第19話

 祭りから二日経って、予め決まっていたことだったように、ファルマの家へと少女が運ばれてきた。目が見えなくなったと言って、以前母親に連れられて来たあの少女だった。ファルマが癒しの魔術を処方してから、七日目には一度彼女の目は快方に向かったように思われたと言う。今夜になって、突然ひどい全身症状が現れたのだそうだ。

 少女は四肢を突っ張り、筋肉を強く緊張させていた。目蓋に一つだけだった斑点は、今や両目を囲うように集簇し、手足にも同色のまだら模様が広がっていた。手の指や足の爪先は青みがかって、乾燥していた。

 モンノが取り乱した母親の肩を抱いた。ファルマはロクドと目が合うと、ゆっくりと首を振り、視線で指示を出した。夫婦は、母親を別の部屋へと連れて行く。厳しい選択を迫らなくてはならない。

 ロクドは部屋の四隅で漆の蝋燭に火を灯し、穏やかな性質を持つ沈水香木の香を焚いた。それから、紫水晶を砕いた粉と、塩とを用意する。ヨグナが絞り出したような掠れ声で、ロクドに問い掛けた。

「治せないの?」

 ロクドはそこにかつての自分の姿を見て、目を伏せた。

「治癒魔法は人の自然治癒力を高めるものにすぎない。全ての病を消し去り、切り離された足を生やし、流れ出た血液をもとに戻し、失われた生命を呼び戻すような魔術があったなら、それは奇蹟と呼ばれるべきものだよ」

 だから、ガーダルもガレの男を安楽死させたのだ。治癒魔術も、結局はきっかけと方向性を与えるという基礎の応用だ。何者も生命の理に干渉することはできない。それこそ世界の理から外れ、人であることをやめ、闇の力に従わないことには。

 ロクドは、紫水晶と塩とで少女を囲む円を描いた。それから、カミツレと山査子から絞った汁に人差し指を浸し、苦しげな少女の額に印を描く。少女の身体から微かに力が抜けた。ロクドの行為は、サリマトの儀式の再現だった。ロクドは少女に瑪瑙を握らせた。

「ヨグナ。彼女の手を、握っていてくれないか」

 ヨグナは頷き、少女の手をしっかりと握り締める。

 思ったよりも早く、夫婦と少女の母親とは姿を現した。母親は目を酷く泣き腫らしていた。ファルマは儀式の準備がすっかり整っているのを確認し、静かに頷いた。彼が魔術書を取りに行こうとするのを、ロクドは制した。

「おれにやらせてください」

 ファルマはそこで少し躊躇ったようだった。僅かに間をおいて、もう一度首肯する。

 ロクドは細く息を吐き出し、首飾りの菫青石に手を当てた。石は青みを増し、ぼんやりと光を放つ。魔術書は必要なかった。初めの句を口にすると、後に続く呪文は自然に滑り出した。

 この小さな少女の魂が、全ての苦しみから解放されることをロクドは願った。呪文は仄かに光る薄い布となって、少女の華奢な身体を柔らかに包んだ。魔術のベールが重なる度に、少女の表情は安らかなものになってゆく。ファルマとモンノの心が、少女の母親にぴったりと寄り添っているのをロクドは意識の隅で感じた。静かな部屋に、ロクドが詠唱する声だけがそっと降り積もっていった。

 詠唱を終えるまでに、二時間がかかった。呪文の中の祈りの句を念を入れて三回繰り返したからだ。少女の母親は、少女の亡骸をいつまでも抱き締めていた。彼女に夫はなく、今はもう死んでしまった少女に父親はいないのだった。モンノが母親の肩をもう一度優しく包み、ファルマがこれはあなたのせいではないと言った。そして、この子は光によって選ばれ、天上へ上るべくして上ったのだと言った。母親は頷いた。

 全てが終わったあと、ファルマはロクドを労った。

「おれに任せてくださって、ありがとうございました」

 ロクドはそれだけ言うと、紫水晶の粉の入った瓶を持ったまま部屋を出た。

 頭がぐちゃぐちゃになりそうだった。ナトーレンで、呪いが現れた。ついに現れてしまった。ロクドは右手で口元を覆い、背を壁に付けた。後頭部がごつりと音を立ててぶつかる。胸が苦しくて、ロクドは浅い息をした。何も受け入れたくなかった。右手がずるずると滑り落ちて、首飾りに引っかかる。

 ヨグナが扉を開け、廊下に立ったままのロクドを見た。

 その瞬間、左手の痣が激しく痛み、ロクドは瓶を取り落とした。紫水晶の欠片が床一杯に散らばって煌めく。そこを踏みつけて駆け寄るヨグナの姿が、滲んだ視界に映った。何かの言葉と共に伸ばされたヨグナの指が肩に触れ、その瞬間、全てが歪み、収束し、膨張した。ごうごうと世界が回転し、ロクドの肉体をばらばらにしようとする。瞼の裏に赤と白の幾何学模様が鋭く弾ける。光と音の氾濫、その先に待ち受ける無限の闇と静けさ。空間が裂け目を作り、ロクドの足元に虚ろに口を開ける。その底知れぬ暗がりの淵に、ロクドはヨグナもろとも落ちていった。

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