第18話

 ロクドたちの不安をよそに、七日が過ぎ、十日が経っても少女と母親が再び訪れることはなかった。七日後に治らなければまた来るように言ってあったので、来ないということは、普通に考えれば「治った」ということだ。母親はかなり心配している風だったから、呑気に構えて様子を見ているなどということは考えにくい。ロクドは、全くの杞憂だったのかもしれないと思い始めていた。考えてみれば、根拠は黒子のような斑点ひとつきりだ。本当にただの黒子だったのかもしれないし、新しい黒子が突然出来ることだってあるといえばある。ファルマもあからさまにほっとした様子だった。

 あれから十日が経ったということは、燈火祭がやってきたということでもある。その日は朝から町は賑やかだった。誰もが浮き足立っている。モンノも、ここ最近の辛気臭い空気を吹き飛ばすように一際明るく振る舞った。

「二人に夜の景色を見せるのが楽しみだわ。本当に綺麗なのよ。きっとびっくりするわ」

 果たして、モンノの言ったことは真実だった。夕方になって夫婦と共に通りへと踏み出した二人は、思わず立ち止まった。町全体が幻想的な光に溢れていた。誰もが外へ出て、笑顔で思い思いのランタンを提げている。大きな通りから坂にまで、出店が所狭しと並び、やはり色とりどりのランタンを売っていた。よく知るいつものナトーレンの町の筈なのに、今夜はまるで異世界に迷い込んだかのようで、不思議な感覚だった。ふと横に視線を移すと、同じように見惚れているヨグナの瞳にも鮮やかな光が映り込んで、複雑な煌めきを放っていた。

「ねえ、綺麗でしょう?」

 得意げに笑うモンノに、頷いてみせることしかできない。モンノは出店の一つの前で立ち止まると、思い出したように人差し指をぴんと立ててみせた。

「お二人さん、手ぶらなのはよくないわよね。一つ、選んでおいで。買ってあげる」

「でも、そんな……」

 ファルマも微笑んだ。

「燈火祭にはランタンがないと。いいよ、一番綺麗なものを選んできなさい。二人で一つだけど、いいかい?」

 ロクドとヨグナは礼を告げると、二人でランタンを選び始めた。一つ一つ手作りされたのであろうランタンは、どれも色や形、模様が違う。花を象ったもの。丸いもの、三角のもの、四角いもの。重厚で装飾的な鉄の持ち手が付いたもの。モザイク状に硝子が貼りつけられた、煌びやかなもの。色も赤、青、緑、黄、紫に橙と様々だ。みな、祭りの為に燈虫が入れられて、色とりどりの美しい光を辺り一帯に放っていた。燈虫の光は、仄かに橙がかって、暖かみのある光だ。柔らかで、時々強まったり弱まったりする光は、ランタンの意匠の凝らされた風防を透かしてより幻想的に見せている。どれも異なる美しさがあって、一番だなんてとても選べない。困りきってヨグナを見ると、彼女は一つのランタンに惹きつけられているようだった。それは、小さな鳥籠のような形をしていた。青と橙とを基調とした色合いの、八枚の硝子が嵌め込まれた風防の上には、それぞれの面の周りを囲むように、繊細な唐草模様が透かし彫りされた薄い真鍮の枠が被せられている。華奢な持ち手はやはり真鍮製で、若い植物の蔓のようにしなやかに伸びている。ロクドは、そのランタンはヨグナにぴったりだと思った。

「これにしよう」

 ヨグナが驚いたようにロクドを見た。ファルマがにっこりした。

「決まったのかい」

「まあ、これは綺麗だわ。よく見つけたわね」

 モンノも同じように笑って、店の主人に代金を支払った。二人がもう一度感謝を述べると、やはりにこにこ顔の店主がロクドにランタンを手渡してくれた。ロクドは、改めてランタンの美しさに溜息を吐いた。燈虫の光が、緻密な透かし彫りを柔らかく浮かび上がらせ、幻のように見せていた。ランタンをヨグナに持たせてやる。やはり、青と橙の繊細なランタンはヨグナによく似合った。ランタンの光に見惚れるヨグナの頰は、微かに上気している。

「それじゃあ、暫く二人で楽しんでおいで。お金はあるかい?」

 燦然と輝く赤と黄緑のランタンを掲げ、ファルマは声を掛けた。今は燈虫が封じられたそのランタンも、やはり思った通り美しい光を放っていた。

「祭りの最後に、広場で合流しよう」

「最後?」

「ああ、綺麗だよ」

 詳細を明かさないまま、ファルマとモンノは人の波の中に消えていった。残されたロクドは、ヨグナと顔を見合わせる。二人は、どちらからともなく歩き出した。

普段から活気のある町ではあるが、こんなにも賑やかだっただろうかというほどに、道は人で溢れていた。もしかしたら、この祭りに参加するために外から来ている人間もいるのかもしれない。ゆったりと歩く老夫婦が、二人で一つのランタンを持ちながら、景色を楽しんでいる。反対側では、若者たちがリエール酒を味わっていた。子どもたちがお互いのランタンの色を比べ合ってははしゃぎ、その後を優しい眼差しをした両親がついていく。すれ違った男性が、ロクドたちを見てにこやかに挨拶をした。老若男女問わず、実に様々な人々がそれぞれの祭りを楽しんでいたが、その誰もに共通しているのは、みな笑顔を浮かべているということだった。ロクドは久しく忘れていた幸福感と呼ぶべき感覚が、全身に広がっていくのを感じた。横を向くと、ヨグナと目が合った。ロクドは微笑んだ。

「何か買おうか。蜂蜜酒もあるし、羊の肉や、焼いた林檎もあるよ。食べたいものはない?」

 ヨグナはかぶりを振った。

「何もいらないわ。わたし、なんだか、見ているだけで胸が一杯で……こんなにも幸せな場所に自分が今いるってことが信じられないの。こんな日が来るなんて、思わなかった」

 ヨグナの顔は嬉しそうにも、それでいて何故か淋しげにも見えた。ロクドは胸が締め付けられるような気がして、ヨグナの手を取った。

「それじゃあ、もっと景色がよく見えるところに行こう。上からなら、きっと全体が見渡せる」

 ヨグナは頷いて、ロクドの手をそっと握り返してくれた。かつて傷だらけだったヨグナの手は、今は滑らかだった。長く曲がりくねった坂道を登っていくにつれて、店は減り、ランタンを提げた人の数も疎らになっていった。大衆のざわめきや賑やかな音楽が遠のいていく。

やがて一番の高台へと辿り着くと、二人はそこから言葉もなく町を見下ろした。町は光の海のようだった。暖かな幾つもの光の点が寄り集まって、波のようにさざめいている。いつもはあまり光の届かない狭い路地も、今は同様に柔らかく照らし出されていた。ランタンの光は命の輝きだ。その光の全てが、きっと同じだけの数の笑顔を照らしている。それは、とても幸福なことだと思った。今は黒々として穏やかに波を寄せる海、ひたりひたりと肌に触れる夜風はほのかに潮の香りを含んでいる。ヨグナは、黙って町の煌めきを見つめていた。ヨグナが光ることはもう無かったが、それでもロクドには、ヨグナの内面から滲み出す清冽な光が見えるように思えるのだった。ロクドは少し躊躇ってから、口を開いた。

「ここ暫く、浮かない顔をしてただろう」

 ロクドは言った。

「おれの呪いが解決する気配がないことに、焦っているようにみえる。おれ以上に。どうして」

 ヨグナが弾かれたようにロクドを見た。その後で、手許を照らし続けているランタンに目を落とした。ランタンが微かに揺れて、青と橙との鮮やかな光の欠片がヨグナの白い横顔に踊っていた。ヨグナはのろのろと口を開いた。

「ロクドは、後悔していないの」

「おれが? 何を」

「わたしを助けたことを」

 ヨグナが顔を歪めた。

「本当は、あなたはトラヴィアにいた方がよかったんだわ。カレドアさんの弟子でいた方がよかった。この町は確かにいいところだと思うけれど、ここにいたんじゃ呪いについて情報を集めることは望めない。魔術師が一人しかいないような町では。町を出るときあなたは、恨んでいないかとわたしに聞いたけれど、わたし、本当は嬉しかった。ずっと一緒に暮らしていた小父さんが死んでしまったのに、薄情だと思う? わたしは幸せだったの。あなたに連れ出してもらって、ファルマさんにもモンノさんにもよくしてもらって、毎日が夢みたいだった。だけど、わたし、ロクドのことを考えてなかった。わたしには家族はいないけど、ロクドには家族がいるし、帰る家がある。わたしのせいで、あなたは故郷から更に遠のいてしまった、それなのに……そのことにも気付かずに……」

 ヨグナはそこで一旦口を噤んで、自分の爪先を睨みつけた。それから、こう続けた。

「ロクドが倒れているのを見たとき、とても怖かった。死んでしまうんじゃないかって……呪いが恐ろしいものだっていうことを、思い知らされた気がした。ロクド、カレドアさんの言っていたことは、きっと正しかった。わたしはあなたを害する存在だわ」

「間違いだったってきみは言うのか? おれがファルマさんたちと出会ったことも? きみと今こうしていることも?」

 ヨグナが唇を噛んだ。そしてきつく眉根を寄せたが、ヨグナの柔らかな眉間には皺は出来なかった。ヨグナは頷き、肯定の意を示した。片手で自分の髪を乱暴に掻き回し、ロクドは大きな溜息を吐いた。

「おれが見た……白昼夢の内容を話しただろう。夢の中で、おれはレドニスという子どもだった。そして、夢にはもう一人女の子が出てきた」

「名前はイーリア、だったかしら」

「きみに似ていた」

 顔を上げたヨグナが、意表を突かれたように聞き返した。

「わたしに?」

「そうだ。呪いが見せた夢の中の少女は、きみによく似ていたんだ」

 ロクドは静かに言った。

「おれの考えでは、あれは、呪いに関係する何者かの記憶の残滓だ。おそらくは――幸福な。本当は言うつもりはなかった。きみに余計な責任を感じさせたくなかったから。きっと……おれがおれの呪いを解くために、きみは必要な存在なのだと思う。根拠はないが、きみと初めて会ったときからそんな気がしていた。きみがおれの痛みを癒してくれたあの夜からずっと。だから、おれがきみを助けたのはおれの為だし、おれはおれの意志できみといるんだ。だから、きみはおれを害する存在なんかじゃない」

「わたしは……」

 そのとき、時計台の鐘の音が響き渡った。ロクドとヨグナはお互いをはっとした顔で見つめ、それから眼下の町へと目を遣った。光の点が、広場へと緩やかに流れこんでいくのが見えた。ファルマたちと合流する約束をしていたことを思い出し、二人は急いで坂を駆け下りはじめた。ランタンを持ったひとびとが、みな同じ方向へと歩いていく。広場へ行くつもりなのだ。

「おうい、ロクド、ヨグナ」

 常になく混雑した広場で途方に暮れていると、二人を呼ぶ声がした。人混みの向こうで、ファルマたちが手を高く掲げている。人の波を掻き分け掻き分け、ロクドとヨグナが夫婦のもとに辿り着くと、ファルマは愉快げに笑った。

「すごい混みようだろう。この広場がこんなに多くの人で一杯になるのは、一年に一回この日だけだよ」

「いったい何が始まるんですか?」

 ロクドは辺りを見回し、ファルマは微笑した。

「燈虫をね、放してやるんだ」

「今年もありがとう、来年また会いましょうってね」

 モンノが続け、やはり同じように微笑んだ。

 その瞬間何の前触れも無く、がやがやと喧騒に満ちていた広場が不意に静寂に包まれた。穏やかな銀色の風が一陣、音もなく吹き抜けていったかのように。

 どこからともなく、柔らかな一つの光が空へふうわりと上がっていった。

 濃紺の空に、光は一番星のように映えた。それを追うように、もう一つが浮かび上がる。ロクドがそれを目で追ううちに、広場の別の場所から、少し小さい光が。促されるように、ひとびとは次々に燈虫を解放し始めた。ロクドの隣で、あどけない少年が小さな手でランタンの蓋を持ち上げる。ぱっちりと開いた瞳に、上っていく燈虫の灯りが映り込んだ。光に向けて、少年は父親に握られていない方の手をそっと振った。空を見上げると、今や数えきれぬ光の点が舞い上がろうとしていた。それらは、真っ暗な夜空の中で瞬く美しい星々にも見えた。ゆっくりと上昇していく光の点の中で、ロクドは重力を忘れた。誰もが口を開け、黙って上を見上げている。

傍で、少し大きな灯りがまた一つ解放されたのを知る。ファルマとモンノが、二人で一つのランタンを掲げた格好のまま、去っていく燈虫を見送っていた。ヨグナがロクドの肘に手を触れ、ランタンを差し出した。ロクドがそっと上蓋に手を添えると、ヨグナも上から手を重ねる。留め金を外し、そっと蓋を開けた。ランタンを内側から照らしていた燈虫が、少し戸惑ったように揺れて、やがてふわりと浮かび上がった。燈虫の灯りはゆっくりと一回転し、他の仲間たちと同じように空へと向かう。

 ああ、帰っていく。

 ロクドはそう思った。燈虫たちは帰っていくのだ。自分たちの在るべき場所へと。

 手を重ねたままのヨグナの目から、雫が零れ落ちていた。反射して煌めくそれは、星の光だった。ふと頰に触れた指がしっとりと濡れ、ロクドは自分も涙を流していることに気づいた。

「おかしいね」

 ヨグナは涙を拭わないままに笑いかけた。

「悲しくないのに」

 ファルマが、二人の肩に手を置いた。

「特に僕たち魔術師にとって、確かに感情を抑えることは重要だ。だけど、感受性を殺してしまってはいけないよ。君たちはまだ若い、柔らかい心を持っているんだから」

 それを大切にしなさい、とファルマは言った。最後の光が空に吸い込まれて見えなくなり、静けさに包まれていた広場は再びざわめきを取り戻しはじめる。暫くの間止まっていた時が流れ出したかのようだった。ひとびとは語り合いながら、それぞれの家へと帰っていく。祭りは終わったのだ。ロクドは、空になったランタンを見つめた。今は暗がりだけを残し、鈍い色合いとなった硝子を指でなぞる。硝子は冷たかった。しかしそこには、さっきまで、確かに燈虫がいたのだ。

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