第17話
泣きそうなヨグナの声に呼び戻され、ロクドは意識を取り戻した。
目に入った窓の外の空は、真っ暗である。ひどい冷や汗をかいていた。どうやら、気を失っていたのはほんの僅かな間だったらしい。ばたばたとファルマとモンノが駆けてくる音がした。
「どうしたんだ」
「大きな音がして、部屋に見にきたらロクドが倒れてて」
ヨグナは動転しているようだった。
「腕を押さえてたの、それで、目を閉じて動かなくなって、声をかけても全然起きなくて」
「落ち着いて、ヨグナ」
「ヨグナ、おれはもう……起きてる」
身を起こすことは出来たが、出た声はかさついていた。息をしようとして失敗し、何回か咳き込む。
「何があったんだ」
ファルマが冷静に問いかけた。ロクドは、今はもう元通りになっている痣を撫ぜた。痣が少し広がっているのを見て、ヨグナが息を飲んだ。
「護符を作っている最中に、呪いの痣が――夢を」
「君に白昼夢を見せた?」
ロクドは頷いた。汗が体の表面をじっとりと冷やして不快だったが、痛みそのものは去っていたし、不思議なことに気分はそれほどひどいものではなかった。ただ、混乱していた。夢の余韻がまだ残っていた。
「夢の中で、おれはおれじゃなかった。誰か……別の……」
そこでロクドは大きく息を吸い込み、細く長く吐き出した。落ち着くことが必要だと思った。両手の指をこめかみに当て、ぎゅっと目を閉じる。
「作りかけの護符を駄目にしてしまった」
「明日作り直せばいい。詳しく話を聞きたいところだが」
ファルマはそこで言葉を切って、辺りを見回した。ロクドは未だ座り込んでいるし、ヨグナはその隣で顔を青くして、膝をついたままだ。モンノは心配そうに二人とファルマとを見ている。
「今日は取り敢えず寝なさい。二人とも顔色が悪い。ロクドには明日、朝食の後でゆっくり話してもらう。いいね?」
ロクドは了承した。ヨグナはまだ取り乱しているようだったが、モンノに宥められて部屋に戻っていった。
ところが、その約束は予定通りに果たされることはなかった。というのは四人が朝食を摂っている途中に、一人の病人が飛び込んできたからだ。ファルマはガーダルとは違って、治癒魔術の専門家ではない。しかしながら、この町には他に病を治せそうな人間がいないので、困り果てた病人がファルマのところにやってくるのは道理だった。
患者は十になるかならないかくらいの少女で、動転した母親に伴われてやってきた。なんでも、今朝から突然目が見えなくなったのだという。それを聞いて、ロクドはかつてカレドアが治さずに帰した盲目の少年のことをちらりと思い出したが、今回はどうもそういう話ではないようだった。何より、少女自身が怯えている。ファルマは髭にパンの欠片をつけたまま、母親と少女に幾つか質問をした。それからファルマは少女に目を開けさせ、幾つかの器具を使って瞳の中を入念に観察した。診察の間じゅう少女の瞳孔は開いたままで、ファルマが眩しい光を当てて見せても全く反応無しだった。まるで、眼球自体がつめたい石になってしまったかのように。最後にファルマは少女に目を閉じていいと指示し、ふと気付いたように目蓋を指差した。
「おかあさん、これは黒子ですか?」
少女の隣に座っていた母親が腰を浮かせ、そこを覗き込む。母親が奇妙な顔をして、首を振った。
「いいえ、今気付きました。そんなところに、そんなに大きい黒子があったとは思えないのだけど」
少女にも同じ質問をすると、彼女もやはり首を振った。ロクドは興味を惹かれて、同じように近くに寄り、その黒子を見た。息が止まった。心臓がきしむ音を、ロクドは初めて聞いた。その黒子は、その色は、どうしようもなく、かつてガレの男の顔に浮かんでいた斑点に似ていた。ロクドの瞳に浮かんだ動揺の色を見てとって、ファルマは眉を上げた。ロクドは何でもないというようにかぶりを振った。ファルマは、竜胆の葉に溜まった朝露と、乾燥させた銀竜草を煎じた汁とを合わせた液体を処方し、日に二度それで目を洗うよう少女と母親に指示した。七日経っても治らないようならまた来るように、と言われた母親が不安げに頷いて、少女を連れて出て行くまでの間、ロクドは全てが自分の思い違いであることを願った。今はもう何ともない筈の手袋の下の痣が、声を潜めて笑ったような気がした。
ファルマが一度部屋に引っ込んできっちり髭のパン屑を払ったあとで、ロクドはヨグナとモンノを交え、自分の懸念と昨晩の体験の一部始終を説明した。モンノは口を手で覆った。話を聞き終えたあとで、ファルマは大きな溜息を吐いた。
「おかしいと思っていたことがあるんだ」
ファルマは立ち上がり、三人を残して一旦部屋に戻った。次に戻ってきたとき、彼はドルメア公国の大きな地図を手にしていた。テーブルの上に、筒状になっていた地図を広げる。途端に丸まろうとする端をヨグナとモンノが押さえた。
「ここ最近の病の広がりのことでね」
そう言うと、ファルマは地図に印を付け始めた。
「アルメナ、ガレ、シーラ。一月ほど前には、カダイラでも病が現れたと聞く」
ロクドは頷いた。ファルマが付けた印は、ばらばらに散らばっていた。まるで法則性が見られない。
「そもそも、病であれば地理的に近いところから広がっていくはずだし、人の出入りの多い街から侵されていくのが自然だろう。この一連の流行り病は、全くその常識に当てはまらない」
ロクドはガーダルの言葉を思い出した。
「これは流行り病ではない」
思わずガーダルの言葉を口にしたロクドに、ファルマが目を上げた。ロクドは、インクを含ませた鷲ペンをファルマから受け取って、地図のネルギの位置に印を加えた。
「これは……呪いだと思います。おれの腕に刻まれたものと同じ。土地に埋められた、闇の力だ」
「しかし、呪いだとしたら……それはどこから来た? 呪いには始まりがある。理由がある」
「ガーダルさんはそれを知らなくてはならないと」
「始まりは……呪いはどこから始まった?」
ファルマは独り言を呟きながらうろうろと歩きまわると、今度は何冊もの分厚い書物を取ってきた。ドルメア公国における病の記録であるらしい。乾いた音を立てながら頁をめくっていく。
「カダイラ、シーラ、ガレ、アルメナ、ネルギ。遡っていこう」
指先がするすると記述の上を滑る。
「十五年前に、マートンで原因不明の奇病の記録がある。全身から血を噴き出し、死に至る病だ。恐ろしい早さで広まり、一月で村が滅んだという」
その横で、ロクドは別の資料を開いた。ヨグナも一緒に覗き込んだ。同様の、謎の病の記録を抽出し、洗い出していく。全身が石のように硬直する病。四肢の末端が黒ずんでいき、腐り落ちる病。眠り込んだまま、目を覚まさなくなる病。症状は多彩であったが、一月から一年の短い間に広がるという点、それ程の感染力を持ちながら一つの村や町の中で完結するという点において共通していた。
「三十年前、七十年前、百五十年前」
印が増えた地図を眺めながら、ファルマが髭を摘んで引っ張り、考え込んだ。
「ここ最近始まったものかと思っていたけれど、そうではなかったのか。誰も気付かなかっただけで……段々間隔が短くなっていたんだ」
「これ以前の資料はありませんか?」
ロクドの問い掛けに、ファルマは首を振る。
「ガーダルさんのところにはあるだろうが」
重たい沈黙が流れた。これまで黙っていたモンノがおずおずと口を挟んだ。
「ねえ、〈瘴気の大平原〉が出来たのはいつだったかしら。あれも、そうじゃない?」
ファルマがはっとしたようにモンノを見た。
「そうか、それもそうだな」
地図に大きく丸を付ける。
「しかし、そうなるとそれより前に遡ることはできなくなるな。〈大平原〉の資料がこの国に現存するもので最も古い」
「そうなんですか?」
「それ以前のこの国の資料は、何故か残っていないんだ。あの頃はまだ今のように安定した国ではなかったから、紛争で焼けてしまったのかもしれないな」
「そうなると、今のところ始まりは〈瘴気の大平原〉?」
ヨグナが聞いた。
「そうだね。それに、この一連の記録を並べてみると〈大平原〉だけが明らかに異質だ。かつて〈大平原〉で起きた何か、それが重要なんだ、きっと」
ロクドは印の散らばった地図を見つめた。散り散りの点は全く繋がろうとしない。しかし、それは何者かの意図が働いているはずのものなのだ。
「そうだ……」
何者かが意図的に、何らかの目的のために。
声を漏らしたロクドを、三人が振り向いた。
「誰かが呪いを始めたんだ。誰かが。そもそも呪いと魔術は本質的には同じでしょう。術者の死後も続いている魔術なんて有り得ない。術者なしではたらきつづける魔術があるとしたら、殆どの魔術師は必要なくなってしまう。そう考えると、〈瘴気の大平原〉の呪いが今も続いているのは不自然じゃあないですか?」
「呪いによる汚染だけが残っているんじゃあないかしら?」
「五百年もの間? そんなはずはない。〈大平原〉の呪いは全く衰えていない」
ファルマが心ここにあらずといった調子で否定した。
「それに、村に埋められた呪いが今になって勝手に芽吹くというのも、考えてみればおかしい。そもそも何の目的で埋められたんだ? それに、この呪いが作用している以上、禍の種を埋めた張本人は生きていなくてはおかしい。しかし、今回の件が〈大平原〉と繋がっているとすると」
「いや、そんな馬鹿な……考えにくい。まさか、ルースの理に綻びが?」
「それは僕も考えてみた。しかし」
「トラヴィアの風車は回り続けている」
ヨグナが囁いた。
「そうだ、ルースの力は何ら変わっていない。理は正常にはたらきつづけているはずだ。これはあくまでも人災だと考えるべきだと思う」
「ということは……しかし、こんなにも長い間……」
ロクドは声を詰まらせた。四人は黙りこくった。
五百年間、呪いの為に生き続けている人間がいるというのか。もしそんな人間がいるとしたら、いったいどれほどの闇と憎しみを抱えているというのだろう。
闇と、呪いと、憎しみと。
果たして、それは人なのだろうか。
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