたかった。まだ気力があるうちにさっさと終わらせる、と決めた俺は早速作業に取り掛かった。


 荷物の整理がようやく終わり、窓から外を見ると日が傾き始めていた。少し散歩に行ってくるといって部屋を出た稲穂君が、ちょうど帰ってきたところだった。

「ただいま。終わったか?」

 そう言いながら、彼は水の入ったペットボトルを差し出してきた。

「これは差し入れ。喉渇いただろ」

「ありがとう」

 ペットボトルを受け取ると、稲穂君はスポーツドリンクを飲み始めた。

 ふたを開けて一口飲むと、喉の渇きは解消された。本当にタイミングがいいというか、察しの良いやつだ。忘れないうちにお金を返そうと思い、財布を持ってくると、彼は手を左右に振っていた。

「いや、お金はいらないよ。俺が勝手に買って来ただけだし」

「そういうわけにはいかないでしょ」

 そう言うと、呆れたような顔をして彼はこう続けた。

「人の好意は、素直に受け入れろ。それとも、こっちのほうがよかったか?」

 スポーツドリンクが、俺は元々好きだった。夏場には、一日に必ず一本飲むくらいには好きだった。あのなんともいえない味のバランスが、妙に心地良く感じるのである。

「じゃあ、いただく」

 スポーツドリンクを飲むのは、一体いつ振りだろうか。そんなことを考えていると、俺はあることに気づいてしまった。

 これは、間接キスになるのだろうか。

 まず大前提として、俺と稲穂君は同性なはずだ。それなら、これは間接キスには該当しないと思う。俺は男だし、恋愛対象は女の子だ。もちろん、男同士での恋愛を否定するわけではないけれど、少なくとも俺には当てはまらないはずだ。

「そんなに気に入ったのか?」

 ふと我に返ると、いつの間にか俺はペットボトルを見つめていた。かなり長い時間を過ごしていたように思える。

「元々、スポーツドリンクが好きなんだよね」

「そうだったのか。覚えておくよ」

 稲穂君は少し笑って、俺が差し出したペットボトルを受け取り、自分の部屋へと入っていった。


 部屋の片づけが終わり、しばらくが経っていた。俺は趣味の読書をし、稲穂君はシャワーを浴びていた。

 そこで、俺はあることに気づいた。相部屋という構造上、仕方のないことだとは思うが、部屋の中の生活音が丸聞こえだ。稲穂君が部屋にいたときに呟いていた独り言やシャワーを浴びている音が、そのまま聞こえてくる。こういうことは気にすると負けだとは思うが、ここまで音が聞こえるとは思っていなかった。

 やがて水が流れる音が止まり、しばらくして足音が近づいてきた。

「シャワー室、空いたぞ」

 部屋を軽くノックして、そう伝えてきた。

「わかった」

 前もって枕元に準備しておいた着替えを持ち、俺はシャワー室へと向かった。


「俺、本当の女みたいだな……」

 一日の生活の中で、一番嫌な時間は何かと尋ねられたら、俺は迷わずに答えることができる。自分の裸を見なければいけない時間だ。

 こんなに残酷な現実を見せつけられるような時間は、ほかにないだろう。どれだけ忘れようとしても、俺の体がもう普通ではないことを認識せざるを得なかった。声が部屋の中に筒抜けだということが頭で分かっていても、思わず独り言を呟いてしまうほどには耐えがたい事実だった。

 シャワーを止めても水が流れてくるのが分かり、おかしいと思って鏡を見ると、そこには目から涙を流している俺がいた。いつから、俺は弱くなってしまったのだろう。


 シャワー室から出てきた俺は、ナベシャツを体に巻き付けた。この表現が正しいのかは分からないけれど、感覚的には合っていた。

 香織さんと会ったときに、さらしの代わりにおすすめだと言われて、頂いたものだった。簡単に説明すると、これを使うことで、膨らんでしまった胸をつぶしている。こうしないと、男としてはあり得ない胸部のふくらみが現れてしまうからである。それを隠すために、その日以来ずっと着けていた。


 廊下に出ると、稲穂君が外に出ようとしていた。

「あれ、どこかに行くの?」

「ちょっと買い物に行こうと思ってね」

 実は、この寮から一番近いコンビニに行こうとすると、三十分ほど歩かなければならない。それほど不便な場所にある、学生寮なのである。

「それなら、俺も行くよ」

「分かった。待ってる」

 俺は持っていたスポーツウェアに着替えて、財布を持った。


 コンビニに着くまで時間がかかるため、世間話でもしないと間が持たなかった。ただ、基本的に無言が嫌っているのか、稲穂君が会話の主導権を握っているような雰囲気だった。

「なあ、沙希って呼んでいいか」

「いいけど、どうしたの」

 他愛のない話を続けていると、ふと稲穂君がそう言い始めた。

「これからずっと一緒に生活する仲間なのに、どうも他人行儀な感じがして」

 稲穂君を見ていると、表情がコロコロと変わって面白かった。とても感情が豊かで、この表現が正しいのかは分からないが、可愛らしかった。やはり、稲穂君ほどのイケメンだと周りの人をそういう感覚にさせる才能があるのだろうか。それとも、俺が彼の意識の中に吸い込まれようとしているのだろうか。

 いずれにせよ、悪い人ではないということは、今日一日だけでも十分に感じ取ることができた。そうなれば、回答は一つに絞ることができた。

「構わないよ。その代わり、俺も下の名前で呼ばせて」

 俺がそう提案すると、稲穂君は少しだけ微笑んでいた。

「分かった。じゃあ改めて、よろしくな。沙希」

「こちらこそ、よろしく。あかね」

 これからは始まる学生生活に、俺は少し希望が持てたような気がした。

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