第7話 真夜中の生徒会室にて

 もう三月だというのにまだ雪が降っている。朝の天気予報によると、明日の夜には積もるらしい。なんてついていないのだろうと思っていた。それと同時に嫌な予感がしていた。これは、そんな日の話である。


 その日の授業も終わり、俺は課題の提出をするために職員室へ来ていた。

「これじゃ受け取れないわね。やり直し」

「頑張ったんです。どうしても受け取ってくれないのですか……」

 芹澤先生が諦めの悪い俺をなだめるように、こう続けた。

「私もね、帰りたいのよ。でも、これは受け取れない。立場考えてほしいよ、もう」

 頬をふっくらと膨らませる先生の仕草に、俺は少し変な気持ちになった。だが、特に感情が動くことは無かった。七海あたりがすれば、いい絵になりそうだ。

「わかりました。やり直ししてきます」

「終わったら、職員室に急行ね」

 そこから俺は、空欄だらけの課題用紙にひたすら文字を埋めるという作業を続けることになった。最初から空欄を無くせばいいと思われるかもしれないが、今日の芹澤先生が厳しいだけなのだ。俺は悪くないぞ。

「あれ、お姉ちゃん?」

「まだ残ってたの、七海」

 疲れすぎて幻覚を見ているのかと思ったが、そこにいたのは正真正銘の七海本人だった。七海も課題を終わらせることが出来ず、一人で必死になって今まで進めていたらしい。

「図書館が閉館しちゃってね。寒いけど教室でしようって思って来たの」

 やはり一緒に生活していると、似てくるものなのか。

「仕方ないね。一緒に頑張ろうか」

 課題の内容は、どちらも芹澤先生が出したものなので一緒だ。二人で力を合わせれば、もっと効率的に進めることが出来るはずだ。


「終わった……」

 どのくらいの時間をかけたのかは分からないが、ようやく課題を空欄なしで終わらせることが出来た。もう夜も遅いのだし、さすがに帰らせてくれるだろう。

「職員室、行こうか」

 先ほどまでついていた教室の電気もいつの間にか消え、学校の中の暗さがより深まっていた。七海と俺の下履きの音が廊下に響き渡り、異様な雰囲気を漂わせていた。外からは風が吹きつける音が聞こえていた。

「なんか怖いね」

 七海が怯えたような声を出して、俺の制服の袖をつかんできた。あまりにも突然の行動に少し動揺してしまったが、相手は七海だ。妹なのだ。

「大丈夫だよ。もうすぐ職員室に着くから」

 昔の七海は、いつもこんな感じだった。最初でこそ、変に懐かれてしまったと思っていたが、そのせいで当時から距離感がとても近かった。だからこそ、心が俺から離れたと感じたときのショックは大きかった。

「失礼します。芹澤先生いますか?」

「終わったのね。お疲れ様」

 芹澤先生が俺たちの課題用紙を受け取ると、言いづらそうな顔でこんなことを言い出した。

「ただね……今夜は帰れないと思うわ」

「どういうことですか?」

 そんな哀愁漂わせる雰囲気で、そんなことを言わないでほしかった。誤解を生むような表現はいけない。

「明日の朝まで猛吹雪の予報が出てるのよ。そもそも、今は学校から出られるような状況じゃないもの」

 職員室のカーテンを少し開けて外を見ると、ほんの少し先も見えないような白い世界が広がっていた。一体どういうことだこれは。

「だから今日は泊まっていきなさい。私のほうから親御さんには連絡してあるから」

 無事に帰ることができる保証はどこにもなかった。だから、今日は学校に泊まっていきなさいということだ。ただ、ここは本来生活する場所ではない。そのため、夜を明かすのは厳しいだろうと思った。

 そのときゆっくりと近づいてきたのは、早坂先生だった。

「二人とも帰れなかったのね」

 かなり深いため息をついていた。土地柄こういったことに巻き込まれることは多々あるのだが、いざそうなるとため息しか出ないのである。どうしようもないので、嵐が去るのを待つしかないのだ。

「夜は長くなりそうですね」

 職員室を見渡すと何人かがすでに椅子の上で寝ていた。早坂先生の話によると、今のうちに交代で仮眠を取っておこうということになったのだそうだ。中はかなり暖かくなっていた。暖房機器のおかげだ。

「どうする? ここで一晩過ごしてもいいし、あと現実的なのは生徒会室かな。あそこなら狭いからストーブが効きやすいと思うわ」

「それなら、生徒会室に行きます」

 先生方のご厚意により、電気ストーブが一台提供されることとなった。さらに生徒会室にはちょっとぼろくなっている布団があることも、すでに確認済みだ。念のために言っておくが、これはきちんと使用されているものである。そして、定期的に天日干しをしている。

 先輩から聞いた話によると、一番最初にこれを設置したのは何代か前の生徒会長なのだそうだ。なぜここに置くことにしたのかは不明ではあるが、現在では昼寝用に使用されていた。

 制服のまま寝るのはあまりよくないということで保健室から体操服を貸してもらえた。そういえば、体に変化が起きてから体操服を着るのは、これが初めてかもしれない。着てみると劇的な変化は無かったものの、普通の服とは違った独特な肌触りを感じた。今まであまり気に留めていなかった部分だったので、少し戸惑った。それとも、俺の体が変わってしまったことによる弊害なのだろうか。

「本当に迷惑をかけてすみません」

「気にしなくても大丈夫よ」

 早坂先生が、わざわざ生徒会室の前までついてきてくれた。

 まさかこんなことになるとは思っていなかった。しかし、これはこれで非日常体験が出来るので楽しめるかもしれない。ただしその前提として、外が大雪でなければという条件が付く。ただの学校宿泊であれば、何も気にせずにこの状況を受け入れることが出来ただろう。


 今は何時くらいだろうか。外から来る隙間風のせいで体がすっかり冷えてしまい、眠れそうにない。

 ついさっき、時間を潰そうと思い携帯を手に取ったが、電源が切れていた。よく考えてみると、昨日は充電することを忘れていた。こんな重大な日に充電するの忘れるのは本当についていないと思ったけれど、後悔しても後の祭りだ。

 じっとしていても仕方がないので、布団に包まって、天井のシミを数えていた。非常に苦痛である。仕方なく俺は外気に触れることにした。体が温まり過ぎて、少し息苦しいかったのだ。あとはちょっとした気分転換といったところだろうか。

 布団から出ると、気温差が極端だったのか、肩を無意識に固くしてしまった。物音に眠りを妨げられたのか、七海が起きてしまっていた。

「お兄ちゃん…?」

 そういえば、七海が学校で俺のことを『お兄ちゃん』と呼ぶのは、なんだか久しぶりのような気がした。以前はこれが当たり前だったということが、なんだか寂しくも思えた。

「ごめん、起こしちゃったか」

「ううん。大丈夫だよ」

 俺に対する接し方を普段は意図的に変えていることくらい、聞かずとも分かるのだ。

「…せっかくだからさ、少し話さない?」

 口調がはっきりしない声だった。眠気はあるが、眠れないといったところだろう。

 お互いが中学生になったあたりから、あまり会話をした記憶がない。一方的な言葉の投げかけはあった。それが意図的なものだったのかは分からないが、関係が薄くなっている気がしていたのは確かだ。

 それが最近になって、話しかけてくることが多くなった。どういう心境の変化なのだろう。

「いいよ。眠れなくてどうしようと思ってたところだから」

 特にその提案を拒否する理由もなかった。


 初めは、お互いの近状報告から始まった。だが、当たり障りのない会話はあまり続かなかった。そのことに気づいたのか、七海が今まであまり触れてこなかった話を振ってきた。そこには触れない方がいいという暗黙の了解のようなものがあったからだ。だが、そう思っていたのは、どうやら俺だけのようだった。

「なんで女の子になる選択肢を選んだの」

 ある程度の治療を受ければ、男のままでいることが出来るかもしれないという話が、全く無かったわけではないのだ。ただし、体には予想できないほどの負担がかかる可能性があるとは聞かされてきた。

 自然に女のような見た目になろうとしている体を外科的な方法で、無理やり変化させようとする。それがどう考えても負担があることは、明白だった。だからと言って、今までの人生を否定するような行動をするべきではないとも思っていた。

 短い猶予期間を与えられて、俺が選択したのは女として生きることだった。

「特別な理由はないよ。ただ……」

 別に、何かを隠そうとしてるわけではなかった。しかし、それ以上の何かが心の中にあるのは、確かだった。

 心の整理がついてないことは明らかだったし、最後のほうは半ば流される形になっていたのは否めない。そんな俺に対して七海は追及をやめなかった。

「ただ…?」

 これは彼女なりに向き合おうとしている証拠なのだろうか。それとも、これは許せないという感情を投げられているだけなのだろうか。

「やっぱり、昔から女の子になりたいって思ってたんでしょ?」

 その言葉は心を深くえぐった。刺さったというよりも、えぐられた。

 言葉の意図は掴めなかったものの、ずっと深海の奥底に眠っていた記憶が、鮮明によみがえってきたのだ。忘れようとしていたことは、あまりにも単純な方法でそれを許さなかった。

 そのことを忘れるなんていうのは、到底無理な話だったのだ。


 なぜ素直に話してくれないのと言わんばかりの目が、とても痛かった。まるで、手に取るかのように心が読まれているような感覚だった。

 俺は、あのことを話してもいいのかと考え、躊躇していた。封印しておいたはずの記憶や思い出、そして誰よりも大切な存在だった羽衣のことを話せるような立場なのかが分からなかったのだ。

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