第8話 ある姉妹との出会いと運命
七海は、俺と羽衣の関係のことが気になっていたのだろう。しかし、俺は話したくなかった。話すことによって、また思い出してしまうからだ。羽衣のこと、そしてあの日のことを。でも、今話さないと後悔するのではないかという気持ちが、芽生えていた。
「七海は、私が小学生だった時のことを覚えている?」
「ううん」
七海はかすかに首を振り、そう言った。しかし、その返答には違和感を覚えた。七海は、やはり覚えているのだろうか。
それは、いくら考えたところで結論は出ない。仕方のないことだ。だが、考えずにはいられなかった。
「今は、本当のことを言っていいんだよ? 隠さなくてもいいよ」
俺がそう言うと、七海は布団をめくって、ゆっくりと起き上がっていた。そのついでに電気を付けようかと思ったが、それはやめることにした。この暗さだからこそ言えることもあるかもしれないと思ったからだ。
普段は言えないことを今の環境なら、言い出せるかもしれない。
「……本当は覚えてるよ。でも、思い出したくない。ほんの少しだけでも、思い出したくない」
顔を見なくても、七海が泣きそうな顔をしていることはわかった。それほどに、鼻をすする音が聞こえていたからだ。
「そうすると、封印していた嫌なことも一緒に思い出しちゃう……から」
お互いに見ないふりをしていただけで、過去は決して消えない。なかったことにもならない。なかったことに、してはいけない。
遠くて近い『あの日』のことを、七海はずっと覚えていたのだ。
俺がまだ小学生だったとき、隣の家にある一家が引っ越してきた。ずっと工事中で、何が建つのかと少しだけ楽しみにしていたけれど、それは真新しい家だった。
そしてその日、近くに引っ越しのトラックがやってきていた。もしかしてと思っていたけれど、やっぱりそれは横の家が目的地だった。
「初めまして。今日、隣に引っ越してきた藤村です。何かと迷惑をかけるかもしれませんが、これからよろしくお願いしますね」
「こちらこそ初めまして、中津です。よろしくお願いしますね」
家でのんびりとしていると、玄関あたりから知らない人の話し声が聞こえてきた。お母さんが誰かと話しているのかな。こんなお昼からお客さんなんて珍しい。
ふすまの隙間から覗くと、玄関前に立っていたのは俺が知らない顔だった。誰なのだろうと思い、玄関へと向かった。
「あら、こちらは娘さんなの?」
お母さんは目線を下げて、ある子に向けていった。すると、恥ずかしかったのか、その子の頬が少し赤みがかっているように見えた。
「はい。
藤村さんは、その子の頭を撫でながらそう言った。
「藤村羽衣です。初めまして」
「しっかりした子ですね。
こんな形で俺の名前が紹介されることに、少し腹が立った。でも、それよりも羽衣ちゃんはかわいいなと思った。お姉ちゃんって感じだ。あと、羽衣という名前がとても珍しいなと思った。
そんなことを考えていると、羽衣ちゃんが手を引っ張って、もう一人連れてきた。羽衣ちゃんに比べると、背が低かった。あれ、もしかして本当にお姉ちゃんなのかな。
「お姉ちゃん……恥ずかしいよ」
羽衣ちゃんに甘える姿を見て、俺にも姉がいたら、こんなことができるのかなと思った。一人っ子だから、余計にそう思っていた。兄弟姉妹がいると、うるさいだけだよと言われるけれど、憧れるのだから仕方ないじゃん。
「もう小学生でしょ、しっかりしなさい」
羽衣ちゃんの妹らしき子が、口では嫌だと言いたげな形にしながら、目をじっと見てきていた。というよりも、無理に合わせようとしていた。なんだかおもしろい子だな。
「もうしょうがないわね。この子は私の妹の
「……こんにちは」
そう言うと、七海ちゃんは俺のほうを見ながら、頭を下げた。仕方なくしましたという気持ちが伝わってくるみたいだ。
「こんにちは」
俺もそれに合わせて、同じ言葉を返した。ただ、お互いにあいさつをしただけだった。しかし、これが俺と七海の初めて交わした言葉だったのだ。短いけれど、その時間はとても長く感じた。
その当時は、お互いにまだ何も意識していなかった。ただの隣の家の人という認識でしかなかった。
そう、俺と七海の間で血は全く繋がっていない。家系図をたどれば、もしかすると線が交わるかもしれないが、今はその話は置いておこう。
元々は、一切関わりがなかったのだ。簡単に言うと、義理の姉妹である。しかしこのころは、まさかこんなことになるとは、きっと誰も思っていなかった。
ただの友達が、ある日を境に『家族』になるなんてことは、ほんの少しも考えることはなかった。
藤村家の引っ越しからしばらく経ち、全員が中学生になった。
このころになると、羽衣や七海とはすっかり気の知れた間柄になっていた。学校も同じなので、登下校は基本的に三人でしていた。
「今日は私の家で遊ばない?」
いつも通り、俺の部屋に集合してゲームでもするつもりなのかと思っていたが、羽衣はその気分ではないようだ。そもそも、羽衣が自分の家に俺を誘うことが今までなかった。どういった風の吹き回しなのだろうか。
「いいの?」
友達の女の子の家に誘われるのは、ある意味事件だった。ずっと一緒にいたものの、俺は羽衣と七海の部屋には入ったことは無かった。事件というのは、決して変な意味ではなく、俺はただ単純に女子に対して興味があった。どれくらい、俺とは違った過ごし方をしているのだろうかという疑問があったからだ。それは、一種の好奇心のようなものである。
人生が変化するきっかけは、常に些細なことである。自らも気付かない小さなことが、やがて大きな変化につながるというのは、誰しもが経験したことではないだろうか。
羽衣の部屋に上がり、しばらく三人で遊んでいると、羽衣が急にこんなことを言い出したのである。
「そういえばさ、秋路くんって可愛いよね」
まず俺は、驚くというよりも戸惑った。男相手に可愛いと言うのは、一体どういうことなのかと。その発想が出てくることに、羽衣はやはり俺とは違う人間なのだということを改めて感じさせられた。至極当然のことではあるのだが、基本的に似た者同士なので、そのことを感じるのはあまりなかった。
「試しに一回女の子の服とか着てみればいいんだよ。私はきっと似合うと思う」
自信満々で俺に独り言を投げつけてくる羽衣に、どこからそんな自信が出てくるのだろうかと思った。
「七海はどう思う?」
多分話を真剣に聞いていなかったであろう七海が、首を静かに上下した。
ゲームをしている最中、羽衣がいきなり俺に女装を提案してきた。理由は、かわいいから。全く意味が分からないが、拒否するのも面倒くさいので従うことにした。今回は、俺の負けということにしておこう。
「しゅうならきっと似合うよ」
ずっと口を閉じていた七海は、ポテトチップスを食べながらそう言った。
『しゅう』というのは、その当時七海から名付けられていた俺のあだ名である。
その後、俺は女子二人に囲まれながら、服を次々に着替えていった。こんなに一気に着まわしたことがなかったので、俺はどっと疲れた。そもそもの話、俺は服をこんなに持ってはいない。とにかく服の量が段違いなのである。
「やっぱり似合うね。私の思っていた通り!」
目の前のお嬢様の機嫌は上々であった。なんというか、ご飯をずっと待っていた子どものようである。
「いっその事、女の子になってみればいいんじゃない? 別に違和感ないよ」
「ちょっと、お姉ちゃん何言ってるの」
心躍らせながら話す羽衣に、七海は冷静なツッコミを入れていた。今日も相変わらず仲がいい。そんな二人を見ていると、俺は本音をこぼしていた。
「いや、二人とも楽しそうじゃん。俺は別にいいよ」
それがあまりに予想外の反応だったのか、二人はとても驚いた様子だった。開いた口が塞がらないという表現が、とても合っていた。その時、俺は内心うれしかった。フリフリの付いたスカート履いたり、女子用の制服着させてもらったり。いろんな服を着させてもらえた。
それがなぜうれしかったのかは分からない。けれど何と言うか、ほっとした気分になっていた。
藤村姉妹とかかわる様になって、約6年が経った。俺と七海はもう中学生になっている。
羽衣は俺にいろいろなことを教えてくれた。人生において何が大切か、人と付き合うってことはどんなことか。まさに俺の人生の師匠的存在だった。振り返ると、ほぼ毎日七海と羽衣と俺の3人で一緒にいた。だからこそ、思い出もいっぱい出来た。
その日、羽衣は高校受験だった。早朝に突然、眠れないとのメールが羽衣から入り、心配になった俺が電話をかけてしまうという大失態を犯し、現在に至る。俺のせいで羽衣が余計に眠れなくなっているのだ。
「大丈夫なのか? もうこんな時間だぞ」
「うん」
今は朝の3時。よほど寝付けないのだろうと思う。普通ならば、羽衣は電話の途中で寝てしまう。おそらく、眠気の峠を越えてしまったのだろう。
「俺、そろそろ眠らないと……」
さすがの俺でも、体力的にも限界を迎えていた。羽衣の声がたまに遠くから聞こえていた。このままでは、途中で寝落ちしてしまうと思い、通話終了を提案した。
「そうだよね。ごめん、遅くまで付き合わせちゃって」
「いや、それはいいんだけど。少しは落ち着いたか?」
電話越しではあったものの、緊張感は尋常じゃないほどに伝わってきていた。いつもの羽衣ではなかった。
「秋路のおかげで落ち着けた気がするよ。それじゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
「…ちょっと待って。私の受験が終わったら、秋路に大事な話があるの。時間開けておいてもらってもいいかな?」
大事な話…? 俺が何かしただろうかと少し考えるが、答えは浮かばなかった。
「いいけど」
「ありがとうね。じゃあ、明日…じゃなくて、今日の夕方くらいにまた連絡するね」
何か焦っているように感じた。一体、何を話したいのだろう。そんなに大事なことなら、今話せばよかったのに。
その日の授業には身が入らず、いつの間にか放課後になっていた。あれからずっと羽衣は何を言いたいんだろうと考えていた。
意識がはっきりとしないまま、家に入ろうとした。しかし、いつもとは違う異様な雰囲を感じた。何故か家の中が騒がしかったのだ。
今までに見たことがないような顔をして、母が目の前に出てくると、こんなことを言い出した。
「羽衣ちゃんが交通事故にあったって…」
その瞬間、俺の中の時が止まったように感じた。思考が停止した。
俺は母に急かされて、冷汗が止まらないままに羽衣が運ばれた病院へ向かった。しかし、俺が病院についたときにはもう手遅れだった。羽衣は目を閉じたまま、動かなくなっていた。すでに死んでいた。すぐに動きそうな感じなのに。目を開けて『秋路、来てくれたんだ。ありがとう』って言ってきそうなのに。なあ、目を開けてくれよ。
なんで、こんなに顔が冷たいんだよ……
その日から俺は何もかもが出来なくなってしまった。生活すらもままならなかった。それほど羽衣という存在を失ったショックは大きかった。心の中に穴が開いたみたいだ。いつも一緒にいて、ためになる話なんかもして、俺たち三人で遊んでいた。どこに行ったんだよ羽衣。早く帰って来いよ。二人じゃあ、なんか物足りないからさ……。
やがて俺も羽衣と同じ、中学三年生になった。そのころ、七海の父親ががんになってしまった。病院で療養することになったため、一時的に七海を俺の家で預かることになった。しばらくの間、預かるだけだと思っていたが、その1か月後、七海の父親は静かに息を引き取った。見つけた時にはかなり進行していたらしく、一気に症状が悪化してしまったらしい。
ついに、七海は一人になってしまった。ずっと当たり前だと思っていた日常は崩れるものだ。永遠などない。そのことを実感させる出来事の連続でもあった。だが、七海の父親は俺の父親と、ある約束を交わしていた。
『なあ、実は一つだけ頼みたいことがあるんだが』
『お前のことだ、また何かが欲しいとでもいうのだろう?』
『いや、実は俺の病気…がんが進行してるらしいんだ。だから、私のもしものことがあったら、七海をお前のとこの養子にしてくれないか』
『進行してるのか…。でも、俺の養子に?』
『ああ、そうだ。お前になら七海のことを安心して任せられる』
『わかった。俺に任せろ。お前の頼みなら、いくらでも七海ちゃんのことは面倒見てやる』
『頼んだからな。もう私の命も長くないみたいだからな。なんだか、そう感じるんだ』
最近、七海はよく俺と一緒に居られるなといつも思う。俺は実際、七海の顔を見るたびに羽衣のことを思い出してしまう。どうしても二人のことを重ねてしまう。七海はいったい俺をどの様な立場で、どういう風に考えて日々過ごしているのだろうか。もし、俺が七海の立場ならすぐその場から逃げ出したくなると思う。現実に向き合えなくなると思う。
俺は羽衣が事故にあってからまだ日が経っていない時、七海に会うのが苦しかった。どういう顔をして向き合えばいいのかわからなかった。だから、俺は決めた。七海は羽衣の妹ではない、あくまでも俺の妹なのだと考えるようにした。それからの1年間はずっと羽衣のことを考えることを避けた。でも、片時も忘れたことなどなかった。いろんなところに痕跡が残る、思い出がいっぱい詰まっているこの場所で、忘れることなんてできるはずがなかった。何か行動を起こすたびに、羽衣のことを思い出していた。誰よりも大切に想っていた、あんなに大切な人を忘れることなんて、結局できなかった……。
「お兄ちゃん、もう朝だよ」
これは夢だろうか。ぼやけた視界に、七海の顔が揺れている。何かを言っているような気がするが、ほとんど聞き取ることができない。
しばらくすると、視界がはっきりとしてきた。しかし、見えているのは、どこかの天井である。見覚えがなかった。ここは、どこだ。
隣には、七海が眠そうな顔で、じっとこちらを見ていた。そうだ、大雪のせいで俺たちは学校に泊まっていたことを思い出した。窓から見える景色で、大きく変わっているところはないが、一面が雪に覆われていた。純白である。
「もう天気も良くなっているから、帰ろうよ」
気温自体は上がっているので、雪が解け始めて路面凍結しそうである。雪の上を歩くには、慣れがある程度必要なのである。
七海は、『お兄ちゃん』と呼んだことを謝ってきた。もしかして、七海はまだ俺が女の子になったということを、心のどこかで受け入れていないのだろうか。そんなそぶりは見せてこなかったので、あまり心配していなかった。
「失礼します。早坂先生いらっしゃいますか?」
布団を畳み、職員室に来てはみたものの、職員室内に先生は3人しかいなかった。早朝に帰ったのかもしれない。
「いや、今は学校にいないと思うよ。どうした、なにか伝言があるのか」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございました」
特に緊急の用事ではないので、後日改めてお礼を言うことにした。
いつもより十三時間ほど遅い、下校である。学校で一晩過ごすというのは、なかなかできない体験だと思う。普段とは違う環境で戸惑ってしまったが、いろいろ考えさせられる時間を過ごすことができた。しかし、そのせいでずっと記憶の奥に隠していた記憶をはっきりと思い出してしまった。
羽衣は、こんな俺のことをどう思ってるのだろう。
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