第9話 溶け合う雪のように

 ローファーを履いて正面玄関から出ると、すぐ近くにある広場で七海は走り回っていた。子どもみたいなことをするなと注意しようかと思ったけれど、今日は土曜日。学校内には数名の教員しかいないので、その必要はないだろうと判断した。こんなにも楽しそうに遊ぶ七海を、俺が止めるようなことはしたくなかった。

 つい数時間前の七海の顔を見てからだと、なおさらそう思うのだ。

「お姉ちゃん! すごいねえ、どこまでも真っ白だよ」

 猛吹雪だったことを忘れさせるような晴天に恵まれていた。ただ、吹雪の次の日は電柱や看板、家の外壁などいたるところが白くなる。雪に反射する太陽の光が、目の中に無数に入り込んできていた。太陽を直接見るよりも、目の前を見るほうがはるかにまぶしく感じた。

「ほんとだね」

 朝の九時を回っていた。吹雪のせいで帰れなかった俺たちは、こうして帰宅の途についた。お互いに特に予定はなかったので、少し寄り道をして帰ることにした。

 ある意味、昨日の夜に天候が悪化してよかった。もしそれが木曜日なら、今は授業時間だ。学校で一夜を過ごして、そのまま授業を受けるなんてごめんだ。

「えいっ」

 遠くにいる七海の声が聞こえたと思ったら、視界が遮られた。考えごとにふけっていた俺の顔に直撃したのは、冷たくて重量感のある固体のような液体だった。

「こら、七海!」

 遊ぶのもたいがいにしろと思いつつ、仕返しに雪の塊で対抗しようと思った。しかし、塊を作っている最中に七海が第二弾を投げてきたのですぐに諦めた。七海の作るスピードに、俺が勝てなかったのだ。こんなところで負けるなら、どうせ勝負にはならないだろうと思った。

 なぜだろう。すごく悔しい。


「もしもし遥さん?」

 一応、学校からも俺たちが家に帰ることは連絡が入っているはずだけれど、念のために電話をすることにした。かけているのは七海だ。

「うん。そう、今帰ってる途中だよ」

 遥さんというのは、俺の母のことだ。正確に言うと、俺たちの母なのだが、少し複雑なところもある。七海にとっては育ての親に近い関係であるが、生みの親ではない。

 一緒に暮らすようになってからしばらくは、無理にお母さんと呼ぼうとしていたが、俺がやめさせた経緯があった。そんなことをしてまで、偽りの家族を演じようとは思わなかったからだ。偽るくらいなら、少しくらい他人行儀なほうが暮らしやすいはずなのだ。

 温かさは偽りの存在にもあるが、偽りの温かさは実在しないのである。

「大丈夫。じゃあ、またね」

 電話を切り、こっちを振り向いた七海は、よくわからない顔をしていた。

「母さん、なんて言ってた?」

「遥さんも家に帰れなかったんだって。だから、状況はわたしたちと一緒だったみたい」

 母さんが職場で泊まっていくことは珍しくはないけれど、その言い方から察するに、今回は意図しなかった泊まり込みだったのだろう。

 もしかすると、はじめから家にはいなかったんじゃないかと思っていたけれど、その予想は当たったのか外れたのかは判断しがたいものだった。


 車道の中央にある路面凍結防止の装置から出る水が、歩道のあたりに溜まり始めていた。この水たまりが厄介なもので、油断して歩いていると靴全体が濡れることがよくある。すぐ横を走る車に、思い切り水をかけられることもある。

「お姉ちゃん遅い」

「七海が速すぎるんだよ」

 ずいぶん前から、七海が次々に進んではずっと先で俺を待つという行為を繰り返していた。その間、白い塊が飛んでくることは何度かあった。数えることが面倒になるくらいの回数である。気分が上がるのはわからなくもないが、もう少し落ち着いてほしい。

 はしゃいで走っている姿を遠目から見ていると、スカートがひらひらと舞っていた。うっかり見えてしまわないかが心配だった。防寒用に黒タイツを履いてはいるから問題ないと七海は言うが、これはそういう話ではない。俺の精神衛生上、あまりよろしくない行動であることは確かだ。

「こういう景色、なんて言うんだっけ」

 七海が周りに広がる、雪で白くなった家の屋根や田んぼを見ながら言った。

「一面の銀世界、って言いたいの?」

 そう言うと、七海は首を小さく縦に振った。どうやら正解だったようだ。

「すごいよね。夜は雪を怖いと思っていたのに、今は綺麗だと思ってるんだよね」

 それはものすごく当たり前のことであるため、普段は考えないことのうちの一つだろう。自然において、恐怖と美しさは表裏一体だ。度が過ぎると恐怖でしかないものも、控えめになると美しいと感じるようになる。

「七海、夏生まれのくせに雪が好きだもんね」

「その言い方やめてよ。言い返せないじゃない」

 七夕生まれの雪好き。無意識にからかってしまうのも仕方ないのだ。夏でも楽しそうに過ごすのには変わりないものの、明らかに気分が高ぶっているのは冬だ。


 普段の通学に使う方向とは逆の道をひたすら進み、細い道を抜けると小さな川がある。そこにかかる橋から見えるのは、見渡す限り雪で覆われた白い景色だった。

「綺麗だねえ」

 白い息を吐きながら、七海の目線は遠くにある送電塔のほうに向けられていた。白い息が、出てきては消え。出てきては消え。呼吸を感じさせる白い揺らぎに、いつしか目を奪われていた。

 いつの間にか、七海はすっかり大人になっていた。『綺麗だね』と言うその姿は、あまりにも綺麗で、俺はすっかり見とれてしまっていた。その真っ直ぐで濁っていない瞳に、吸い込まれるのではないかという錯覚をしてしまうほどだった。

「お姉ちゃん…?」

 お互いの鼻がぶつかりそうな距離で、七海は俺の目を見ていた。あまりの近さに、笑ってしまうほどだった。

「ああ、ごめん」

 まさか妹相手に惚れそうになっていたなんてことは、口が裂けても言えなかった。それは、七海への裏切り行為だ。

「大丈夫? 顔真っ赤だよ」

 顔に熱さを感じていたので、真っ赤になっているだろうと思っていた。それを指摘されると、余計に悪化してしまう気がするのでやめてほしかった。

「そうかな。きっと、気のせいだよ」

 顔をあまり見られないように、少しだけ先を歩くことにした。後ろからついてくる七海の存在を忘れるために、真っ青な空を見て歩くことにした。

「冷蔵庫になにもないはずだから、スーパーに寄って帰ろうか」

「そうだね」

 冷蔵庫の事情など知るはずのない七海は、同意するしかなかった。


 夜の悪天候の影響か、食品売場の品数が全体的に少ないような気がした。遠目から見ても、何も陳列されていないところがいくつもあった。

「今日のスーパー、なんだかさみしいね」

 さっきまでの気分のよさが嘘だったかのように、七海は悲しい顔を浮かべていた。

 もちろん、これが平日であるならばおかしくはないが、今日は休日。それも、お昼前なのだ。普段なら、家族連れの客が多く訪れているべき時間帯なのである。閑散としている店内は、店員のやり取りがはっきりと聞こえるほどだった。

「春なのに雪かきしたせいで、みんな疲れたんだね」

「もう三月だからね」

 雪に慣れている地域とはいえ、今の時期にここまで天気が荒れるとは、誰も思っていなかっただろう。天気予報の通りだと、これから先は春らしい天気が続く。雪が解け、そして桜が咲く季節がやってこようとしているのだ。

 四月からは、なにも恐れずに過ごせる平和な日々を送りたい。退屈でいいから、突発的なイベントなんて発生しなくていい。心からそう思っていた。

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