第6話
「おうい」
作業室から大声で呼びかけたが、返事がない。
「おうい、レドニス。どこにいるんだ」
あいつのことだから聞こえていてなお無視しているのかもしれないが、よく注意を払ってみると、この家はどうも静かすぎた。ロクドは二時間前から外出している。
「いないのか?」
ライネルは立ち上がり、廊下を覗き込んだ。ライネルはずっと居間で作業していたから、カレドアが一度も通っていないのは知っている。表の戸は開けられてはいない。知らぬうちに裏口から出て行ったのかもしれなかったが、その気配もなかった。
ライネルは台所を覗き、書斎を覗き、ロクドの使う二階の客間を覗いて、そのどこにもカレドアがいないことを確認した。ライネルは思案した。あとは寝室だけだが、そこには入らないよう固く念を押されている。
ライネルは、廊下の突き当たり——かつて自分の出てきた寝室の扉を見つめ、次いでその殺風景な部屋の中を思い出した。ライネルは吸い寄せられるように、みしみしと床板を軋ませながら、扉へと歩み寄った。
この中にいるのかもしれない。声を掛けても返事をしないのだ。少しばかり開けて、中にいるかいないか確認するくらいは許されるだろう。ライネルは把手に手を掛けた。把手が回り、仮締めが引っ込む音がしたそのとき、ライネルの手の上に別の手が重ねられた。
ライネルは硬直した。
カレドアの手だった。背後からカレドアが外気に冷え切った手を伸ばし、ライネルの手を止めていた。
まったく気配に気がつかなかった。
ライネルはぞっとしたが、振り向くことはできなかった。カレドアが囁くような小声で言った。
「ここは立ち入り禁止だ」
「何故だ。俺はそもそもここから出てきたんじゃないか」
「私の寝室にはけっして入るな。二度は言わない」
カレドアの手が強張った。そこから半透明に透き通る魔術の蔦が伸び始めるのを見て、ライネルは唸った。
「魔術を使うのはやめろ」
カレドアは返事をしなかった。蔦はぴたりと動きを止めたが、消えはしなかった。ライネルは息を短く吸い込むと、細く長く吐き出した。
「分かった」
それで、カレドアはようやく伸びかけの蔦を散らした。カレドアが一歩下がり、ライネルはようやく後ろを振り向くことができた。
「わがままだな。質問をするなと誓わせたり、扉を開けるなと言ったり」
「悪かった」
「なんだって?」
意外な言葉にライネルは思わず聞き返した。カレドアは口を噤んでいたが、一呼吸置くと、穏やかな口調で言った。
「悪かったと言ったんだ。だが、ここには入らないでくれ。とても……大切なものを仕舞っている」
「そうか」
ライネルは頷いた。
「お前がそう言うならそうなんだろう。俺のほうこそ悪かった」
カレドアは、暫くのライネルの瞳を覗き込んでいた。その奥にあるものを、なんとか掴み出そうというように。ライネルはその視線を余すところなく受け止めた。やはり温度を感じさせないカレドアの双眸は、風のない薄曇りの春の夜のように、ひたすらに黒く淀んでいた。やがてカレドアはすっと目を逸らすと、書斎の扉の把手へと手を掛けた。
「おい」
ライネルは声を掛けた。カレドアは再び此方を向いた。今度は怪訝な色があった。
「お前さえよければなんだけどさ」
ライネルは大きく笑みを浮かべた。
「いやだと言ったはずだが」
「でも、結局来たじゃないか」
「お前は卑怯だ。私の弟子を懐柔したな」
「懐柔なんかされてません」
「金なら……」とライネルは言いかけて、この件は有耶無耶にしたほうがいいと悟った。
「まあ……後で返すよ……過去のお前に。いや、この場合『先に返すよ』ということになるのか?」
「何を言ってるんだ、お前は」
カレドアは諦めたように葡萄酒を呷った。
ロクドが選んだ酒場は旅籠も兼ねるこぢんまりとした店だった。友人にときどき連れられてくるのだという。当然ライネルにとっては初めての店だが、店主とはすぐに仲良くなった。
「ライネルさんのそれって才能なんじゃないですか?」
尊敬半分呆れ半分といったロクドの視線を受け流し、おまけしてもらった仕入れたての
「レドニス」
カレドアは返事をしない。そうだった。
「おい、こいつの名前はなんだっけ?」
「まだ覚えてなかったんですか。カレドア師です」
「カレドアね」
「黙れ」
カレドアが弾かれたように返事をした。
「いいじゃないか。お前、自分で考えたのか? けっこうしっくり来てるぞ。俺ももう一つくらい名前を持とうかな」
「黙れと言ってる」
カレドアが酒器を置いた。色味の薄い耳朶まで血が上る。酔いのせいではない。弟子がぎょっとしたように自分の師を見つめ、次いで戸惑ったようにライネルを見た。ライネルがロクドの顔を見て噴き出した。
「動揺するなよ。キリカの魔術師なんかさ、全員が偽名だぜ。キリカ魔術は真名を依代にするからだが……もともと、魔術師ってそういうもんだ。独立するときに名前を変える魔術師も多い」
「そうなんですか」
ロクドがカレドアに目を向けると、再び葡萄酒を注ぎ足した魔術師が不承不承というように頷いた。
「別に、変えなくてはいけないというものではないが。一種の通過儀礼として、これまでの名を捨てるんだ。魔術師としての生を、第二の生と捉えるものもいる」
「先生はそうだったんですか?」
「お前、そんなに感傷的なほうには見えなかったけどな」
カレドアはうるさそうに手を振った。追及するなということらしい。
「おれは、名前変えたくないなあ」
ロクドが呟いた。
「父さんと母さんから貰ったものだし……」
「両親想いだな。今のうちに孝行しとけよ」
ライネルは軽い気持ちで言ったが、途端に空気が重くなったのを感じ、どうやら失敗したらしいことを知る。卓の下で、カレドアの足がライネルの足を蹴った。久々の感覚に呻き声を上げそうになったが、必死に耐える。カレドアはそっぽを向いていた。
そうこうしているうちに、料理が運ばれてきた。香草を詰めて皮がぱりぱりになるまで焼いた鶏や、煮込んだやわらかい羊の肉、焼いた甘いイチジク、丸スグリ、苺など。食べ始めると、若干の居心地の悪さは雲散霧消した。酒とあたたかい食べ物は、人の心を和ませてくれる。
「この間のはどうなった?」
ライネルはカレドアに話しかけた。
「この間の?」
「差出人のわからない届け物のやつだよ」
「ああ、あれか。なんということはなかった」
「結局なんだったんだ」
「書簡が箱にぎっしり。ケイデンからでしたっけ?」
「いいや、セタリカからだ。はるばる海を越えて」
「なんでまた」
「話すと長くなるな。ロクド」
「先生は面倒なことはすぐおれに振る」
「ま、弟子ってそういうもんだよ」
こうして他愛もない話をするのは、とても久し振りのことのような気がした。時間がゆっくり流れていた。カレドアの表情は、相変わらずライネルに向けられるときだけは固かったが、それでもこちらのほうを向いて話を聞いていた。時折は弟子に向かって微笑も見せた。その瞬間、ふと、ライネルは「このまま戻らなくてもいいんじゃないか」という思いに捉われた。その思いは、浮かび上がるや否や、風に捉われて散り散りに消えた。ライネルは唇についた酒の雫を舐め、誤魔化すように呟いた。
「しかし、本当に助かったよ。路頭に迷ってもおかしくなかったんだから」
「ずっといてくれてもいいんだけどな」
ロクドがぽつりと呟いた。そして、すぐに「すみません」と謝った。ライネルは、たった今自分が考えていたことを見透かされたような居心地の悪さを感じた。内心の動揺を押し隠すようにライネルは微笑み、蜂蜜酒を飲み干した。
「嬉しいことを言ってくれるけどな、そういうわけには行かないさ」
カレドアの瞳に探るような光があらわれた。それはほんの一瞬間の出来事だった。カレドアはライネルの言葉には触れずに、杯を空にした。そこに、ライネルは新しい酒を注ぎ入れる。酒の水面に灯りが揺れる。ライネルがごとりと置いた酒壜を、今度はカレドアが取り上げる。カレドアはここで初めて、ライネルの器に酒を注いだ。ライネルは礼を言わず、それを黙って飲んだ。
「でも、帰り方が分からない以上、まだここにいるんですよね?」
「どうかな。あの長椅子、硬いからな」
「新しい寝台買います?」
「どこに置くんだよ」
「うーん、廊下かな」
「馬鹿」
ライネルは笑い声を上げ、ロクドの肩を叩いた。
「まあ、帰り方が分かるまではいるさ。こうやって、直接街の人たちの役に立つのもいいもんだと思うよ、俺は」
「これまではそうじゃなかったんですか?」
「神殿つきは、学者だからな。名前も知らない多くの人を助けることはあるかもしれないが……まあ、みんな自分のためにやってんだ。謎を解き明かしたいという気持ちのために。誰かを救うなんていうのは二の次さ」
「個人でやっていたって同じだ」
カレドアが口を挟んだ。
「魔術師というのは元来そういう生き物だ。好奇心や私利私欲が何にも先んじる。初めから、まったく純粋な気持ちで誰かを救いたいと思って魔術師になるやつなんていない。そういうやつは、いたとしても適性がない」
「厳しい意見だな」
「事実だ」
「でも、実際先生に助けられている人は沢山いますよ。魔術師は人を救うんです」
なんとなく、カレドアよりもライネルのほうが驚いて、ロクドの顔をまじまじと眺めてしまった。
「最初の動機がどうであれ、そのこと自体は嘘じゃないんじゃないかなって思いますけど」
カレドアが無言で弟子の杯を縁まで満たした。わっ、もう飲めませんよとロクドが騒ぐのを聞きながら、ライネルはぼんやりと机の上を眺めていた。
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