第5話 俺と妹の黒い関係

 俺には高校二年生の妹、七海がいる。クラスも同じなため、常に一緒に居ることがもはや当たり前になっていた。

 最近になり、七海がよく話しかけてくれるようになった。そこで、一つ分かったことがあった。七海が俺の近くに居るのは、意識的な行動なのではないかということだ。無意識的な行動というのには、少し無理があるのだ。そのことを七海に直接聞いたこともあったが、本人曰く無理をしてまでは一緒にはいないらしい。どう考えてもそれは嘘のように聞こえたが。

 その行動が意識的だとするならば、なぜ一緒に居たがるのだろう。


 今日は月曜日である。毎週規則的に訪れる、週の初めの日。それはとても苦痛なものだ。そんな俺の気持ちとは対照的に、七海は朝から元気そうだ。朝食をきちんと食べて、余裕のある表情をしていた。少しだけでいいから、その元気を分けて欲しいものだ。

「じゃあ行ってくるね」

 準備を終えた七海は、玄関で靴を履いていた。俺のことを待ってくれているのだろうか、七海の目線を感じる。そんなに念を送られても、用意が出来ていないのだからそっちへは行けなかった。

「お兄ちゃん遅い」

「まだ用意できてないんだよ」

 焦って早口になり、思わず舌を噛みそうになった。

 女としての生活を送り始めたことで、一番苦労していること。それは、髪型を整えるのにかかる時間が、以前の倍以上あるということだ。つい何か月か前まで、髪の長さなんて気にしないほどに、短髪だった。しかし、今は肩にかかるほどの長さになっていた。

 こんな生活を七海は繰り返してきたのかと思うと、頭が上がらない。むしろ、尊敬するレベルの話だ。遅いと言われないようにもっと早く準備を始めればいいのだが、朝にはとても弱い。ちなみに七海は慣れているので、俺より遅く起きるが早く準備を済ませる。女歴一七年は伊達じゃない。

 ようやく準備を終え、洗面台の近くに立てかけていた鞄を持って、玄関へと急いだ。だが、そこに七海の姿はなかった。

「七海なら外で待ってるわよ」

「そっか。いってくる」

 母も出勤の日だが、まだ時間に余裕があるのか、廊下で掃除機をかけていた。

 ドアを開けると、七海がいた。開けるのとほぼ同時に、七海が母の方を向いて元気に手を振り始めた。母はそれを見て微笑んでいた。実は、母と七海の仲がいいということは近所で有名な話である。理想的な親子の姿などとささやかれているらしい。俺から言わせてもらうと、仲が良すぎて怖いくらいなのだ。

「あんまり待たせないでよ、お兄ちゃん。遅れちゃうじゃない」

 そう言うと、七海は拗ねたような表情を浮かべた。そんなに怒るなら先に行けばいいのになんて言うと、口を聞いてくれなくなるだろうと思ったのでやめた。こう見えて、とても繊細なのである。女の子っぽいというか、少しだけ子どもっぽいその態度が、俺は好きだったりする。

「いつものことだろ」

「そうだね」

 一般的な兄妹の会話というのは、どういうものなのだろう。俺たちは最近こんな感じだ。ほんの少し前までは、あまり話していなかった。しかし、今ではこれも普通のことになりつつある。七海の俺に対する態度は、確実に変わっていた。それは、まるで羽衣がいたころの七海のようだった。

「そういえば、今は『お姉ちゃん』だったね」

 お姉ちゃんと呼ばれることに慣れるまでには、まだまだ時間がかかるだろうと思った。呼ぶ相手が七海しかおらず、めったにそう呼ぶことはないのだ。慣れなくて当然だと思った。同じく、七海が俺のことをお姉ちゃんと呼ぶことも。

「私も忘れてたから、おあいこだよ」

 お互いに頭では分かっているのだけれど、さすがに呼び方までは変えるのは難しい。ほぼ、条件反射のように呼び合っていたからだ。七海が俺のことを『お兄ちゃん』と呼ぶようになったのは、自然な流れではなかった。だからこそ、七海は無意識にその呼び方が出来るように努力していた。

 これは、お姉ちゃんと呼ぶことを忘れていたからという単純な話ではなく、もっと深い問題なのだ。


 前方を歩いていた武弥が、俺の存在に気づくと不気味な笑みを浮かべて近づいてきた。一体、何を企んでいるんだ。

「おはよう、『沙希姉ちゃん』」

「おはよう、武弥……できればその呼び方はやめてほしいかな」

 俺はいつから武弥の姉になったのだ。からかっているだけだというのは分かるが、他の人にその呼び方が伝染したらどうするつもりなのだ。そもそも同じ年だろう。

「そんな怖い顔するなよ」

「武弥が変なこと言うからでしょ」 

 武弥に遊ばれていると、いつの間にか学校の近くまで来ていた。

 一緒に居ると気兼ねなく話せる相手という部分は変わっていないけれど、このままでいいのだろうかという不安があった。これではまるで……。

「お姉ちゃん、どうしたの?」

「いや、なんでもないよ」

 七海が俺の顔を見て、何かを不審に思う顔をしていた。

 俺と武弥の関係は、ある意味で何も変化がなかった。それはつまり、俺のことを武弥は『女』だと認識していないということだと思った。あくまでも俺は、七海のお兄ちゃんであり、武弥の男友達であり……羽衣の大切な人なのである。


 朝礼開始の時間が迫っていることに気づいたのか、校門近くにいた生徒たちは少し急いで歩いていた。校門から教室棟までは距離があるので、この時間になると正面玄関までの空間は異様な雰囲気になる。つまり、走り切った表情になっている生徒や諦めてしまった生徒たちが数名いるという感じである。まだ余裕はあったものの、遅刻をしたときの反省文地獄を味うよりは急いだほうが得なのだ。

 

 教室の前までくると、紗那と由果がいるのが見えた。

「沙希ちゃんおはよう」

「おはよう、紗那。由果もおはよう」

「うん。おはよう」

 朝の挨拶というのは言葉の響きだけでいいものだ。挨拶というのは、生活における基盤で、欠かせないものだ。挨拶をおろそかにするのは、とても残念なことなのである。

 その中でも、特に女の子同士のはつらつとしたものはより良い。しかし、それをまさか自分自身が体験することになるとは思ってもみなかったけれど。このやり取りにもいつかは慣れてしまうのだろうと思うと、少し怖いような気もした。

 慣れというものは、本当に恐ろしいものだ。女体化現象やそれにより起きた様々な現象から再認識した。

「体の具合はどうなの?」

 一度保健室に運んでもらってから、紗那はたまに体調はどうかと聞いてくるようになった。気を遣ってくれているのが嬉しかった。だが、それほどに心配をかけたんだ。もし俺が紗那の立場なら、きっと同じことをしていただろう。

「あれからは順調だよ」

 あの日以降はホルモン療法のおかげで、体調が不安定になる日は減っていった。人間の体に、ホルモンがどれほどの影響を及ぼしているのかを身をもって知った。ただそれと同時に、これからは嫌でも女性ホルモン剤を摂取しなければいけないと考えると、辛い気持ちは増していくばかりであった。

 今の俺の状態は、どう考えても普通ではないのである。普通ではないからこそ、普通を装うために薬を飲まなくてはいけないのだ。それは、辛さ以外の何物でもなかった。

「沙希の胸、なんか大きくなってない?」

 そんな気持ちを振り払うように、由果は突然そんなことを呟いた。それを聞いた俺は、思わず吹き出しそうになった。突発的になんてことを聞くんだ。

 女性ホルモンの摂取を続けていく中での一番の変化は、やはり胸の大きさだった。元々、少しくらいはあった。それが女性ホルモン剤の副作用によって、より大きくなってしまっていた。

 ブラジャーをつけるようになってからは、よりそれが目立つようになってしまったのである。簡単に言うならば、潰れていた胸を綺麗に整えたらこうなった。その結果、大きくなったように見えたというわけである。それを由果が見逃すわけがなかった。

「私が気にしていない間に大きくなっちゃって。羨ましいな」

「そんなことないよ…?」

 なんとかごまかそうとそう言ってみたものの、由果の目線が怖いことには変わりがなかった。いや、そんな怖い顔をしないでください。

「教えなさい? 何をしたのかな、沙希ちゃん?」

「あ、ちょ、ちょっと…!」

 その後、芹澤先生が教室に入ってくるまで胸を揉まれたのは、記憶の海へと流したい。あと、紗那と七海が俺のことを見捨てたのは悲しかった。


 授業がすべて終わり、学校という呪縛から解放された。だんだんと教室から人が減っていくなか、俺たち四人はまだ残って話をしていた。

「そういえば七海ちゃんってさ、沙希の妹だよね?」

「私の妹だよ」

「妹の七海です」

 ちなみに、今では兄妹ではなく姉妹である。俺が姉という立場なことに実感はなかった。そもそも歳が同じなのだから、余計にそう思うのだ。ただ、どちらにせよ七海は大切な家族だ。そこに俺の性別は関係ない。

「やっぱりそうなんだ。ずっと気になっていたんだよね」

 名字が一緒なだけだと思っていたそうだ。ただ、二人でいることが多いからもしかして家族なのではないかと思ったらしい。それを言ってしまうと、紗那と由果が家族ということになってしまうのだけれど。まあ、家族よりも仲のいい友達がいてもおかしくはない。

「七海ちゃんが妹なんだ。お姉さんかなって思ってた」

「そうかな?」

 そんなこと、今まで考えたことがなかった。七海の方が姉に見えるというのは、俺が子どもっぽいということなのだろうか。少しだけ悲しくなった。

「双子ではないんだよね?」

「そうだよ」

 由果が何かに気づいてしまったのか、眉間にしわを寄せていた。

 双子ではない。もしそうならば、誕生日が半年も離れている理由が説明できない。まあ、冷静に考えればおかしな話なのである。半年ほどしか離れていないのに、兄妹なのだ。

「……二卵性の双子みたいだよね。息もあっているし」

 性格こそ違うものの、確かに俺と七海には似たようなところがある。しかし、歳の近い兄妹ならば仕方のないことなのではないか。それに一緒に行動する場面が多いことも、その要因の一つだと思う。

「どうなんだろ。ほかの姉妹と比べたことがないから、わかんないけど」

 紗那は何かを考えているようだった。声をかけるタイミングを見計らっていると、何かがひらめいたのか目線を合わせてきた。頭を悩ませていた原因は、どうも俺にあるみたいだ。

「じゃあさ、沙希の家へ遊びに行ってもいいかな?」

「急にどうしたの」

 突拍子もないことを言い出すので、びっくりしてしまった。紗那と由果は不気味な笑みを浮かべていた。それがとても気味が悪かったのは、口には出さないでおこうと思った。

「沙希と七海がどれくらい仲がいいのかを、確かめに行くのよ」

 随分と適当な理由だなと思ったが、断る理由はなかった。


「ここがあの二人のハウスね」

「いや、隣に本人がいるんですけど」

 家に着くと、紗那と由果は物珍しそうに観察を始めた。ただの古い家屋なので、特に注目するようなところはないと思うけれど。

 とりあえず俺の部屋に二人を連れてきた。七海の部屋に集まる予定だったのだが、部屋を片付けていないから変更すると言い出したのである。その選択に俺の決定権はなかった。

「じゃあ、お茶淹れてくるね」

「うん。ありがと」

 部屋から抜け出す口実を作り、しばらく休憩することにした。もちろん、二人のことを歓迎したいという気持ちはある。しかし、別の問題が発生していた。それは紗那の距離が近いということである。心理的というよりも物理的に近いのだ。もちろん、そこには問題はないのかもしれないが、俺としては少し困るのである。まだろくに女として生きていない俺にとって、女の子と肩が触れ合うような距離にいることは、ある意味で恐怖すらあるのだ。つまり、紗那は事情を知っているにもかかわらず、無警戒な態度をとってくるのである。俺を女として扱ってくれることは嬉しい。それに反するように俺はこんな見た目だが男なんだぞという気持ちもあったのだ。なぜ、そんなに無防備でいられるのだろう。

「はい、お待たせ」

 瞬間湯沸かし器を使ってはいるが、使った茶葉は俺のお気に入りのものだ。歓迎という意味も込めて、これを使った。

「ありがと、沙希」

「ありがとう」

「まだ熱いから、飲むときは気をつけてね」

 紗那と由果は口に含み、味を楽しんでいた。七海以外の人に飲ませるのは久しぶりなので、少し緊張する。一息ついたところで、由果がある質問を投げかけてきた。

「中津姉妹ってなんでそんなに仲がいいの?」

「そ、そうかな?」

 俺は事あるごとにそれを質問される。まるで、長年の付き合いがある幼馴染か恋人同士みたいだと言われるのだ。確かに、長年の付き合いがある幼馴染という表現は間違っていない。言葉の意味通りという解釈で問題はない。

「…実は、本当に双子だったりする?」

「だったりしないよ。そもそも誕生日が違うから」

 七海は夏生まれ、俺は冬生まれである。そもそも、育った環境が違うのである。今ではそれを意識することは、ほとんどなくなったけれど。俺と七海は、ただの姉妹であると同時に、ただの『家族』なのである。そこに、それ以上の意味はない。

「他の話にしない…?」

 七海がそっと助け舟を出してくれた。さり気ない心遣いをありがとう。今日の晩ご飯は、七海の好きなものを作ろうと決めた瞬間だった。


 そのあとは、特に当たり障りのない会話をした。いろいろとあったせいで、この二人とはあまり話せていなかった。そのせいか、こういった何気ない会話もすごく楽しいと感じた。

「もうこんな時間なのね」

 カーテンの隙間から微かに差していた夕日はいつの間にか無くなっていた。時計を見ると、七時くらいだった。普段であれば、晩ご飯を作り始めている時間だ。今日はスーパーに寄って行かなかったので、食材があまりない。何を作ろうか。

「由果はもう帰る?」

「うん。そろそろ帰らないと怒られちゃう」

 二人はゆっくりと立ち上がり、悲しそうな顔をして玄関へと向かっていった。

「じゃあ、また明日学校でね」

「うん。またね」

 外へと出ていき、家の中は七海と俺だけになった。先ほどまで家の中に響いていた賑やかさが一気に無くなり、聞こえるのは時計を刻む音だけのように思えた。

「家の中って、普段からこんなに静かだったっけ」

「テレビもついてないのは、珍しいかもね」

 七海と俺が会話できていなかったときは、いつもこんな感じだった。静かで、聞こえるのはテレビの音だけ。あいさつすらも、ろくに返ってこなかった。

「今日は楽しかったね。お兄ちゃん」

「そうだな。思ってたよりも楽しかった」

 七海は基本的に俺のことを家の中では『お兄ちゃん』と呼び、家の外では『お姉ちゃん』と呼んでいる。なぜか分けて呼んでいるのだ。まさか、俺に気を遣っているのだろうか。それとも、外ではお姉ちゃんとして扱わなければいけないからという理由なのか。

 口先では『お姉ちゃんとして認める』と言っていても、心の内では何を思っているのか分からないのである。そんな器用に気持ちを切り替えられるほど、人間の心は単純には出来ていない。そんなに単純なら、俺はとっくの昔にあのことを吹っ切れているはずだ。

「またいつか女子会しような」

「約一名男子みたいな人がいるけどね」

 男子みたいな人ってなんだ。男だぞ一応……見た目以外で言うならば。認めたくはないが、俺は容姿が完全に女のそれだった。

「それは言わない約束だ」

 そう言うと、七海は舌を出して照れ笑いをした。この可愛さの前では、みな平等である。我ながら本当に甘い『姉』だと思った。

「今日はありがとう。七海のおかげで会話しやすかったよ」

「お礼を言われるようなことしてないよ。お兄ちゃんが楽しかったのなら、それで満足だから」

 お兄ちゃんが満足なら……か。以前はそんなことを言うような関係性ではなかった。ほんの少しずつではあるにせよ、七海は俺と向き合おうとしてくれているのだろうか。それならば、俺もいつか七海と向き合わなければいけない日が来ると思った。いつまでも逃げられるわけじゃないのだ。

 とりあえずこうなった以上は、俺が女として精いっぱい生きることがせめてもの恩返しなのだろうか。そんなことを思いつつ、俺は台所へと向かった。

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